吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     黒田如水

■信長支持は天意に沿うもの

<本文から>
  官兵衝はこのときここで何を説いたかといえば、もちろん年来の主張の織田支持を力説したのである。天下はやがて必ず織田軍の旗によって風靡される。たとえ毛利家がいかに強大でも、公方の残存勢力を擁する三好党がどんなに抗戦してみても、織田信長のまえには、到底、焼かれる燦原の草でしかないことを、その信念で繰返したにとどまる。
 だが、それは前提であって、彼が改まってこの日いおうとしたのは、なぜ、そうあらねばならないかの問題だった。
「思うに、この騒暗の地上に、自然が信長を生れしめたのは、いわゆる天意ともいうものであって人意人工ではない。いまこの人がなければ、誰がこの抑えてのない衆愚と衆暴の乱脈時代を我意と我意の際限もない同胞同士の闘争を一応ひとつものにまとめてゆけようか。そのためにはまた誰がご衰微を極めている皇室を以てこの国に適したすがたとして、衆民が和楽してゆけるような大策へ現状の乱れを向けてゆけるだろうか。これは信長以外になす者は見当らないではないか」
そしてまた、
「信長の兵馬は、信長を主君としているものにはちがいないが、その信長は、皇室と衆民のあいだの一武臣たる位置にあることを常にわすれてはいないようだ。そうした彼の思想は父信秀の代からのもので政略や付け焼刃ではないようだ。彼の過去にてらしてみても、今川義元をうち、美濃の斎藤を略し、浅井朝倉また彼の敵でなく、はや今日ほどの勢威を占めうれば、ふつうの人間ならもうそろそろ思いあがるべき頃だ。が彼は、勝つたびにかならずその部下をひきいて京都に入り、まず宮門に乱の平定を報告した後、庶民には善を施し、社寺には供養をすすめ、道路橋梁の工事を見たり、荒れすたれた禁裡の諸門をつくろうなど、さながら家の中心になってよく働く子が、上には親に仕え、下には弟妹のいじらしきものを慰めるような真情をつくして、それに依る四民共々のよろこびを以て自身のよろこびとしているような姿ではござらぬか。およそ足利十数代のあいだ、また諸国の大名を見わたしても、かくの如き人がひとりでもいたろうか。毛利は強国といっても元就以来の家訓を守って、自己の領有を固守するものに過ぎず、その志は天下万民にない。三好氏は紀伊、伊賀、阿波、讃岐などに、公方の与力と旧勢力をもっている点で無視できないが、これとて要するに悉く頭の古い過去の人々であるばかりで、世を素し民を塗炭に苦しめた罪は、決して軽からぬものでござろう。何よりはまた彼等はすべて民心の信望から見かぎられている」
 と、ことばつよく断じ、
「こう観てくれば、信長以外に、ご当家のご運を賭し、またわれら侍の一死を託す者は他にないことは余りにも明白でありましょう。われらの感じるところ、また衆民の共感するところで、信長出でて初めて万民は曙光を知ったというも過言でありますまい。さきにいったような志をもって衆民の信頼をつよくつなぎ得ている者の理想が、この時代に行われないはずはありませぬ。まして天下いま他に悼む何ものとてない時代においてをやであります」
 さしもの広い部屋も、この中の惰気も、また自我も争気も、しばらくは一掃されて、彼ひとりの声しかそこには聞えなかった。
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■黒田官兵衛によって浮田の織田家へなびく

