吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     源頼朝2

■頼朝は時勢に乗り老武者までも味方にする

<本文から>
 そうして、向う山と此っ方山との対陣は、朝から午の刻までつづいた。
 戦わぬうちから、勝算歴々なものとして、平家の陣が、いやに落着きこんでいた理由は午の刻を過ぎると、ようやく分った。
 かねて頼朝とは宿怨のある伊豆の伊東祐親入道の到着を待っていたものらしく、伊東二郎祐親の軍勢およそ三吉は、ここへさして来ると、わざと、平家の陣地たる星山へは登って来ずに、頼朝、時政たちの源氏の踏まえている陣地からもう一つ先の山へ登ってしまった。
 そして源氏の陣所の山と自分等の占めた高地とで、ちょうど、挟み撃ちにする形態をとった。
 「伊東の入道が着いた」
 「備えは成った」
 「いで、一揉みに」
 と星山の頂きから、やや戦気がうごき出した頃、はるか丸子河の下流のもう海辺に近い辺りの森から、むくむくと黒煙の揚がるのが眺められた。
 「やっ。あの火の手は?」
「大庭どのの舘の辺りではないか」
「そうだ。大庭どののやしきが焼けている」
 立ち騒いでいるところへ、物見の者の駈け上がって来て云うには、三浦一族の者から大祖父と仰がれている三浦大介義明が、八十余歳という高齢の身をひっさげ、先には、子の義澄を頼朝方へ出陣させてあるが、それでもなお、不安として、留守居の身寄りや召使の端まで狩りあつめ、手勢百七、八十の兵を作って、遽に、海ぞい道を駈けつけて丸子河原に陣し、手はじめに大庭景親どのの館を焼き立て、その勢いなかなか侮り難く見えまする−とのことであった。
「え。あの老人が?」
 と、平家方の将は、顔を見合せた事だった。その煙よりも、八十余齢という白髪の老武者が、それ程まで、頼朝の挙兵に、熱意をもっている点が疑われたのである。
 どうして、そのような老齢な一族の長や、時政のような分別者が、「若いものの火悪戯」に過ぎないと思われるこんな暴挙に、さまで熱情をもつばかりか、一族の運命を賭してまで組するのか?
 今。義明の襲来と聞いてもまだ分らないところに、平家方の軍勢三千余騎の美々しさと、愚かな威容とがあった。
 もっとも中には、
(さもあろう)
 と、密かに、むしろ会心の事とまでして、肯定していた人もある。
 渋谷庄司や、熊谷直実などは、身を平家方に置いてはいるが、火悪戯と人の視る若い者の精神が、決して暴でなく不遣でもなく、必然、このままではいない時勢の先に立って、よく天の啓示をつかんでいる男児たちであることを知っていた。
 知っていながら、その時代精神をもった信念の敵へ、弓をひかねばならないのも、複雑な世間の性質やら侍で立つ者のむずかしさだった。
 飯田五郎という郎党がある。大庭景親の家来だった。その男なども、
 (飛んでゆきたい)
 と思うほど、実は、頼朝に日頃から志を寄せ、今も、向う山の源氏の陣地を見ていたが、主人景親という者を持っている身で、どうにもならなかった。
 なお、三千の平家軍のうちには、そうした者は幾人かあったろう。−なぜならば、平家は平家の既成勢力しか誇るものはなかったが、頼朝のほうは、誰も頼朝や、一時政の力を悼みとはしていない。
 天の味方を力としていた。
 天とは、もちろん、時勢のことをいう。大きな時の転回を見とおして、その方向を誤たず、正しく地に立ち上がった姿勢の上に輝く天のことである。
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■五百の頼朝が二万を引き連れてきた広常の遅参を怒った

<本文から>
 四、五の将も、そこへ出て、
