吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     無明有明(1)

■北条貢への罪状

<本文から>
 「解らぬ……解らぬ……。わしは、人間というものがわからなくなった。……この世の中がわからなくなった……」
 ほろほろと、こぼれた涙を、あわててこすッて、腕ぐみの中に、もう生涯この首を上げたくないと云うように − 顔を深く埋めてしまった。
 彼が、自分自身で、具に訊きとった事実は、藤懸左平太の云った程度のものではなかった。あんな薄弱な証拠などは、町奉行としても、殆ど、問題にしていないのだという。
 南町奉行同心、逆井雷助から、上司へ差出してある「北条責・素行罪状書」というものを見れば−それは小梨半兵衛も親しく見せてもらったところであるが、それに拠ればーざっと左のような箇条書に分けてある。
 一、北条貢は、結婚以前、その実家勘当中に浪人、悪徒の群れと交わり、殊に、諸国諸街道に浮浪の結びを持つ兇盗「朱黒子組」に身を匿しいたることあり。
一、その実証には、北条貢の左手くろぶしには朱黒子の入墨あり。公儀お役付のため、徒党の浮浪人より、手切金の強請をうけ、窮するの余り、遂に、佐渡幸方へ押込みに入りたるものと思考せらる。
 一、佐渡屋幸助の死体のそばには、北条貢所持の鍍煙管、及び鼻紙など遺棄しあり。煙管は彼が数カ月前に紛失のよし平常に云いふらしていたる由なれど、彼の住居に近き質店に、下男風の男、両度まで、衣服などと共に、北条家の頼みなりとて、入質に来り、その後受け出したる事実あり。(別紙に質屋調べの口上書上)
 一、速刻、北条貢方の住居、家探しの結果、左の物件、証拠として見出し、悉皆、南町奉行所へ差出しおきたり。
 床下より、黒木綿忍び頭巾、当夜差し換えの無銘の刀一本、血糊によごれたる足袋一足。台所裏手、物置小屋の中より、佐波幸より盗み出せる金子(刻印あり)二百両。
 なおその調書には、簡単ではあるが、北条家の見取絵図まで添えてあって、垣の外の小溝に落ちていた傘の骨までが、何らかの意味ありげに記載されてあった。−さすが組下思いの小梨半兵衛も、これを突きつけられた時は、二の句も次げず、ただ茫然と、世の中の怖ろしさに、身を疎ませてしまったのである。
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■北条貢は加賀作として金菱家の跡目になる

<本文から>
  (−加賀作を跡目にする)
 と、金菱家の当主が、不意に発表した時も、親戚の者は、皆、
 (えっ? 加賀作を)
 と意外に思って、
(それは、どうかのう?)
 一人も、即座に賛成はしなかった。
 けれど、当主は、
 (百幾人かの雇人のうちでも、あの男にまさる男はない。侍の次男や、金持からの養子は御免じゃ。あの男なら、金菱家を譲っても、わしは心配なしに眠がつむれる)
 と云って、遂に決めてしまったことだった8
 しかし、当主が、そう決めてもいざ当人の加賀作は、なかなかうんと云わなかったらしい。それを説伏するには、ずいぶん当主が膝づめで話し込んだとも云われている。
 それ程、見込まれた加賀作という人間は、ではどういう男かというと、それは今からおよそ六、七年前に、まだ生れて間もない乳呑み児をかかえ、飛騨の方か富山街道を下ってくる途中、この五百石村の軒端に立って、嬰児の乳をもらって歩いていた漂泊の旅の者だったのである。
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■石禅が助けにはいる

