吉川英治著書
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     鳴門秘帖(2)

■阿波の嫌疑

<本文から>
   一方、その日の目安箱は、常例のとおり、評定所づきの役人の手から、御小人目付、奥坊主、御用番の順をへて、江戸城本丸の将軍家休息の次の間にすえられていた。
 やがて、将軍自身の出御がある。
 月番御用取次は、立花出雲守。
 ズーと、お座所の前へそれをすすめて、
 「ただ今、評定所の目安箱、お表より上がりました」といった。
 「ウム」
 当時の将軍家は、十代家治であった。軽くうなずいて紅錦の嚢をとりだす。いわゆる肌着のお巾着、守り鍵とともに添えてあるのを、
「開錠せい」と、小姓頭高木万次郎の手に渡した。
 ピンと、箱の錠をあけて、中の投書を揃え、将軍家を揃え、将軍家の前へさし出して、空箱は元どおりの順に下げ渡される。
 家治はそれを持って、楓の間へ入った。
 四、五通の書類であった。槻の間は密室なので、小姓頭以外のものは近侍しない。上から順にくり拡げて目を通してゆくと、やがて、将軍家の眼に、異様なかがやきが流れた。
 それは、弦之丞が書いて、万吉が投げこんだあの奉書七、八枚の長文である。
 「ウーム……これは容易ならぬことじゃ」
 息を殺して黙読して行くうちに、家治は強い衝動をうけた。今、柳営の春は和光にみち、天下は凪のごとく治まっていると思いのほか、いつか西都に皇学の義が盛んに唱えられ、公卿と西国大名の間に、恐るべき叛逆の密謀が着々として進んでいるというのは、なんとしても彼だけには、不審であった。
 しかも、党之丞の上書には、歴然と、それが箇条書きに並べられてある。そして、蜂須賀阿波守がその反幕府派の盟主であることが、指摘されてあった。
 阿波第一の不審は、十年前から、領土に他国人を入れぬ制度をとったこと。
 第二は、安治川の船屋敷で、堂上公卿たちとしばしば密かな会合を催すことっこと。
 第三は、宝暦変の時に、倒幕の先鋒であった竹屋三位卿が、幕府の目をくらまして失踪の後、いつか同家の食客となっていること。
 等、等、等、いろいろ家治の心胆を驚かさぬものはない。さらに、別札には、それに ついて、琵之丞の目的である、一通の嘆願書がそえてあった。
 願書は、甲賀家の私事に筆をおこしている。
 今から十一年前に、その内秘をさぐるため阿波へ入国した世阿弥の蹄末。また、その一子が女であるため、昨年改易されて甲賀家のたえたことを誌し、最後に、自分は仔細あって、阿波守の身辺に摸しもし、また世阿弥の所在を知りたいこともあるので、烏滸ながら、公儀の隠密として、阿波探索の密命を仰せつけられたい  という熱願の文面であった。そしてなお委細のことは伝手を求めて、元の京都所司代、松平左京之介の手もとまで、言訴してある由をつけ加えてある。
 弦之丞が、目安箱を利用して、わざとこうした手段をとったのは、代々木荘で鴻山と左京之介との相談でやったことだが、一つには、お千絵の幸福のため、甲賀家の再興のためでもあった。いかに自分が苦心しても、公ならぬ、一個の法月弦之丞としてやった
 仕事では、無意味である。
 目安箱のききめはあった。
 それから十数日の後、松平左京之介、突然お召状をうけて本丸へ伺候した。果たして、将軍家は、楓の間の御用箪笥から、弦之丞の嘆願書をとりださせ、阿波の嫌疑や、甲賀家のことや、弦之丞の身がらについて、さまざまな下問があった。
 この日、将軍家は左京之介に、何か、大事な密命をさずけたらしい。それかあらぬか、左京之介は屋敷へ帰るとすぐに、常木鴻山を別室に招いて、密談数刻の後、使いを飛ばして、一月寺にいる弦之丞を呼びにやった。
 吉報を待ちわびていた弦之丞、この日だけは歩くのももどかしく思ったか、駕を急がせて、駈けつけてきた。
 そして、松平家の奥へ入った。
 たしかに、この夜、かれは松平家の脇門から、奥座敷へ入ったに相違なかった。だが−どうしたのだろう? 幾日たっても、法月弦之丞、あれっきり屋敷から出た様子もなし、また、一月寺へも帰ってこない。
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