吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     神州天馬侠(2)

■父・勝頼に誓う

<本文から>
 居士はゆうゆうと、ちかくの右へ腰をおろした。そして、伊那丸へ、
「おん曹子−」と重々しく呼びかけた。
「はい」と伊那丸は、老師のまえへ、神妙に首をたれてこたえる。
 「あなたは、甲斐源氏の一つぶ種−世にもとうとい身でありながら、危地をおかしてお父上を求めにまいられた。孝道の赤心、涙ぐましいほどでござる。が、しかし−その勝頼公が世に生きているということは、はたして真実でござりますか? あなたはその証拠をにぎっておいでなさりますか?」
「わしは知らぬが、伝うところによれば、父君は天日山にて討死したと見せかけて、じつは裂石山の古寺にのがれて姿をかえ、京都へ落ちられたといううわさ…」
「さ。それが真実か虚伝かは、まだまだ深いなぞでござるぞ。いかにも、この果心居士が知るところでも、呂宋兵衛の手にとらえられた僧形の貴人は、勝頼公によう似ておった」
「おお、してその僧侶はどうしました。また、居士はなんで、かような姿をして、この鎖駕龍のなかにはいっておいでになりましたか」
「されば、じつをいうと、その貴人の憎は、南蛮寺の武器倉に押しこめられている間に、わしがソッと逃がしてやりました。そして−その人の笠や衣をそのまま着て、わたしがこの鎖駕籠に乗っていたのじゃ」
「お!では老先生、やはりその僧こそ、父の勝頼ではございませぬか」
「さあ?……その人が勝頼であるかないか、それはだれにもはっきりは申されぬ」
「な、なぜでござります」
「武門をすて、世をすて、あらゆる恩愛や争闘の修羅界を、すてられた人の身の上でござるもの。話すべきにあらず、また話して返らぬことでもある」
「や、や、や! ではこの伊那丸が、かくうで心をくだいて、武田家の再興を計っているのに、お父上には、もう現世の争闘をお忌みあそばして、まったく、心からの世捨人とおなりなされたのですか」
「もし、おん曹子−まえにもいったとおり、まだその憎が、勝頼公かいなか、はっきり分っておらぬのに、そうご悲嘆なされてはこまる。どれ、わしもそろそろ鞍馬の奥へ立ちかえろう」
「老先生、しばらくお待ちくださいませ。……もう一言うかがいますが、居士が身代りとなって逃がしたとおっしゃるその僧は、いったいどこへいったのでござりましょうか」
「おそらく、浮世の巷ではありますまい」
「と、すると」
「浄悪すべてをつつむ八葉蓮華の秘密の峰−高野の奥には、数多の武人が弓矢を捨てていると聞く」
 と、謎のような言葉をのこして、果心居士は瓢然と松のあいだへ姿をかくした。
 幻滅の悲しみをいだいて、ぼうぜんと気ぬけのした伊那丸は、ややあってわれにかえった。そして、なお問いたいことのいくつかを思いだし、あわただしくあとを追って、老師!老師! といくたびも声のかぎり呼んで見たけれど、もう春影の林間にそのうしろ姿はなく、ほろほろとなく山鳥の声に、なにかの花がまッ白に散っていた。
 ああわからない、わからない。どう考えても伊那丸にはわからない。
 果心居士の話しぶりでは、居士はすでに貴人の憎に会っているのだ。そして、自身がその身代りになり、桑名に護送されるまえに、どこかへ落としてしまったとおっしゃる。だのに、居士はそれが父の勝頼であるとは決していいきらない。その一点だけをどうしても打ち明けてくれない。
 なぜだろう?ああさてはお父上には、居士が口をもらしたとおり、まったく弓矢の道をすてて、高野の道場にこもるおつもりなのか?……そして浮世に未練をもたぬため、いさぎよく、わざとじぶんにも会わず、父とも名のらず、愛情のきずなを断って三密の雲ふかきみ山にかくれてゆかれたのであろう?
 そう伊那丸はかんがえた。
 お父上よ!お父上よ!ではぜひないことでござります。敗軍の将は兵をか渋らずと申します。ひとたび天目山に惨敗をとられた父上が、弓矢をなげうつのご決心は、よくわかっておりまする。
 甲山に鎮守して二十七世の名家、武田菱の名聞をなくし、あまたの一族郎党を討死にさせた責任をご一身におい、沙門遁世のご発心!アア、それはよくわかっておりまする!お父上のご心中、戦国春秋の常とはいえ、ご推察するだに、熱いなみだがわきます。
 さあれ、伊那丸はまだ若年です。
 伝家の宝什、御旗楯無の心をまもり、大祖父信玄の衣鉢をつぎ、一片の白旗を小太郎山の孤塁にたてます。
 われに越王勾践の忍苦あり、唯幕に民部、咲耶子、蔦之助あり、忍剣、寵太郎の驍勇あり、不倶戴天のあだ徳川家を討ち、やがて武田再興の熱願、いな、天下掌握の壮図、やわか、やむべくもありませぬ。
 伊那丸は心のそこで、高く高く、こう思い、こう誓い、こうさけんだ。
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■打ち首になったはずの伊那丸ら主従三人は生きていた

<本文から>
 指差しをして卜斎の顔を見あげたが、その卜斎は、蛾次郎とは、まるで見当ちがいなほうに目をすえているのであった。
 さっきから、なにを見ているんだい親方は?
 と 蛾次郎も卜斎の視線にならってその方角へ目をやってみると、竹矢来の一角、そこはいまあらかたの弥次馬が獄門台と掲示の高札を見になだれさったあとで、ほのあかるい夕闇に、点々と、かぞえるほどの人しか残っていなかった。
 卜斎は最前から、そこばかりをじっとにらんでいた。横目づかいの白眼で −
 蛾次郎の注意もはじめて同じ焦点へ伺いた。
 かれ蛾次郎の目の玉が、デングリかえるようにグルグルとうごいた。そしてその睦毛がせわしなくパチパチと目ばたきをし、眉に八の字をこしらえた。なにか叫ぼうとした唇が上下にゆがんだが、いう言葉さえ知らぬように、鼻の穴をひろげたまま、アングりと口をあいて茫然自失のていたらく…。
 あたかも磁力にすいつけられてしまったよう。そも、泣き虫の蛾次郎および親方の卜斎までが、なにを見てそんなにぼうぜんとしているのかと思えば−それも道理、ふしぎ!イヤふしぎなどという生やさしい形容をこえた、あるべからざる事実が、そこに、顕然とあったのである。
 見れば北側の矢来そと、人かげまばらなあとにのこって、なにかヒソヒソとささやき合ってる旅人がある。よくよく凝視するとおどろいたことには、それが、たったいま、刑場のなかで首をおとされたはずの忍剣、寵太郎、伊那丸の主従三人。
 あやしいといってもこれほど怪異なことはない。菊池半助が、大衆環視のなかでたしかに斬った三人−しかもそのが血汐は、なおまざまざ刑場が草をそめており、その首は都田川の獄門台にのせられているのに!
 その人間がここにいる。
 話している。
 笑っている。
 ときどき、じぶんの首がのせられた獄門台のほうを見ている。
 そして微笑する。
 くすぐったいように−不審なように−ささやき、うなずき合っている。
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