吉川英治著書
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     三国志 3

■呂和が捕まる。元部下から侮蔑を受ける

<本文から>
  まず第一に、呂和が引立てられて来た。呂布は身長七尺ゆたかな偉大漢なので、団々と、巨大な鞠の如く縄をかけられたため、いかにも苦しげであった。
 自門楼下の石畳の上にひきすえられると、彼は、階上の曹操を見上げて、
「かくまで、辱めなくてもよかろう。曹操、おれの縄目を、もう少しゆるめるように、吏へ命じてくれ」と、いった.
曹操は苦笑ををたたえて、
「虎を縛るに、人情をかけてはおられまい。−しかし、口がきけないでも困る。武士
ども、もうすこす手頸の縄をゆるめてやれ」
すると、主簿の王必があわてて、遮った。
「滅相もない。呂布の猛勇は尋常な者とはちがいます。滅多に憐憫をかけてはなりません」
 呂和は、はったと王必を睨めつけて、
「おのれ、要らぎる差し出口を」
 と、牙をむいて噛みつきそうな顔をした。
 そしてまた、眼を階下に並居る諸将に向けた。そこには魏続や俣成や宋憲など、きのうまで自分を主君とあがめていた者が、曹操の下に甘んじて居並んでいる。−呂和
は、眼をいからして、その人々の顔を睨めまわし、
「汝らは、どの面さげて、この呂布に会えた義理か。わが恩を忘れたか」
 侯成は、あぎ笑って、
「その愚痴は、日頃、将軍が愛されていた秘院の女房や寵妾へおっしゃったらいいでょう。われわれ武臣は、将軍から百杖の罰や苛酷な束縛は頂戴したおぼえはあるが、将軍の愛する婦女子ほどの恩遇もうけたためしはありません」と云い返した。
 呂布は、黙然と、うなだれてしまった。

■曹操は簡明で感情を表にだす、玄徳は臆病

<本文から>
「途々、当今の英雄についてだいぷしゃべってきたが、予にはまだ書生論を闘わした時代の書生気分が抜けていないのか、談論風発は甚だ好むところだ。きょうはひとつ、大いに語ろう」
 彼は胸襟をひらいて、赤裸の自己を見せるつもりでいう。
 いかにも自然児らしく、今なお洛陽の一寒生らしくも見える。
 だが、そのどこまでが、ほんとうの曹操か。
 玄徳は、彼の調子にのって、自分の帯紐をといてしまうような風は容易に示さない。
 玄徳が、曹操の程度に自己を脱いで見せれば、それはすっかり自己の全部を露呈してしまうからともいえよう。!−玄徳は自分をつつむのに細心で周到であった。いや臆病なほどですらある。
 よく取れば、それは玄徳が人間の本性をふかく観つめ、自己の短所によく悼み、あくまで他人との融和に気をつけている温容とも心がけともいえるが、悪く解すれば、容易に他人に批をのぞかせない二重底、三重底の要心ぶかい性格の人ともいえる。
 すくなくも、曹操の人間は、彼よりはずっと簡明である。時おり、感情を表に現わしてみせるだけでも、ある程度の腹中はうかがえる。
 −が、そうかといって、玄徳は肛ぐろく曹操はより人がよいとも、云いきれない。なぜならば、彼が現わしてみせる感情にも、快活な放言にも、書生肌な胸襟の開放にも、なかなか技巧や機智がはたらいているからである。むしろそれは自分からくだけて相手を油断させる策とも見えないことはない。ただ曹操の場合は本来の性質でするそれと、機智技巧でするそれとを、自分でも意識しないでやっているところがある。だから彼自身は、決してふたつのものを、挙止言動に、いちいちつかい分けているなどとは思っていないかもしれない。

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