「道を開け。その駒の群れを、彼方へ移せ」
 などと指図していた。
 広常は、間もなく、陣所へ近く来て、ゆらりと駒を降りた。−そして士卒を遠く立たせ、嫡男以下の肉親だけを従えて、幕の近くまで進み、
 「これは上総介広常でござる。一族、近国の輩など狩り催し、二万余の同勢をひきつれ、ただ今あれに到着いたしました。この由、佐殴まで、お披露なねがいとう存ずる」
 朝露に濡れた陣の幕は、雨に晒されたように重たげに垂れていた。−広常のことばをそのまま伝えて、武士は、頼朝のすがたの見える幕の下に脆いていた。
 「……」
 いつまでも、頼朝が唇をむすんでいるので、辺りの将たちは、彼の面へ瞼をあつめていた。大河の水の前に夜明けの光の白々とした下に見ても、その面は、配所にいた頃とは、別人のような黒さと強靭さを見せていた。
 「畏れながら、お耳へ達しまする。ただ今、上総介広常穀には、二万余騎をお味方にひきつれ…」
 再び、取次の武士が云いかけると、石橋山の谷間以来、久しく聞かれなかった頼朝の大声がいきなり、
 「ならぬっ! 追い返せ」
 と、大喝した。
 幾条もの幕の彼方に、かなり拒ててはいたが、その声は、上総介のいるあたりへも、十分に届く声量であった。
 「頼朝が安房より進軍してから、はや幾日になると思う。その間に、合戦あらば、二万十万の兵とて、間にあわぬ味方だ。− 遅れ馳せは、武士の第一に忌むところである。左様な者は頼朝と事をするには足らぬ。目通りはならんっ、疾く帰れと云え!」
 主従の隔てはべつとして、頼朝とは一心同体と信じている人々にも、頼朝のことばは、実に思いもうけぬ事だった。
 千葉、土肥、北条など居あわせた諸将は誰もが皆、ハッと顔色を変えずにいられなかった。
 第一に恐れた。
 上総介広常の耳へも聞えたであろう事を。
 第二には憂えた。
 せっかく味方に来た二万の軍勢が、為に、離反して行くことを。
 第三には、疑った。
 頼朝の頭脳を。怒り。
 そして、茫然の那に、やや割れ気味さえ湛えて、頼朝の怒っている ほんとに怒りきっている苦々しげな面を−生唾のんで見すえていた。
 正当だ!
 これでいいのだ!
 大喝を発して、ぼっと熱した耳朶をしながら、頼朝は大きく唇をむすんだまま、自分の胸へ自分で云ているように黙りこくっていた。
 幕の裾から倉皇と退がって行った取次の武士は、陣外に庁んで案内を待っている上総介へ、主君のことばを、そのまま、伝えるしかなかった。
 まこと
 「真に、お気の寺な仕儀でござるが」
 云い難そうな口吻で、そう伝えかけると、広常は、もう聞いていたのであろう、
「ご機嫌がお悪いようでごぎりますな。ご不興を蒙ったかどは、幾重にも、広常が落度に相違ござりませぬ。 自身、御前に罷り出で、篤とお詫びいたさねはばなりませぬゆえ、もう一度お目通りのおゆるしを賜わるように、左右の方々へも、お取傲しの儀願い入りまする」
 と、頭をさげた。
 辞色も静かで、丁寧には云っているが、上総介広常も、土のような顔色をしていた。心のうちの穏やかでない事は当然わかる。
 二万の兵をつれて、子や孫や一族どもまで語らい、ここへ見参に来ながら、頭から今のように叱りつけられて、何でそのままこの陣門を退がられよう。老将が、この年まで覚えない恥をさえ感じたにちがいない。−身も震えてくる、侍の面目をじっと噛んで操ぐ心を踏み怺えているにちがいなかった。
(中略)
将門は歓びの余り、結びかけていた髪のむすびも結びあえず、冠をつけて客座に出て来た。その様子の軽率なのに、秀郷は、愛想をつかして戻って来たということが云い伝えられている。
