吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     三国志 4

■曹操と関羽との美談

<本文から>
 関羽は、ふと、眼をしばだたいた。二大人の境遇に考え及ぶと、すぐ断腸の思いがわくらしいのである。
「ご芳志のもの、二夫人へと仰せあるなら、ありがたく収めて、お取次ぎいたそう。−長々お世話にあずかった上、些少の功労をのこして、いま流別の日に会う。…他日、萍水ふたたび巡りあう日くれば、べつにかならず、余恩をお報い申すでごギちう」
 彼のことばに、曹操も満足を面にあらわして、
「いや、いや、君のような純忠の士を、幾月か都へ留めておいただけでも、都の士風はたしかに良化された。また曹操も、どれほど君から学ぶところが多かったか知れぬ。−ただ君と予との因縁薄うして、いま人生の中道に袂をわかつ。−これは淋しいことにちがいないが、考え方によっては、人生のおもしろさもまたこの不如意のうちにある」
 と、まず張遼の手から路銀を贈らせ、なお後の一将を顧みて、持たせてきた一領の綿の袍衣を取寄せ、それを関羽に餞別せん−とこういった。
「秋も深いし、これからの山道や渡河の旅も、いとど寒く相成ろう。・・・これは曹操がが、君の芳魂をつつんでもらいたいため、わぎわざ携えてきた粗衣に過ぎんが、どうか旅衣として、雨露のしのぎに着てもらいたい。これくらいのことは君がうけても誰も君の節操を疑いもいたすまい」
 綿の袍を持った大将は、直ちに馬を下りて、つかつかと覇陵橋の中はどへすすみ、関羽の駒のまえにひぎまずいて、うやうやしく綿袍を捧げた。
「かたじけない」
 関羽はそこから目礼を送ったが、その眼ざしには、もし何かの謀略でもありはしまいかとなお充分警戒しているふうが見えた。
「−せっかくのご餞別、さらば賜袍の恩をこうむるでごさろう」
 そういうと、関羽は、小脇にしていた偃月の青龍刀をさしのべてその薙刀形の刃さきに、綿のホウを引っかけ、心らりと肩に打ちかけると、
「おさらば」と、ただ一声のこして、たちまち北の方へ駿足赤兎馬を早めて立ち去ってしまった。
「見よ。あの武者ぶりの良さを−」
 と、曹操は、ほれぼれと見送っていたが、つき従う李典」干禁、許楮などは、口を極めて、怒りながら、
「なんたる傲慢」
「恩賜の袍を刀のさきで受けとるとは」
「丞相のご恩につけあがって、すきな真似をしちらしておる」
「今だっ。−あれあれ、まだ彼方に姿は見える。追いかけて!・・・」
と、あわや駒首をそろえて、馳けだそうとした。
曹操は、一同をなだめて、
「むりもない事だ。関羽の身になってみれば、−いかに武装はしていなくとも、こちらはわが麾下の錚々たる者のみ二十人もいるのに、彼は単駒、ただひとりではないか。あれくらいな要心はゆるしてやるべきである」
 そしてすぐ許都へ帰って行ったが、その途々も左右の諸大将にむかって、
「敵たると味方たるとをとわず、武人の薫しい心根に接するほど、予は、楽しいことはない。その一瞬は、天地も人間も、すべてこの世が美しいものに満ちているような心地がするのだ。−そういう一箇の人格が他を薫化することは、後世千年、二千年にも及ぶであろう。其方たちも、この世でよき人物に会ったことを徳として、彼の心根に見ならい、おのおの末代にいたるまで芳き名をのこせよ」と、訓械したということである。
 このことばから深くうかがうと、曹操はよく武将の本分を知っていたし、また自己の性格のうちにある善性と悪性をもわきまえていたということができる。そして努めて、善将にならんと心がけていたこともたしかだと云いえよう。

■天下三分の計

<本文から>
「おお。ねがわくは、忌博なく、この際の方策を披瀝したまえ」
 と、玄徳は、襟をただす。
「湧室の衷兆、蔽いがたしと見るや姦臣輩出、内外をみだし、主上はついに、洛陽を捨て、ただ今も失わないのは、長安をのがれ給い、玉車に塵をこうむること二度、しかもわれら、草奔の微臣どもは、憂えども力及ばず、逆徒の猖獗にまかせて現状に至る−というじゅう状態です。、ただ今も失わないのは、皎々一片の赤心のみ。先生、この時代に処する計策は何にしますか」
 孔明は、いう。
「されば。−董卓の変このかた、大小の豪傑は、実に数えきれぬほど、輩出しております。わけても河北の袁紹などは、そのうちでも強大な最有力であったでしさつ。ところが、彼よりもはるかに実力もなければ年令も若い曹操に倒されました」
「弱者がかえって強者を什す。これは、天の時でしょうか。地の利にありましょうか」
「人の力−思想、経営、作戦、人望、あらゆる人の力によるところも多大です。その曹接は、いまや中原に臨んで、天子をさしはさみ、諸侯に令して、軍、政二つながら完きを得、勢い旭日のごときものがあり、これと鉾を争うことは、けだし容易ではありません。−いや。もう今日となっては、彼と争うことはできないといっても過言ではありますまい」
「・・・ああ。時はすでに、去ったでしょうか」
「いや。なおここで、江南から江東地方をみる要があります。ここは孫権の地で呉王すでに三世を歴しており、国は峻岨で、海山の産に富み、人民絡は悦服して、賢能の臣下多く、地盤まったく定まっております。−故に、呉の力は、それを外交的に自己の力とすることは不可能ではないにしても、これを敗って奪ることはできません」
「むむ。いかにも」
「−こうみてまいると、いまや天下は、曹操と孫権とに二分されて、南北いずれへも綺足を伸ばすことができないように考えられますが…しかしです…唯ここにまだ両者の勢力のいずれにも属していない所があります。それがこの荊州です。また、益州です」
「おお」
「荊州の地たるや、まことに、武を養い、文を興すに足ります。四道、交通の要衝にあたり、南方とは、留易を営むの利もあり、北方からも、よく資源を求め得るし、いわゆる天府の地ともいいましょうか。−加うるに、今、あなたにとって、またとなき僥倖を天が授けているといえる理由は−この荊州の国主劉表が優柔不断で、すでに老病の人たる上に、その子劉埼、劉環も、凡庸頼むに足りないものばかりです。−益州(四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野広く、ここも将来を約されている地方ですが、国主劉璋は、至って時代にくらく、性質もよくありません。妖教跋巵し、人民は悪政にうめさ、みな明君の出現を渇望しております。−さあ、ここです。この荊州に起り、益州を討ち、両州を跨有して、天下に臨まんか、初めて、曹操とも対立することができましょう。呉とも和戦両様の構えで外交することが可能です。−さらに、竿頭一歩、漢室の復興という希望も、はや、痴人の夢ではありません。その実現を期することができる…と、私は信じまする」
 孔明は、力説するところは、平常の彼の持論たる
=支那三分の計=であった。
一体、わが大陸は広すぎる。故に、常にどこかで騒乱があり、一波万波をよび、全土の禍いとなる。
これを統一するは安易でない。いわんや今日においてはである。
 いま、北に曹操があり、南に孫権ありとするも、荊州、益州の内野五十四州は、まだ定まっていない。
 ちと、遅まきながら、起つな、らば、この地方しかない。
 北に拠った曹操は、すなわち天の時を得たものであり、南の孫権は、地の利を占めているといえよう。将軍は人の和をもって、それに鼎足の象をとり、もって、天下三分の大気運を興すべきである−−と、孔明は説くのであった。

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