<本文から>
 「ウム、お坊さんじゃ。お坊さんというものは、人を助けても、決して、人様に悪いことはせぬものじゃ、安心してわしと一緒に来るがよい」
 「どこまで」
 「どこまでも!」
 「いやだア、そんなに何処までも、行くのいやだ」
 「だから云うているじゃないか、お父さんに会う所までと」
 「じゃぁ、お城のある町までだろ」
 「だけどそこにいなかったらーもしかいない時には、もっと少し先まで歩かなければいけない」
 「うん……」
 「よい子だのう坊やは」
 「おじさんは何ていう名−」
 「石禅」
 「石禅さんか。‥…石禅さんはなぜ坊やをあそこから連れて来たの」
「あぶないから。……あのまま坊やがあそこにいたら殺されてしまったかも知れないだろ。……だから阿弥陀さまのおいいつで、おじさんが救いに行ったのだよ」
 石禅と自分で名乗った雲水は、もう五十を越えている年配だった。菊太郎も初めのうちは恐怖を抱いていたが、手を引かれて歩くうちに、すっかり石禅に馴ついてしまった。
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■鶴江は生きていた

<本文から>
 彼女にはもう自分を泣く涙はなかった。
 余りにそれは、泣ききれない、嘆ききれない−この七年だった。
 忘れようとしても忘れ得ない−あの暴風雨の晩から。
 そして、目黒川の紙漣小屋から。
 品川宿の貝殻横丁から。
 また、六郷の鮫洲川の水底から。
 今日までの流転を−数奇な運命を−鶴江は、どうして生きて来られたのかと、自分の今ある身を、不思議に思う。
 藤懸左平太の毒牙に追われて、鮫洲川に身を躍らせた時こそは、もう、死の一途と、観念していたのである。
 あの時−
 鮫洲川の橋の故にいあわせた二人の駕屋が、救い上げてくれなかったならば……?
 鶴江は、その恩に、有り難いと思っていいか、何処まで業のふかい不運と思っていいか、今もなお、分らない気がする。
 茶屋女に売られたり、屋敷づとめのお下脾に入ったり、手内職をしたり、物売りになったり、この七年のあいだは、激流の中に弄ばれてゆく木の葉のように生きて来た。
 だが、衣食の途を得ることは、少しも国難ではなかった。彼女が死を以て守りつづけている貞操を捨てるならば−。
 しかし、それを捨てない女だと分ると、何処の巻からも、彼女の美貌はかえって苛酷な鞭で追われた。−そして次の生きる道へさまよわなければならなかった。
 (こういうものだったのか)
 彼女は、世間を知った。
 また、教えられた。
 世間を観る眠が深くなってゆく程、世間に対して、彼女はべつな生きがいを感じ出して、
 (克ってみせる)
 という強いものが、いつか胸の底に強固なものとなっていた。けれど、そういう希望と信念が心にすわったと思うと、紙すき小屋で働いていた頃から患っていた眼が、いよいよ悪くなって、西へも東へも、自分の身を向ける方角さえ失ってしまった。それからは、まったくの無明の人となっていた。
 失明はまた、同時に、彼女の媚よわい手から、衣食の途も奪り上げてしまった。 −こういう運命の闇に立った時、女が、ただ一つ生きるすべは、美貌のほかになかったが、鶴江は、あらゆる行きずりの男性の手から、死を賭して、それを拒みつづけて来た。
 曹女−
 かなしい職業のすがたが、彼女を、果てしないさすらいへ導いて行った。−江戸の町娘でいた頃に、習うともなく知った唄切れの−小唄、よしこの、潮来、富本、蘭八などのうろ覚えや、旅の空で耳にする雉唄などを、街の者や、旅籠の相客などの、求めるままに、弾いて唄って。
 時にはわれとわが唄につまされて、思わず、唄が涙となる時もあったが、鶴江はいつも、
 (生命さえあれば−)
 と、良人や子に巡り会うのを、心に描いて、生きて来た。−無明の身に有明の日を抱いて生きつづけて来た。
 「あぶないっ−」
 誰か、突然、吸鳴った。
 彼女が、次の森田の宿場へようやくかかって、さびしい田舎町を歩いていた時である。
 もう陽は落ちて、黄昏れの色が、北国特有な低い軒ならびに淡くただよっていた。面を撫でる風に−
 (ああもう夜・…)
 と思って、こよいの旅宿を考えながら、佇んでいると、叱られたのである。
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