 頼朝のきょうの態度は、見上げたものと云っていい。今、天下は平相国の領地でないところはなく、平家の与党の住まぬ地は一郷一村とてない程なのに、一流人から起って、わずか三十余日、麾下の武者とて五、六百の小勢に過ぎぬ微弱を以て、この広常が、二万の大兵をひきつれて加担に罷り出たとあれば、将門が秀郷を迎えたよりは、大歓びに歓ぶかと思いのほか、
遅参の条、緩怠至極。
 と怒ったのは、怒られながらも実に快い事だった。将たる器は実にああなければならない。おそらく、こちらの肛も観ぬき、その効果をねらって怒った事かもしれぬが、それにせよ行末頼もしい大将という資格に変りはない。
 大事はあのお方の手に依って成し遂げられるにちがいない。そち達も、もはや迷うな。もっとも誰よりも一番迷っていたのはこのわしじゃが、今日以後、上総介広常はまぎれない頼朝殿の股肱であるぞ。くれぐれ生涯の方向をそち達も過ってくるるなよと、広常は、夜更けるまで語りつづけた。
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■鎌倉へ、との目標が皆を従えた

<本文から>
 鎌倉へ。
 鎌倉へ。
 一兵卒にいたるまでこの日標は持っていた。分りのよい相言葉だった。
 たちまち、それは時の声となり、揃う足なみともなった。軍隊の中だけではない。庶民の生活目標までが、何んとなく、
 鎌倉へ。鎌倉へ。
と、意志づけられた。その足なみから外れると、時代の流れに置き去られる気がした。
 −思都へ。六波羅へ。
 頼朝がそう云ったら、或いは、危なげを抱いて、一斉に従いて来なかったかも知れなかった。−けれど、鎌倉と聞けば、源氏発祥の地−板東武士の心の故郷−天嶮の地勢−民心はかえってそこの新鮮な土と香と、次の建設を逞しく想像した。
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■義経との出会い

<本文から>
 どんな弟であろうか。
 会って、まず、何といおうか。
 ふしぎな血がしきりと胸に鼓動してくる。この音こそ、争えない血しおのつながりを証拠だてるものではあるまいか。きょうまでの二十年間、胸をさびしく閉していた孤独の扉を、ふいに叩かれた驚きと歓びには、幾分の狼狽さえ交じっていた。
「兄君でございますか」
 と、見ればその義経は、実平に誘われた、燭から遠い下座に着いて、ひたと、自分の方へ向ってひれ伏していた。
 「……」
 頼朝は、義経の云った最初のことばを、よく聞き取っていなかった。
 義経の声も、おののいて、情の昂ぶりのみが、ことばの上に項れていたし、頼朝の耳も、徒に熟していた。
「お会い申すのは、今初めてでござりますが、物心つき初めてから、人と成るまで、一日だに、世に、一人の兄上ありと、伊豆の空を憶わぬ日とてはありませんでした。−兄上にも、お心の隅に、奥州に九郎という一人の弟ありと、他ながらでもお覚えでござりましょう。その弟義経にござりまする。源九郎義経にござりまする!…」
「覚えている」
頼朝は、云うと、われを忘れて、手をあげた。
「なぜ、そのように、遠くにおるぞ。他人のように隔てておるか。もそっと、間近う寄って、面を見せよ」           
 義経は、なお遠慮して、側にいる実平の顔をそっと窺った。実平は、その意を酌んで、
「おことばですから、ずっとお近くへ行って、ご愁りと、お物語りなされませ。−実平は、次に退がっておりますゆえ、ご用の時は、お呼びくださいますよう」
 と、小声で云った。
 義経は、一人となると、なお、生れて初めて会った兄に対して、処女のような羞恥いと、遠慮を抱いた。
  よい骨柄の若者。これが、自分の弟だったか。
 頼朝は眼をほそめた。
 自分も席をすすませた。義経もすり寄って出た。
 「おなつかしゅうございました」
