吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     貝殻一平(2)

■一平が一座に加わる

<本文から>
 彼女が、背なかをたたいたはずみに、喉につかえていたかりん糖が、一平の口からとび出した。
 「ホ、ホ、ホ。まるで駄々ッ子だよ。おまえさんと来たひには」
 そういう彼女もまたほんとの姉でもあるように扱って、朱い丸盆の上に、甘味のものをふた種みいろ交ぜて枕元へ持って来た。
 「はい、たんとおあがり」
 ごろりと、その側に足を投げて、頬杖をつきながら、一平が、色気もなくそれを食べるのを、楽しそうにながめていた。
 そして、こういう若い男を、自分のそばにおくようになった、ふしぎな機縁を考えはじめた。
 −あの伏見で大入りをつづけた時の−今思い出しても、おかしいやら冷や汗の出るような、とんでもない舞台の悲喜劇からである。
 ほんものの瓢六斎は、あとから、小屋の隅の空き箱からまる裸になって発見されて、その後、 腹を立って一座を出てしまった。そして、打ち所がわるいから助かるまいと、一時は医者に見はなされたこの男が、もう三月越しも寝ているけれど、かえって、あれ以来、自分のそばをはなれないで先を知らぬ旅鳥の一座についてあるく始末になった。
 「縁だねエ…」
しみじみと、そう思う。
 ほんとならば、医者どころか、綱から落ちて気絶した時に、すぐ地り出してもいい値打があるのに、なんとなく離しきれないで、新撰組の山崎の方まで苦心して出しぬいたあげく、次の興行、次の旅先へ、ご苦労さまにも、こうして持ってあるいて来た厄介者の可愛い人である。
 もう八月である。この夏場は雨がちでろくな小屋も打たないまに、いつか秋が来てしまった。
−わるい汐に乗ったのか、河内から和歌山、そしてこの大和路へはいりこんでから、不入りつつきで、三月まえの面影はない。
 ここの大和五条の町へは、小屋持と七日の約束で下市から売って来たのであるが、来てみると、世間が騒がしいから、すこし様子を見てくれと、煮えきらない生返辞で、壷は小屋に籠城をする、自分は小屋持の親類だというこの家の二階へ泊って、かたがた持ち歩きの半病人を、叱ったり、騙したり、肩の膏薬を張りかえてやったり、稀には、かりん糖を買って来たりの四、五日であった。
 でも、よくこんな気の永いことが、自分にできたものだと思う。白浜のお千代が男について、そんな例はきょうまでにない。用心棒の左次馬が、妙に気をまわして、険しい眼でみるのも無理ではなかった。
 「なぜだろう。なぜ離したくないのだろう?」
 その気もちは、お千代自身にも解けなかった。必死な恋とは思われない。情火情熱を焦しあう仲ほどにもすすんでいない。−といって、やはり、憎くない人、離したくない人である。
 ただ彼女にも、わかることは、こうして一平のそばにいて、足をのばして、頬づえをついて、気まかせに向い合っていると、なんとなく心が和らぐ。陽気な気がする。魅力といえば、そういう点かも知れない。何しろ、邪気のないのが嬉しかった。あたまから塩をつけて、食べてしまいたい。でなければ、時々、頼に明滅する笑くぼを、噛んでとってしまいたい。
 そんな衝動が起る−起させる一平だった。
「自分だけかも知れないけれど……」
 そう思い直してみたりして、お千代は、彼の顔をながめていた。−今の場合だってそうである。彼女が、彼女らしくもなく、そんな思いごとに耽っていれば、一平の方は、余念もなく、かりん糖を食べている。
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■転が一平の身代わりに、互いの手に黒子

