|
<本文から> 「何日? 何日?」
「今夜」
「えっ、ほんと」
「だけど、誰にも黙ってるんだよ。−そして、お父さんに会いに行くんだから、今日中に、ここを引っ越してしまうのさ」
「越すの、ここの二階を」
菊太郎は、住み馴れた二階を、きょろりと見廻した。
お兼の着がえが壁に懸かっているほか、道具らしい物は、何もない二階だった。
夕方、鰻井を取って、階下の家族たちへも振舞った−、お兼は、永らく世話になったが、都合で親戚の家へ移るからと云って、煎餅屋の家を出た。
「おばちゃん、ほんとにお父さんの家へ行くのかい」
手を曳かれて、町を歩きながら、菊太郎は何度もそれを訊くのだった。
「ああ、だけど、今夜はお父さんは、よそのお屋敷へ行ってるから、外で待っていて、そして−緒に何処かへ行くとしようね」
「うれしいなあ」
菊太郎は、雀躍りして、彼女の故に纏わった。
子供を連れ歩いていることは、兇状持ちのお兼に取って日明しの眼を晦ますーつの偽装術にもなっていた。
けれどお兼は、今となっては、真実、菊太郎が可愛ゆくて堪らなかった。−この可愛いい可憐しい子の口から、その親の名を聞いた時、彼女は余りにも皮肉な宿命に驚いて、
(さては、自分にとっては、生涯の門出に放れた恋仇の子であったか)
と、一度は憤然として、突き放そうかと思った程であったが、菊太郎の無邪気さが、薄々その無邪気な口から聞き得た事情を知ってみると、もう遠い過去の怨みを根に持って、北条貢やその妻の鶴江を呪岨する気にはなれなかった。
そればかりか、お兼はかえって、その後の鶴江や責に強い同情を持った。味方になってやろうという気持さえ起したのである。
で−今日、その責に、心をこめたヒ首の贈り物をして、あの朱黒子屋敷の牢獄を破って逃げるように、それとなく暗示を残して来たのであるが、もし、貢が逃げれば、その疑いは当然、自分へかかって来る。
恐ろしい悪党仲間の掟!
頭領の竹原檀四郎は、すぐ手下の浪人にいいつけて、
(お兼を殺ってしまえ)
と煎餅屋の二階へ襲って来ることも知れている。
お兼は、その先手を打って、あの二階を捨てて来たのである。そして今夜、朱黒子屋敷から逃げる筈の北条責を外で待っていて、菊太郎を彼の手に渡してやろう。そして自分も、どこかへ姿を晦ましてしまおう。 |
|