 相寄ると、そこには、もう身分の隔ても、権力の相違もなかった。家臣や儀礼の形式もなかった。おたがいが親なき子であった。また、逆境から芽生えて、ふしぎにもここまで、無事に成人して来たと思うばかりな−運命の子と運命の子であった。
「よくぞ、訪ねて参られた」
 頼朝は、手をさしのべて、義経の手をつかんだ。義経は、欣しさに、おののいていた。
 この温み。
 この骨肉の手。
 それは、生れて初めて知ったものである。母こそちがえ、血は正しくひとつの父からうけている。
 「夢にまで。夢にまで。……幾たび兄君のことを夢みたか知れませぬ。…会いとうござりました」
 「わしとても」
 頼朝は、はふり落つる涙を、拭いもせず、義経の背をかかえた。
 「風のたよりに、遠いうわさに、そちの消息を聞く折々、いつ会う日があろうか、どんな健気に成人しているやらと−」
 「同じように、私も、年十六の頃、鞍馬をのがれ、奥州へ落ちて行く途中…ついそこの足柄山を越えながら……すぐ眼のさきに見える伊豆の海を、配所のあたりを、どんなに、恋しく思いながら、振り向き振り向きして通った事か知れませんでした」
 義経の声も、甘い鳴咽と、うれし涙と、遠い追憶に、途切れ途切れであった。
 「またこのたびも、兄君のお旗上げと伝え聞くなり、矢も楯もなく馳せ参らんものと、秀衡殿に計りましたが、秀衡穀には、まだ時が早かろう、今しばし形勢を見よとばかりで、どうしてもお許し下さらぬため、馬一匹に、供の者四、五名連れたのみで、密かに、平泉を脱け、途中まで急いで来ると−秀衡穀にも、それまでの決心なればと、佐藤継信、忠信のふたりを、後ろより追いかけさせ、私の郎党にと、付き添えてくれました」
 義経は、そう綿々と話しかけたが、前後のつながりも欠いて、余りに欣しまぎれになっている自分の話し方に気づいて、
 「つい、取乱しました。女々しい弟よと、お笑いくださいますな」
と涙をふいて、少し身を退けながら、礼を保った。
 頼朝も、茫然たるここちから自分に返って、
 「こよいは、悠りと、語り明かしてもよいが、何せい陣中、いずれ鎌倉へ帰ってから、落着いて話すとしよう。−そちも定めし疲れておろう。こよいは旅の垢でもそそいで寝んだがよかろう」
 「はい」
 素直な弟の返辞までが、頼朝には、又なく欣しく見えた。これからの家庭に、ひとりの賑わいと、一族のうちに、大きな力とを加えた気がすぐにしていた。」
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■迷いながらも義経に京へ命じる

<本文から>
「はて。誰がよいか」
 頼朝は、考えていた。
 彼にとって今、彼自身がいうところの健全な野性が、にわかに必要となって来たのである。
 京都、中国、鎌倉と、三分されている天下の勢力を、
 「わが手に」
 と、考える時、それが容易な事でないにつけ、誰をして、その難事業に当らせるか−見まわすところ多くの武将のうちにも、そう人はなかった。
 後白河法皇からひそかなお招きもあったが、彼は、義仲のいる京都へ上る気はなかった。
 彼の身はもう鎌倉からたやすく動けないものになっている。
 鎌倉を空けて、彼自身が、義仲と平家の二勢力を、一掃しにゆくなどという事は、いかに望んでみてむ、夢にすぎない。
 「…人はないもの」
 と、頼朝はつくづく思った。
 大軍をまかして、安心できるような老将には、義仲を討つ覇力が足りない。元気に富む若武者ばかりでは、軍令が行われまい。議論倒れになりやすい。京都へ入ってから、義仲の二の舞をやられても因る。
 「義経なら…」
 頼朝は、知っている、見ぬいている。きあの弟の素質を。
