吉川英治著書
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     鳴門秘帖(1)

■阿波謀反の疑惑を探る

<本文から>
  二人の失脚は、宝歴変の折だった。−明和二年の今から数えて八年前、京都で起こったあの騒動−竹内式部の密謀が敗れ、公卿十七家の閉門を見、式部は遠流。門人ことごとく罪科になって解決した−あの事件の時、天満組の常木鴻山も俵同心もすばらしい活躍をした。
 が、その後が悪かった。余り二人の手腕が切れ過ぎて禍いとなった。
「これは根が深いぞ−」と、初め鴻山は考えたたのである。
「倒幕の大事などが、長袖の神学者や、公卿ばかりで謀れるものではない。黒幕がある!傀儡師がある!たしかにある!」と固く信じた。
 「あるとすれば−どこの大名であろう? 無論西国、一体西国大名は、機さえあれば風雲に動きやすい。島津か、毛利か。いやことによるともっと意外な…」鴻山の苦心へ、俵同心や万吉も、骨身を惜しまずいろいろな機密を探って耳に入れた。
 阿波二十五万右の蜂須賀重喜、まだ若くはあるが英邁な気質、うちに勤王の思想を包み、家士の研学隆武にも怠りがない、−前には式部を密かに招いて説を聞き、領土の浜では軍船を仕立てて陣練の稽古をしたともいう噂である。
 「ウーム、黒幕は海の向うだ」鴻山は意を得たりとした。「阿波は由来謎の国だ。金があって武力が精鋭、そして、秘密を包むに都合のいい国、一朝淡路を足がかりとして大阪を断り、京へ根を張る時は、西国大名と呼応して屈強な立場 捨ておいては一大事である」
 すぐ意見を書いて城代酒井侯へ差しだした。
 ところが、御城番、町奉行、所司代誰あって耳を藷す者なく、彼の上書は嘲笑の種となって突ッ返された。わまり、どれもこれも事勿れ主義。
「そんな馬鹿げた後ろ楯にはなりますまい。阿波は松平の御姓を賜わり、代々、将軍のお名の一字をいただくほどの家筋じゃ」
「だからいけない!」鴻山はいよいよ説を持した。「それほど、阿波の力が大きいのだ、将軍家でも怖れているのだ」と、周囲に構わず、俵同心に探りの手を入れさせた。が、その活動に移らぬうちに、二人は譴責! 出仕に及ばず−という形式をとられた。
「二人とも天狗が過ぎた」「名声に酔って、いわゆる妄想狂になったのだろう」などと喧しい周囲の侮声に耳を掩って、鴻山と一八郎はなおその信念はまげず、それから七年、ただ阿波の内情を探ることにのみ腐心してきた。
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■旅川周馬とお十夜が結託し法月琵之丞を狙う

<本文から>
  法月琵之丞が江戸へ帰る!
 これは、旅川周馬にとって、まことに、由々しい脅威である。
 かれは今、世阿弥の残した秘財と、実しいその息女とに、色慾の二道かけて、さまざまな画策をやりぬいている最中だ。
 そのお千絵様はどこにいるか?
 その財宝とは何をさすのか?
 これはひとり周馬の黒い腹の中にあることで、もとより、お十夜などには、おくびにも洩らす筈がない。
 かれはただ、この凄腕のある孫兵衛−丹右流の据物斬りに、妖妙な技をもつお十夜を、うまく利用しようというつもりなのである。
 で、この間うちから、ここへ来ているお綱を、孫兵衛がつけ廻しているのも知っていながら、わざとそしらぬ顔をして、すべての様子を察知した上、予定どおり、巧みに孫兵衛を抱きこんでしまった。
 しかし。
 お十夜とて、一筋縄でいくしれ者ではない。かれがお綱の口から法月弦之丞という名を洩らされていなかったら、おそらく、周馬の舌も操ることがむずかしかった。
 ところが、相手という者が、お綱の恋する弦之丞−ときいて、彼の心がにわかに変わったのである。すぐに加担する気になった。
 「よし! おれが殺してやろう」
 その言葉に、多寡をくくった調子が十分にあった。で、今度は、周馬が大事をとって、
 「待ちたまえ」
 と、かれの暴虎の勇を押さえた。
 「なんでけ」
 「下手をやると失敗する。なにせよ法月隼之丞は、夕雲流の使い手で、江戸の剣客のうちでも鳴らした腕前、さよう…貴公と拙者と二人がかりで、やッとどうかと思われるくらいだ」
 「ほほう、夕雲流をやるやつか……」これは孫兵衛の初めてしるところだった。イヤ、その人となりのみならず、お十夜は、まだ今日までの間に、弦之丞という者に、面接したことがないのである。
 もとより、その腕前が、どれほどなものか、尺度は周馬の話でも分らない。
 とにかく、撲りに撲った悪玉と悪玉とが、この夜、手を結んだのは、弦之丞の身にとって、怖るべき不幸の兆だ。
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