吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     大岡越前

■防火体制を敷く

<本文から>
  (捨てておけない)
と、かれは、市井の悪党以上、この災魔をなくすことの方を、急務と、信じたのであった。
 そこで彼は、火災を起した火元の罰則を立て、大火となったときは、さらに、町名主以下、家主、地主たちにまで、連帯の責任を問う法令をもうけた。
 が、むしろ、火の出ないうちの、予防策に、かれは重点をおいた。
 市中にたくさんな、火防地を設けた。
 家屋の構造に、それまで制約されていた条件(たとえば、大名武家以外は、瓦葺きの屋根はできなかったなどの )を撤廃し、自由に、防火本位の家を、たれでも建てられるように、市政を改めた。
 また、消防組を、新たに、組織させた。
 全市の、各町ごとに、常備の駈付け火消しを、三十人ずつおいて、ジャンと鳴れば、競って、鳶口、まといを振り出して、消火に協力する。いや、これを競わせて、功ある組を、表彰した。
 江戸″いろは″四十八組の創案は このときからといわれている。
 だが、土木だの、交通だの、風紀だの、火事だのという地味な行政は、なかなか、市民の注目をひかない。
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■吉宗を諌める

<本文から>
 八代将軍の職をうけてから、吉宗はまだ幾年にもなっていない。彼の革新的抱負は、甚だ、果断で勇敢には見えたが、その実績は、なお思うようには、行われていない。
 形は、変るが、中は変らないのだ。威令には伏するが、内実の腐敗は、かえって、被る殻を強くさえしている。
 悪習の根はふかい。弊政の禍因は遠い。それを、一朝にして、改革しようと意気ごんで職についた三十五歳の新将軍は、近頃ほとほと理想と現実との、遠さを、またいかにその実現のむずかしく、行われ難いものであるかを 敗軍の将のように痛感していた。
 宦官的な側用人、無能で倭智ばかりもつ賄賂好きな役人、それにつながる御用商人やら、腐れ儒者やら、大奥と表を通う穴道の雑人やら、どしどし罷免したり、入れ更えたりしたが、それらの前代、前々代からの城鼠が、影をひそめたと見えても、作用は決して止んでいない。むしろ、″陰の声"や ″陰の動き″を複雑にし、吉村をして、時には、いらいらさせるのが見える。
 正面の弊政改革にしてもそうなのだ。改廃の令はしきりに出たが、その精神と実績は少しも生きて応えて釆ない。退けられた大物の顕官や一派の学究などから、批判めいた声は町ヘコソコソ洩れてゆくが、吉宗の眠から見ても、社会がよくなったとは少しも見えない。
 吉宗自身、着ものは紬、袴も唐桟木綿、食事も田舎好みときめ、大奥、表とも、質素をむねとし、諸民一般へも、同様な素朴と健康な耐乏を求めたので、その評判も、おもしろくない。
 北町奉行中山出雲守の報告によれば、いちど減った市中の氾出非者も、昨年あたりから、急激にまた殖え出しているという。−そして、南は知らず、北の奉行所は、つねにそれらの罪人で充満しており、牢舎の増築は、焦眉の急であるといっている。
 いったい、牢舎の増築は、何を意味するものか。
 吉宗は、考えざるを得なかった。
 北町奉行はそれを誇りとしている。果たして、誇りだろうか。−ということよりも、新将軍たる吉宗自身の安んじられるところだろうか。
 彼の年少時代にはあった本来の野性。そして野性から磨きあげられた情熱と理想とは、大きな人間群の実態にぶつかって、近来、手も足も出ないような気もちに追いこまれかけていた。−あとの行く道は、このまま美衣美食に肥えたぬるい神経のもち主となって、大奥に寵姫の数を殖やし、将来、無益で徒食の権利だけのある子どもを幾十人も生ませ、塗炭の民の上に、金殿玉楼の、生ける身の柩をもって老いを待つだけの事でしかない。
 とても、吉宗に、我慢のできた生活ではない。一膳めし屋の飯の味や、肉を売る闇の女が夜蕎麦売りの灯に舌つづみを打っている姿も知っている彼だ。どれほどそっちの方が生き甲斐ある人間らしい生命かとも思うのだろう。 何しろ、彼は、その事について、胸を割って語りあえる者は、越前守一人と、ひそかに思っていたのである。
 が、その越前を、朝暮に、胸にうかべながら、ここ数カ月は、令をもって、招きもできない事情であった。かれが、痛心を深めたのは、越前の為というよりは、彼自身のためでもあった。
 いまかれの口から、将軍家こそ罪悪の元兇であるといわれたとき、吉宗は、一とき、嚇としたが、とたんにまた、この日頃、聞きたいと思っていた言葉をいきなり聞かされたような心地もした。− じいんと、鼓膜から頭へかけて、応えたものを瞼にささえて、しばらく、眼をとじているうちに、彼の心は、
 (そうだ。その通りである!)
と、叫んでいるのが自分でもはっきり分った。自分とはべつな声を以てである。
 だが、吉宗は間もなく、その声を、自分のものと、はっきり認めた。さすがに、彼はこの時もう、越前守の意中を、充分に見てとった。
 伊勢の山田奉行であった時から、すでに二、三の事件で、御三家たる紀州家を相手どって、地方民のため、頑として、法を曲げなかった剛毅なる彼を〜まぎ、今、目の前に見たからである。
「奉行。よくこそ、そこを問うてくれた。おん身ならでは、幾世にもわたる罪悪の府、将軍家の科を、裁き得る者はない。−吉宗を裁け、吉宗は、白洲に坐した気もちで聞くであろう」
 彼は、率直に、座を退がった。
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