 久しく鞍馬や奥州に培われてきた健全な野性と、また、血には、自分と同じ父をもって、よく野性と叡智とを一身に調和している彼の性情を。
「彼ならば、自分の代官として、大軍の上に立たせても、みな服従するだろう」
 その点もうなずいていた。
 けれど、頼朝もまた、義経を考える時、どうしても義経を一臣下として、考えきれなかった。
 わけの分らない感情がからむのである。−あまり義経への衆望が、高まりすぎても困ると思う。彼への服従が、彼への忠誠になったりすると、今、ようやく緒についたばかりの鎌倉に分裂の下地を招くようなものと憂えられてもくる。
 そうでなくても東国の武士は感情にうごきやすく激しやすい。単純な所がある。征馬遠く東国から離れて、長い年月、戦場で難苦を共にし合っているうちには、どうしても、
 −死なば共に。
 と、骨肉以上な、つよい情愛にもむすばれてくるものである。
 「どうしたものだろう」
 頼朝は、迷っていた。
 −が、その事ばかりは、妻の政子へも、舅の時政へも語らなかった。そこにも彼の用意があった。妻の一族の誰彼をふり顧って考えると、
 −やはり誰よりも、義経こそ、信頼のできる自分の弟だ」
 と、血は水よりも濃いということばに、気がつくのだった。
 その義経は今、鎌倉にはいなかった。使いの途中、近江の佐々木ノ庄に逗留していた。
−そうだ。やはり弟に命じるべきだ。思い迷っているも愚か……」
 頼朝は、心を決めた。
 決意は短時日に迫られていたのだった。なぜならば、彼の手許には、後白河法皇の密勅が、それより幾日か前に人知れず届いていた筈であるから。
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■義経の才略が脅威となって勘当する

<本文から>
 頼朝は営中の一室に、梶原景時を近づけていた。
 「…義経が行状、その後もやはりそうした体か、鎌倉の威力あっての奇功と思わず、すべてを、自力と思いあがって、我儘を撮舞いおるよな」
 頼朝は怒っていた。
 聡明なる覇者も、倭奸の眠から見れば甘い。覇者なるが故の弱点がある。
 「幼少生死にさまよい、二十年を配所にひそみ、臥薪嘗胆、ようやくここに至った覇業を、彼一人のため、私情に紊し、禍根を長くのこしてなろうや。主体を保たん為には、手脚も断つ」
 だが、こうした言を、彼もまったく苦悶なしには吐けなかった。自身の矛盾に気づかぬほどその理性も偏頗ではない。たた世の衆望は今、にわかに、義経を称えているが、まだ二十七歳にしてあの才略ある異母弟の偉さを、誰より早くまたふかく見抜いていたのは頼朝であった。
 が、感嘆は、恐怖にまで変ってきた。たえず自分との比較の対象にした。小心なと、反省もしてみるが、無視するには、義経の天質が偉きすぎる。
 わけて法皇の寵遇はいよいよ厚く、義経をご信用と聞く。頼朝の心は穏やかであり得ない。
 ところへ、魂者の画策も手伝うように、両者のあいだには種々な事件が頻発した。宿命といおうか不測に起ってくる。
 でも、義経は、なお兄を信じて疑わず、
 「やがて、よいご消息も」
 と、便りを待ちぬいていたのである。
 それにこたえた頼朝の沙汰は、同月二十九日に発しられた彼への「勘当」であった。
 「おまちがいだ!何者かの讒言だ」
 義経は、火となった。情に悶え泣いた。直接、兄に会って云い解けばと関東へ急ぎ下った。
 が、頼朝は、彼の鎌倉に入るを許さない。
 義経は酒匂で止めるられた。
 世にいう「腰越状」−あの言々句々、心血にそめた一書を、兄の更大江広元に託して、悄然、京へ引っ返したい。
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