吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     無明有明(2)

■お兼が恋敵を助ける決意

<本文から>
 「何日? 何日?」
 「今夜」
 「えっ、ほんと」
「だけど、誰にも黙ってるんだよ。−そして、お父さんに会いに行くんだから、今日中に、ここを引っ越してしまうのさ」
「越すの、ここの二階を」
 菊太郎は、住み馴れた二階を、きょろりと見廻した。
 お兼の着がえが壁に懸かっているほか、道具らしい物は、何もない二階だった。
 夕方、鰻井を取って、階下の家族たちへも振舞った−、お兼は、永らく世話になったが、都合で親戚の家へ移るからと云って、煎餅屋の家を出た。
「おばちゃん、ほんとにお父さんの家へ行くのかい」
 手を曳かれて、町を歩きながら、菊太郎は何度もそれを訊くのだった。
「ああ、だけど、今夜はお父さんは、よそのお屋敷へ行ってるから、外で待っていて、そして−緒に何処かへ行くとしようね」
「うれしいなあ」
 菊太郎は、雀躍りして、彼女の故に纏わった。
子供を連れ歩いていることは、兇状持ちのお兼に取って日明しの眼を晦ますーつの偽装術にもなっていた。
 けれどお兼は、今となっては、真実、菊太郎が可愛ゆくて堪らなかった。−この可愛いい可憐しい子の口から、その親の名を聞いた時、彼女は余りにも皮肉な宿命に驚いて、
 (さては、自分にとっては、生涯の門出に放れた恋仇の子であったか)
 と、一度は憤然として、突き放そうかと思った程であったが、菊太郎の無邪気さが、薄々その無邪気な口から聞き得た事情を知ってみると、もう遠い過去の怨みを根に持って、北条貢やその妻の鶴江を呪岨する気にはなれなかった。
 そればかりか、お兼はかえって、その後の鶴江や責に強い同情を持った。味方になってやろうという気持さえ起したのである。
 で−今日、その責に、心をこめたヒ首の贈り物をして、あの朱黒子屋敷の牢獄を破って逃げるように、それとなく暗示を残して来たのであるが、もし、貢が逃げれば、その疑いは当然、自分へかかって来る。
 恐ろしい悪党仲間の掟!
 頭領の竹原檀四郎は、すぐ手下の浪人にいいつけて、
 (お兼を殺ってしまえ)
 と煎餅屋の二階へ襲って来ることも知れている。
 お兼は、その先手を打って、あの二階を捨てて来たのである。そして今夜、朱黒子屋敷から逃げる筈の北条責を外で待っていて、菊太郎を彼の手に渡してやろう。そして自分も、どこかへ姿を晦ましてしまおう。
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■藤懸左平太に騙される

<本文から>
  「そもそも、七年以前の暴風雨の夜に、この貢を、御城内で召腐らせようとしたのも其方、また、幕府へ密告したのも其方。その他、汝の紆策は、今思えば一事々に思い出される。それを、その頃は、ただ情深い友と思うて、騙されているとは知らず、心からおのれを信じていたのが誤りの因だった」
 −いやいや、それは御身のひがみと云うもの。この藤懸左平太は、今でも、昔の誼みは忘れておらぬ。−その証拠には、そちの会いたがっている鶴江も、菊太郎も、皆わしの屋敷に匿って、
「世話してあるのを、知るまいが」
「なに鶴江を……あの菊太郎を……」
 妻子の名を聞くと、彼はもう、何ものも頭には無くなっていた。−藤懸に対する疑惑すらも。−また、自己がいかに危険なところにある身かも。
 「オオ、嘘と思うなら、拙者と共に、屋敷へ来てみるがいい」
 「ほ、ほんとか…左平太」
 「会わせてやろう。会いたかろうが」
 貢の弱身を巧みに衝くと、貢は、泣かんばかりに、
「ああ、会いたいー‥…妻に。菊太郎に。……だが左平太、それ程、この身を思ってくれる旧友の貴様が、何でここへ、捕手をつれて、わしを召捕りに向って来たか。その人数の指挿者になって来たのか」
「ウウム、それを知っているのか。いやもっともだ。−しかし北条、貴様は今、天下に身の置き場もない、公儀で御詮議の大罪人ということは弁えているだろうな」
 「知っている! それは分っている」
 「然らば、この藤懸が先頭に立って釆なくても、何日かは、ここへお上の御人数が、御身を召捕りに来ることは定まっておろうが。−もし、その折に、まったく旧縁も誼みもない者が宰領として来れば、其方はどうするか」
 「斬り死にするばかりのこと。−覚悟はいつでもしておるのだ」
 「では、妻子にも、会いたくないか」
 「えっ……」
 「死ぬにせよ、絆に就くにせよ、その前に、一目でも、鶴江や菊太郎に会ってやろうとは思わぬか。−また、あのかよわい妻子達の、行末を思わないか」
 「思う……何で思わずにおられよう。……そればかりを思うているが、どうすることも出来ないのだ」
 「そウれ見ろ。……それが人間として当然なことだ。この藤懸左平太が、心にもなく、捕手の先頭に立って来たのは、その功の代りに、どうかして彼の妻子だけは、助けてやりたいものと考えればこそ来たのだ。心にもなく、召捕りに来たのだ。 ―そして町奉行所へ引っ立てる途中、休息という名目で、この左平太の屋敷の内で、一目でも、そちと妻子に、最後の別れをさせてやろう。−そう思えばこそ参ったのに、この左平太を恨むなどとは……ああやはり貴様も友の心を 知らぬ奴だ」
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■その晩の事件の波紋