<本文から>
 秀吉が但馬から帰陣すると、信長の本軍は、一翼を加えたので、本格的に、三木城の攻囲にかかった。
 そしてまず三木城の衛星的要害をなしている神吉の城や志方の城を、たちまち陥した。
 だが、別所一族が七千余人を以て守る三木城の本拠そのものは、いわゆる天峻を占めているし、一族郎党の血にむすばれている強兵だし、加うるに、海路毛利方から新鋭の武器兵糧も充分に籠め入れてあっただけに、到底、短期間にこれを攻めつぶし得る見込みはなかった。
 安土の方針も、長期を覚悟して、根気攻め兵糧攻めにするほかなし、というところにあったので、八月に入ると、信忠はあらかたの大将とその諸部隊を従えて、一応、安土へ引揚げてしまった。
 「あとは、長囲になろう。お汝に委しておく」
 というのが、還るに際しての、秀吉へのことばであった。
 秀吉はこれにも唯々として、
「ご心配なく」
 と、答えた。そして前と比較にならない寡勢をもって、三木城の正面、平井山にその長囲態勢の本営をおいた。
 信忠の引揚げには、一方、もうひとつの理由があった。それは、毛利方の吉川、小早川の大軍が上月城を攻め陥すとまもなく、戦況の持久的になるのを察して、吉川元春は出雲へ、小早川隆景は安芸へ、それぞれ退いてしまったことにある。
 実に、戦況の相貌は、不測複雑である。
離反常なし、という戦乱下の人心は、いまや遺憾なく、その浮動性を露呈して、
(毛利に拠るが利か。繊田に属すが勝か)
を見くらべて、朝に就き、タベに去り、ほとんど、逆賭し難いものがあった。
 備前、播磨の国境から、毛利軍が引揚げを行うとともに現われたものが、浮田直家の裏切りだった。
 彼が、備前一国をあげて、毛利家を去り、繊田家へ就いたというとは、これは由々しい戦局の変化であり、織田家にとっては画期的な好転といっていい。信忠と、信忠に従う諸将は、この有利な新情勢を土産として、一応の凱旋をなしたものであるが、何ぞはからん、これを実現させた者は黒田官兵衛の足と舌であった。
 もちろん主人秀吉も同意の上ではあり、竹中半兵衛の頭脳も多分に働いた上の主従一体の力ではあるが、それを動かすにもっぱら足を運び舌を用い、生命を敵地にさらして、何度も密使行の危険を潜っていたものは、官兵衛であったのである。
浮田の家中に、よい手蔓もあった。直家の家臣の花房助兵衛とよぶ者である。これはいわゆる「話せる男」で、たちまち官兵衛と意気相照らし、紛々たる藩中の異論を排しのけて、主人直家に織田随身の決意をなさしめてしまったのである。
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■獄中で藤の花を見て生きることを決意する

<本文から>
 去年の十二月初めころ、この城を中心として、ただならない物音を幾日か聞いた。
 そのときこそは、
(さてこそ合戦。織田どのの軍勢が寄せて来たな)
 と、独り胸をおどらせ、同時に、ある場合の覚悟もかためていたが、その死を強いて来る日もそれきり訪れ.て来なかった代り、以来、胸おどるような寄手の喊声もばったり聞えない。
「繊田方の形勢は悪いな。万一にも、毛利の水軍が、触艦をそろえて、摂津の沿岸に上陸して来たら、ひとり荒木や高山や中川清秀にとどまらず、彼方此方に、離反の旗職をかざす者が相継いで、安土は容易ならざる重囲の中に取り塞がれよう……いやいや、すでにそうした最悪の情勢になり終っているのかも知れぬ」
そう思いつめると、今は官兵衛の生への執着も日毎にうすくなった。心のどこを探しても、滅失以外のものが見出し難いここちになった。
「むしろ死なんか!」
ある日、ふっと、そう思い出したら、矢もたてもなく、死にたくなった。 
支えている骨と皮の肉体はそれほどに毎日の苦痛と闘っているものだったのである。灯りきれた灯皿の燈芯のように、精神力が枯渇を告げると、肉体はそのままでもや他の何の力を加えないでもバタと朽木のように貼れて終ってしまいそうであった。
「待て」
 彼は彼にいった。
 あぶら汗のたれるような必死をもって自分の肉体へ告げた。
「いつでも死ねる。もうすこし待て。…オオ、あの高窓の藤萎もいつか茂り、しかも短い花の房すら持って咲こうとしている。……そうだ、白藤か淡紫かあの花の咲くまで見ていよう」
 陽あたりのわるいせいか、房は垂れているが花の咲くのは遅かった。
「やあ、今朝は咲いた。……紫であったか」
 幾日目かである。
 朝陽のもるる中に、彼は鮮やかな藤の花を見た。すぐ窓の下まで這っていって、手をのばしてみたが、捕物ふさには届かない。
 けれど、うすい朝陽をうけている紫の房からこぼれてくる匂いは、官兵衛の面を酔うばかりつよく襲ってくる。彼は仰向いたまま、白痴のように口をあいて恍惚としていた。
 「…吉瑞だ」
 いきなり彼は叫んだ。跳び上がる体力もないが、跳び上がった以上の衝動を満身に覚えた。めずらしく彼の額に血のいろが映えた。
「獄中に藤の花が咲くなどということは、あり得ないことだ。漢土の話にもこの日本でも聞いた例しがない。……死ぬなよ。待てば咲くぞ、という天の啓示。そうだ天の啓示だ」
 彼は、掌を合わせて、藤の花を拝んだ。その袖口から軋も這い出て、かすかな朝陽の影と、藤のにおいに、遊びまわっていた。
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■牢獄から助けられる瞬間

