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<本文から>
「解らぬ……解らぬ……。わしは、人間というものがわからなくなった。……この世の中がわからなくなった……」
ほろほろと、こぼれた涙を、あわててこすッて、腕ぐみの中に、もう生涯この首を上げたくないと云うように − 顔を深く埋めてしまった。
彼が、自分自身で、具に訊きとった事実は、藤懸左平太の云った程度のものではなかった。あんな薄弱な証拠などは、町奉行としても、殆ど、問題にしていないのだという。
南町奉行同心、逆井雷助から、上司へ差出してある「北条責・素行罪状書」というものを見れば−それは小梨半兵衛も親しく見せてもらったところであるが、それに拠ればーざっと左のような箇条書に分けてある。
一、北条貢は、結婚以前、その実家勘当中に浪人、悪徒の群れと交わり、殊に、諸国諸街道に浮浪の結びを持つ兇盗「朱黒子組」に身を匿しいたることあり。
一、その実証には、北条貢の左手くろぶしには朱黒子の入墨あり。公儀お役付のため、徒党の浮浪人より、手切金の強請をうけ、窮するの余り、遂に、佐渡幸方へ押込みに入りたるものと思考せらる。
一、佐渡屋幸助の死体のそばには、北条貢所持の鍍煙管、及び鼻紙など遺棄しあり。煙管は彼が数カ月前に紛失のよし平常に云いふらしていたる由なれど、彼の住居に近き質店に、下男風の男、両度まで、衣服などと共に、北条家の頼みなりとて、入質に来り、その後受け出したる事実あり。(別紙に質屋調べの口上書上)
一、速刻、北条貢方の住居、家探しの結果、左の物件、証拠として見出し、悉皆、南町奉行所へ差出しおきたり。
床下より、黒木綿忍び頭巾、当夜差し換えの無銘の刀一本、血糊によごれたる足袋一足。台所裏手、物置小屋の中より、佐波幸より盗み出せる金子(刻印あり)二百両。
なおその調書には、簡単ではあるが、北条家の見取絵図まで添えてあって、垣の外の小溝に落ちていた傘の骨までが、何らかの意味ありげに記載されてあった。−さすが組下思いの小梨半兵衛も、これを突きつけられた時は、二の句も次げず、ただ茫然と、世の中の怖ろしさに、身を疎ませてしまったのである。 |
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