<本文から>
 その晩の事件が、どんな大きな波紋を後に拡げたか、禍を生んだか。−そして自分も現在、その中にあることすら、お兼は後のことは、何も知らないのだった。
 彼女はただ、その晩の目撃した事実を述べるだけだった。
 「わたしは翌朝、お役人衆が来ると、もう怖くって、ロもきけなかったんですけれど、ほんとは、その強盗が誰だか知っていたんです。震えながらでも、見ていたので、間違いではございません」
 「一体、それは何者だ」
 「貴方が訊くから話したんじゃありませんか。− あの藤懸左平太でしたよ」
 「げッ? ……ほ、ほんとか」
 「何で嘘を云いましょう」
 「なぜその時、役人にそう云わなかったのか」
 「後の崇りが恐かったからです。あの藤懸とは水茶屋の娘時代から知っていますものね。−それに主人だって、奉公したばかりの家だし、関り合いになっちゃつまらないと思って、すぐ暇を取って飛び出してしまいましたからね」
 「ああ! ……おまえは飛んだ横着をしちまったなあ」
 「どうしてですか」
「北条貢が、今日のような破滅になったそもそもの原因は、その佐渡幸を殺した下手人というので、お役を剥がれ、突然、御城内で召捕られたのが始まりだ」
「何ですって、北条さんが佐渡幸へ這入った押込みの下手人?……冗談云っちゃいけませんよ」
「でも、あの折、北条貢の愛用していた、景樹の歌を彫った煙管が、死骸のそばに落ちていて、それが証拠となったのだが」
「みんな彼奴の小細工でさあね。……佐渡幸を飛び出してから、私も悪党の仲間にひき込まれ、蛇の道はヘビで、あの左平太ならそんなことは朝飯前の仕事ですよ」
 「それをまた、今日まで、黙っていたのは、どういうわけか」
 「北条さんに嫌疑がかかっていたと知っていたら、すぐにも証人に出たでしょうが、そんなこととは霹ほども知らないし、また左平太がやったのを見てはいたものの、こっちもいわば兇状持ち、悪党仲間とすれば珍しくないし、そこにゃあ仁義もありますからね」
 「……いいことを聞かしてくれた。これで、北条責は汚名も晴れ、場合に依っては、公儀の罪も御赦免になるかも知れぬ」
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■雲水の石禅の正体

<本文から>
  土佐守は世評のように、一見鈍愚のようで、少しも明断蒙らしいところはない。藤懸左平太から見れば、なおさら駁し易い奉行と見ていたことであろう。で左平太は、今日まで奉行も与力も、巧みに自分の策に使っているものと考えていた。
 ところが土佐守は、何事も、左平太の証文を身オとして聞きながら、事実は、彼の行状から、彼が秋元家に取り入って、その婿となろうとしている野望だのまた、九馬之丞の亡父権堂弥十郎の役席の後釜を彼が野望に持っていることまで、殆ど、今日まで、いつ白洲を開いてもいいまでに、調べ上げていたのである。
 さすがに、悪智に長けた左平太。
 さては!−と一瞬に四囲の不利を覚ったらしかった。突然、捕手の一角を突き什して、ばらばらと彼方へ逃げ出した。
 「悪魔ッ、何処へ」
 と、彼の駈けて行った前に、大手を拡げて立ちはだかった者がある。
 権堂九馬之丞と、雲水の石禅であった。
 あれから二人は何処で、互いに胸を開いて、旧怨を洗って来たのだろうか。
 ともあれ、雲水の石禅は、今日まで包んでいた仮の法衣を脱いで、今こそとこう名乗った。
 「左平太見忘れたか。よう見よわしを。顔も姿も変えていた為、誰一人わしとは気がつく筈はなかったであろうが、こう云う自分こそは、其方らが江戸城の御小納戸に勤めおる頃、納戸頭をしておった小梨半兵衛じゃ」
 半兵衛の声は、わななき琴えた。北条貢が罪せられて、天下の詮議人と呼ばれた後も、半兵衛一人は、頁の潔白を云い立てて恨まなかった。そして遂に、役目も捨てて、僧になると云って姿を消してしまった物照った。
 鶴江と北条頁を撃合わせた媒人も、実にこの親切な納戸頭であった。その昔任も感じてのこと一はであろうが、長年、陰になり日なたになって、鶴江や菊太郎を庇って来た旅僧が、その人であろうとは北条貢すらも、知らなかったのである。けいしや かかるうちに、お兼は駕を飛ばして、元品川芸妓の女師匠お勝をここへ連れて来た。
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