吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     三国志 2

■士を愛する曹操−敵兵を味方にする

<本文から>
 「貴様たちには、およそ人間を観る目がないな。士を遇する情けもない奴だ。−はや
くその縄を解いてやれ」と、案外な言葉であった。
 それもその害。曹操はこの許渚と悪来とが、火華をちらして夕方に迫るまで闘っていた一昨日の有様を、とくと実見していたので、心のうちに(これはよい壮士を見出した)と早くも、自分の幕下へ加えようと、目算を立てていたからであった。
 曹操から、俺の敵と睨まれたら助からないが、反対に彼が、この男はと見込むと、その寵遇は、どこの将軍にも劣らなかった。
 彼は、士を愛することも知っていたが、憎むとなると、憎悪も人一倍強かった。−許堵の場合は、一目見た時から、愉快なやつと惚れこんで、(殺すのは惜しい。何とかして、臣下に加えたいが)と、考えていたものだった。

■玄徳が失敗した張飛に「兄弟は手足である」と諭す

<本文から>
 玄徳は、張飛のそばへ歩み寄って、病人をいたわるような言葉でいった。
「張飛よ。落着くがいい。いつまで返らぬ繰り言をいうのではない」
 優しくいわれて、張飛はなおさら苦しげだった。むしろ苔で打ッて打ッて打ちすえてほしかった。
 玄徳は膝を折って彼の手を握り取り、しかと、手に力をこめて、
「古人のいった言葉に−兄弟ハ手足ノ如ク、妻子ハ衣服ノ如シ−とある。衣服はほ
ころぶもこれを縫えばまだまとうに足る。けれど、手足はもしこれを断って五体から離したならいつの時かふたたび満足に一体となることができよう。− 忘れたか張飛。われら三人は、桃園に義を結んで、兄弟の杯をかため、同年同日に生るるを求めず、同年同日に死なんと−誓い合った仲ではなかったか」
「……はあ」
 張飛は大きく鳴咽しながらうなずいた。
「われら兄弟三名は、各々がみな至らない所のある人間だ。その欠点や不足をお互いに補い合ってこそ始めて真の手足であり一体の兄弟といえるのではないか。そちも神ではない。玄徳も凡夫である。凡夫のわしが、何を以て、そちに神の如き万全を求めよう。−呂布のために、城を奪われたのも是非のないことだ。またいかに呂布でも、なんの力もない我が母や妻子まで殺すような酷いこともまさか致しはすまい。そう嘆かずと、玄徳と共に、この後とも計をめぐらして、我が力になってくれよ。・・・・張飛、得心が参ったか」
「・・・・はい。・・・・はい。・・・・はい」
張飛は、鼻柱から、ぼとぼとと涙を垂らして、いつまでも、大地に両手をついてい
た。
玄徳のことばに、関羽も涙をながし、そのほかの将も、感に打たれぬはなかった。

■玄徳暗殺を下策を退ける曹操の明瞭な頭脳

<本文から>
「玄徳はさすがに噂にたがわぬ人物ですな」と、意味ありげに、独り言をもらした。
「むむ」とうなずいたのみで曹操が黙然としていると、萄或はその耳へ顔を寄せて、
「彼こそ将来怖るべき英雄です。今のうちに除いておかなければ、ゆく末、あなたにとっても、由々しい邪魔者となりはしませんか」と、暗に殺意を唆った。
 曹操は、何か、びくとしたように、眼をあげた。その昨は、赤い焚光を放ったように見えた。
 ところへ、郭嘉が釆て、曹操からその相談をうけると、
「とんでもない事です−」といわんばかりな顔して、すぐ首を横に振った。
「彼がまだ無名のうちならとにかく、すでに今日では、義気仁愛のある人物として、劉玄徳の名は相当に知られています。もしあなたが、彼を殺したら、天下の賢才は、あなたに対する尊敬を失い、あなたの唱えてきた大義も仁政も、嘘としか聞かなくなるでしょう。一人の劉備を怖れて、将来の患いを除くために、四海の信望を失うなど
は、下の下策というもので、私は絶対に賛成できません」
「よく申した」
 曹操の頭脳は明澄である。

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