<本文から>
  転にもその様子は、すこし頼りなく見えたが、彼が疾風迅雷に、ここまで策を運んで来たのは、この一平を利用する以外に、ふたつの目的を同時になしとげる方法はなかったので、
 「そこで、頼みがある」
 と、膝をつきあわした。
 「おまえはたしか、貝殻座の一平という者だろうな」
 「よく、ごぞんじでございますな」
 「お千代というものを知っているか」
 一平は、ベソをかきそうな顔をした。
 「し、知っています。どこにいましたか、お千代さんが…」
 「そのお千代は、おまえを救いたいために、心にもなく、天誅組の陣へ、間諜になって行った。おまえも、あの女に会いたいと思うであろう。拙者が、助けてつかわすから、すぐ、天の辻へゆけ。天誅組の人々が落ちて行った天の辻へ」
 そういって、一平の勇気を起たした。
 同時に、転の心では自分の手にはいった書面と山絵図とを、この一平に持たせて忠光の手にとどける策を描いていた。また、この一平が無事にここを出さえすれば、お千代が、間諜となって、天誅組に不利なことを、故に通じる必要もなくなるであろうと考えた。
 遠くの方で鶏の声がする。
 倉の中では、つい朝に近いことを忘れがちであったが、一平を逃がすにしても、夜が明け放れては、この陣域を出るだけでも非常な危険である。
 転の言葉は、急に端的に変った。そしておどおどしている彼を励ますようにいいつけた。
 「よいか。確かにこれを、天誅組の忠光様にお手渡しいたすのだぞ」
 「へい。きっと、お届けいたします」
 「途中で、紛失しては一大事だ。しつかりと、肌につけてゆけ」
 「胴巻にまきこんで、かたくしばりつけて参ります」
 彼は帯を解いて、転からうけとった山絵図と書面とを、晒布の腹巻にくるんで、臍の上へ幾重 にもまきつけた。
 「待て、その身なりでは、ここを出るとたんに怪しまれるであろう。拙者の衣服をつけて、その 陣笠をかぶってゆけ。そして、歩哨の藩士が何かいったら、乙隊の石田三助というがよい」
 「へ.そのダンプグロを私がはくんですか」
 「そうだ、はやくしろ」
 「あなたは何を着ています。あとで、困りやしませんか」
 「拙者は、おまえのそれを着て、おまえの身がわりになっている。後のことは、案じるには及ばん。また忠光卿にお目にかかった時にも、扇子どののご一命については必ずご心配ないようにと、これは、貫さまの口から、おことづていたしてくれ」
「わかりました。それだけの御用をすましたならば、あっしは、お千代さんと一緒に、どこへ逃げてもかまいませんね」
「その上のことは、おまえたちの勝手だ。ただ途中は、幕軍の眼にかからぬように要心の上にも要心をして行けよ」
 転の細心な注意を聞くたびに、一平は、それが狂喜であり、恐怖でありして、胴ぶるいをしながら、支度にかかった。
 転は一平のぬいだ衣服に着がえ、一平は転のぬいだ、ダンプグロや藩服を着こんだ.だが、容貌といい骨ぐみといい、まったく瓜二つの一平と転が、それを着替えても、すこしも人が変ったとは思えなかった。
 ふいに、すぐ近くで、大きな梵鐘が鳴りひびいた。一平は、あっというように、眼をみはったが、如意輪寺の鐘楼でうった明けの鐘かとうなずいて、喉につかえた生唾をのみ下した。
「おお、外があかるくなって来た」
 転は倉の戸を細目にあけ、白みかけた外の光線を導き入れて、
「折よく、誰もおらぬ様子だから、今のうちに急ぐがよい。そして、外へ出たら、この合鍵を持って外から変りのないように、錠をおろして立ち去ってくれ」
「錠をおろしてしまうと、あなたが、逃げることができませんが」
「かまわぬから、おろして行け。拙者には、武器もある、思案もあるのだ」
「じゃ…」
と、一平は、彼のさし出した合鍵に手を出した。
 細い隙間から流れこむ夜明けの光線に、一平は初めて、転の顔をしげしげとながめた。転も一平の面を穴のあくほど見つめた。− そして、お互に、ふしぎな魂のおののきを覚えた。− 鍵を渡しながら、ふたりの手と手は、意識なく握り合っていた。
 自分が彼なのか、おまえがおれなのか、ふたり自身が、迷うほどよく似ている。常から人ちがいをされるのも道理である。ふたりは、無意識に握り合った手の感じまでが、ひとつ血と肉と皮膚のようにしか思えなかった。そして
 「では…」
と、転が手をひきかけると、
 「へい」
 と、いいながら、まだ一平は手を離さなかった。じつと、転の顔ばかり見つめて離さなかった。
 その時、転はふと五体の血が逆流するような驚きに衝たれて、一平の手と自分の手へぐつと、顔をよせてさけんだ。
 「オ! 黒子」
 「あっ?」
 と、一平も、顔をよせた。
 「ふしぎだ.おまえにも」
 「あなたにも、ここに…」
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■双子の母親

<本文から>
「あなた様の母上を」
「えッ。ほんとか!」
 衝動的に、肩をつかむと、その力に、お琴は転の膝にうれしそうに倒れた。
「知っております。その方は、お雪さまと申します。もう四十路をこえたお年ごろでも、それはお美しい、そしてお上品な」
「ど、どこにいる。そのお方は?」
「和歌の浦の黒江という町に」
「何をなされてお暮しか」
「お針子をあつめて、活花や縫物の女師匠をしていらっしゃいます」
「おまえはそれを誰に聞いた」
「私は黒江の町のもので、お雪さまの所へは、十四、五の時からお針子に追っておりました。雨のつれづれや、ひとりで淋しそうにしていらっしゃる晩、それとなく慰めてあげると、よく、昔話をなさいました」
「菊太郎ということをおロになされたこともあるか」
「−夕顛や乳のいたみに目をふさぐ。−いつもその句を書いた短冊を茶の間にかけて」
「オオ…」
「その夕顔屋敷にいたころの話や、房州の白浜へ帰って、恥かしいややをお産みなされたというお話やら…」
「わしたちは双児であった。…母上はそう話されたことであろう」
「その双児のひとりを隠して、ひとりを矢部家のお世継ぎに上げることになった時、お雪さまは、どちらが憎い、どちらが可愛いいということはないので、幾夜も幾夜も迷われたり悲しまれたりしたあげく、磯の漁師が沖の運さだめをみるためによくする貝占ということをなされて、それで、ひとりを決めたということでございました」
「そして、矢郡家の世つぎに選まれたのが拙者であった」
「双児を産むは女の恥じゃ、双児を産んだらひとりは舟へのせて流せ、そうしなければ子は育たぬ、というのが白浜の習慣わしとかで、お雪様は、矢部家のお世継ぎとして立てた菊太郎さまのために、ある夜、泣く泣くひとりを小舟の苫にくるんで、沖鳴りのする海へ流しました」
「おお、そのひとりは知っている…」
「一平というお名まえだそうでございます」
「ム…なんという数奇な兄弟であろう」
「菊太郎は幸福にくらしいるか。一平は、どこの磯に流れついて、誰の手に育てられたことやらと、お雪様はいつも、その話になると……」
「ああ会いたい」
「会いたい、ひと目でも、一生に、いちどでも−とお雪様も同じように、明け暮れいっておいでなされます」
「母上……」
 夢みるように、転が涙の顔を仰向けた時、ひとりの藩士が、そこを覗いてはいって来た。
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