<本文から>
 池のそばへ出た。池の水、そして広い藤棚。それを見ると、彼女のあとについて、共に駆けて釆た栗山善助や母里太兵衛たちは、
「あっ。ここだっ」
 と、思わずどなった。
−と見るうちに、彼女はもう池のふちを腰まで浸って、龍女のように、しぶきをあげながら、獄舎の建物の下をざぶざぶと進んでいた。
 「−官兵衛さまっ」
 彼女は藤の木につかまった。そして死にもの狂いで高いところへ攣じて行こうとしていた。その下から衣笠久左衛門ものぼって行った。そしてようやく獄の窓口ヘ手をかけてさし覗いたが、中はすでに赤く晦く、何ものも見えなかった。
 一方、栗山善助と母里太兵衛は、べつな入口から入って獄屋の大床を区切った太い格子組の前に出ていた。荒木の家中らしい武者四、五名を見かけたが、敢て遮りもせず逃げ散って行った。ふたりは獄外を見まわして、約二間半ほどもある角の古材木が一隅に寄せつけてあるのを見つけ、二人してこれを持ち、撞木で大鐘を撞くように、その突端を牢格子へ向って何度も打つけた。
 みりっと一部が破れた。あとは一撃二撃だった。躍り入るやいな、二人は声いっぱい
「殿っ。おむかえに参りました」
「姫路の家臣の者ですっ、殿っ、殿っ。…」
 見まわした。らんらんと獄中を見まわした。官兵衛のすがたが容易に見当らないからである。
−が、官兵衛はなお健在だった。熱気と煙に、あの冷たい北側の壁も湯気をたてていたが、そこを背にしたまま、彼はなお枯木のような膝を組んで坐っていたのである。
「……?」
 いま、突として、眼のまえに、思いがけない家臣のすがたを見、その忠胆からしぼり出るような声をも、あきらかに耳にはしたが、彼はなお茫然としていた。容易に信じられなかったのである。
「あっ。そこに」
「おうっ。…おうっ」
 働笑して抱き合うかのごとき異様な声がやがてそこに聞えた。走り寄ったふたりは、すぐ、主君の身を扶け起していた。その主君の身の軽いことに驚いたとたんに、上の窓を破って衣笠久左衛門も跳び降りて来た。
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■信長への憤悶などで我を失わない境地であった

<本文から>
  獄中、彼は小袖の狭を噛みやぶったこともある。血は煮え肉はうずき、あわれもののふを知らぬ大将よと、信長の無眼無情をうらみつめた幾夜もあった。
 けれどそれに憤悶してわれを失う彼でなかったことが倖せであった。彼がひとつの死生観をつかむには、それ以前にまずこれらの怨恨や憤怒はおよそ心の雑草に過ぎないものと自ら嘲うくらいな気もちで抜き捨てなければ、到底、達し得ない境地なのであった。
 −そうした心中の賊に打ち剋つには、あの闇々冷々たる獄中はまことに天与の道場であった。
(あそこなればこそ、それが出来た−)
 ずっと後になっては、官兵衛自身ですら、時折に、その頃のことを思い、以て、とかくわがまま凡慮にとらわれ易い平時の身のいましめとしていたという事である。
 さて。それはともかく。
 官兵衛はいまやその信長の前へこの姿のまま運ばれてゆく途中にある。担架を担う小者の歩み、前後に従う諸士の足のその一歩二歩に、信長の顔は、彼の戸板の枕頭に近づきつつあるのであった。
−もしこれが、この機会が。
かの荒木村重からいろいろ事実を聞かされていた当時だったら、所詮、彼はこの姿を信長の前へ曝すには、その無念に忍び得なかったにちがいない。
 奮然、西を指して、
(中国へやれ)
と、叫んだに相違ない。生涯二度と、信長の顔は見たくもないと唾して誓ったかも知れないのである。
 けれど今は−明け初めた今朝は−そういう心もわいて来ない。灰かに秋の朝となった地上を戸板の上から眺めて、
「ああ、ことしも秋の稔りはよいな」
 と、路傍の稲田の熟れた重り穂にうれしさを覚え、朝の陽にきらめく五穀の露をながめては天地の恩の広大に打たれ、心がいっぱいになるのだった。
 今、彼のあたまには、一信長のすがたも、一本の稲の重り穂も、そう違って見えなかった。べつに、もっともっと偉大なものがこの天地にはあることがはっきりしていた。そして信長の冒した過誤へ感情をうごかすには、自分もまた稲の一と穂に過ぎない一臣の気であることがあまりにも分り過ぎていた。
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