吉川英治著書
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     神州天馬侠(1)

■伊那丸が落ち延びる

<本文から>
  「忍剣! 忍剣!」
 呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの若僧がある。若僧は、自綸子にむらさきの袴をつけた十四、五歳の伊那丸を、そこへつれてきて、ひざまずいた。
 「この寺へもいよいよ最後の時がきた。お博役のそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」
 「はッ」
 と、忍剣は奥へとってかえして、鉄の禅杖をこわきにかかえてきた。背には左文次がもたらした武田家の宝物、御旗楯無の櫃をせおって、うら庭づたいに、扇山へとよじのぼっていった。
 ワーツとい鬨の声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。寺内は、本堂といわず、廻廊といわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち修羅となった。白羽黒羽の矢は、疾風のように、バラバラと、庭さきや体腔の障子襖へおちてきた。
 「さわぐな、うろたえるな! 大衆は山門におのぼりめされ。わしについて、楼門の上へのぼるがよい」
 と快川は、伊那丸の落ちたのを見とどけてから、やおら、払子を衣の袖にいだきながら、恵林寺の楼門へしずかにのぼっていった。
「それ、長老と、ご最期をともにしろ!」
 つづいて、一山の僧侶たちは、幼い侍童のものまで、楼門の上にひしひしとつめのぼった。
 寄手の軍兵は、山門の下ヘどッとよせてきて、
「一山の者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」
 と、うずたかく枯れ革をつんで、ぱッと火をはなった。みるまに、渦まく煙は楼門をつつみ、紅蓮の炎は、首千の火寵となって、メラメラともえあがった。
 楼上の大衆は、たがいにだきあって、熱苦のさけびをあげて伏しまろんだ。なかにひとり、快川和尚だけは、自若と、椅子にかけて、眉の毛もうごかさず、
「なんの、心頭をしずめれば、火もおのずから涼しい−」 
 と、一句のことばを、微笑のもとにとなえて、その全身を、焔になぶらせていた。
「おお!伊那丸さま。あれをごらんなされませ。すさまじい火の手があがりましたぞ」
 源次郎岳の山道までおちのびてきた忍剣は、はるかな火の海をふりむいて、涙をうかべた。
「国師さまも、あの焔の底で、ご最期になったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい…」
 伊那丸は、遠くへ向かって掌を合わせた。空をやく焔は、かれのひとみに、生涯わすれぬものとなるまでやきついた。
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■信玄の再来

<本文から>
 さても伊那丸は、小袖のうえに、黒皮の胴丸具足をつけ、そまつな籠手脛当、黒の陣笠をまぶかにかぶって、いま、馬上しずかに、雨ケ岳をくだってくる。
 世にめぐまれたときの君なれば、鍬がたの兜に、八幡座の星をかざし、緋おどしの鎧、黄金の太刀はなやかにかぎるお身であるものを…と、つきしたがう、民部をはじめ、忍剣も小文治も蔦之助も、また咲耶子も、ともに、馬をすすめながら、思わず、ほろりと小抽をぬらす。
 兵は、わずかに七十人。
 みな、生きてかえる戦とは思わないので、張りつめた面色である。決死のひとみ、ものいわぬ口を、かたくむすんで、粛々、歩をそろえた。
 まもなく、梵天台の平へくる。夜の帳はふかくおりて徳川方の陣地はすでに見えなくなったが、すぐ前面の人穴城には、魔獣の日のような、狭間の灯が、チラチラ見わたされた。その時、やおら、俎岩の上につっ立った軍師民部は、人穴城をゆびさして、
 「こよいの敵は呂宋兵衛、うしろに、徳川勢があるとてひるむな−」
 高らかに、全軍の気をひきしめて、さてまた、
 「味方は小勢なれども、正義の戦い。弓矢八幡のご加勢があるぞ。われと思わんものは、人穴城の一番乗りをせよや」
 同時に、きッと、馬首を陣頭にたてた伊那丸は、かれのことばをすぐうけついで、
 「やよ、面々、戦いの勝ちは電光石火じゃ、いまこそ、この武田伊那丸に、そちたちの命をくれよ」
 凛々たる勇姿、あたりをはらった。さしも、烏合の野武士たちも、このけなげさに、
一滴の涙を、具足にぬらさぬものはない。
 「おう、この君のためならば、命をすててもおしくはない」
 と、骨鳴り、肉おどらせて、勇気は、日ごろに十倍する。
 たちまちいん確軍の合図。
 さツと、民部の手から二行にきれた采配の鳴りとともに、陣は五段にわかれ、雁行の形となって、闇の裾野から、人穴城のまんまえへ、わき目もふらず攻めかけた。
 「わ−ッ。わ−ッ…」
 にわかにあがる閑の声。
 「かかれかかれ、命をすてい」
 いまぞ花の散りどころと、伊那丸は、あぶみを踏んばり、鞍つぼをたたいて叫びながら、じぶんも、まっさきに陣刀をぬいて、城門まぢかく、奔馬を飛ばしてゆく。
 と見て、惟幕の旗本は、
 「それ、若君に一番乗りをとられるな」
 「おん大将に死におくれたと聞えては、弓矢の恥辱、天下の笑われもの」
 「死ねやいまこそ、死ねやわが友」
 「おお、死のうぞ方々」
 たがいに、いただく死の冠。
 えいや、えいや、かけつづく面々には、忍剣、民部、蔦之助、そして、女ながらも、咲耶子までが、筋金入りの鉢巻に、鎖襦袢を肌にきて、手ごろの薙刀をこわきにかいこみ、父、根来小角のあだを、一太刀なりと恨もうものと、猛者のあいだに入りまじっていく姿は、勇ましくもあり、また、涙ぐましい。
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