吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     江戸三国志 3

■鬼女仮面を取り戻す

<本文から>
 そこで。
 待ち設けていた秦野屋九兵衛は、自分の手に収めておいた洞白の鬼女仮面を金吾に手渡しました。
 久しかりし流転の般若は、よろこびにふるえる金吾の手にかかえられながら、改めて、万太郎の手許へ返される。
 日本左衛門という呑舟の大魚は、遂にその晩、それ以上の追捕をつくすべくもありませんでしたが、ともあれ、聖天の河っ童穴以来、一同の心をなやましていた仮面だけでも、無事に遣る人の手へ返って来たのは、まず、上乗とまでは行かなくっても、首尾よく運んだものと言わなければなりません。
 このてがらは一に秦野屋の奇策にあるところ、金吾は万太郎のよろこびをうける前に、その礼を先に彼へ述べなければならないと思いました。
 しかし、九兵衛はそんな面倒な礼などをうけている顔つきもなく、もう菅笠を引っ被って、
 「じゃ相良様、いろいろお話もございましょうから、手前は一足お先に仲間の者を追いかけます。え?  何処へって仰っしゃいますか? 木賊を越えて秩父の奥、秩父をすぎて中仙道、それから上総の鹿野山で落合おうというのが仲間の約束でございますから、日本左衝門もいずれその方角で……。じゃ、また秩父か何処かで、お目にかかる事になりましょう。何しろあっしのような日蔭者には禁物な親方がそこにおいでですから、ひとまず御遠慮いたします」
  と、打勘の方を向いて笑いました。
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■ヨハンはお蝶に夜光の短刀の探索の自覚を促す

<本文から>
 ヨハンはお蝶の凍えきッた手を自分の人肌に暖めて、
 「もう此処を出ては危険です、ヨハンのそばを離れてはいけません。あなたの身には、家門役人の眼、怖ろしい凶賊の眼、野心の眠が光っています」
 「じゃヨハン、私はいつまでもここに居てかまわないの」
 「石室の奥に居れば、山屋敷の役人でも、気のつく気づかいはありません。欲しい物は、時折ここへ忍んで来る切支丹族の者にいいつけてやれば、何でもととのえてまいります」
 ヨハンの母性的な慈愛は、巷の苦しみと寒さに凍えていたお蝶の心に情けの温みを知らしめたようです。彼女はもうヨハシに甘える気持は出ても、反逆的な心は持てなくなりました。
 除夜も元日もない石牢の奥に、そうして幾日か匿われている間に、ヨハンはお蝶がいやがらない程度に、聖書を読んで聞かせ、羅馬の都の語をして聞かせ、ひたすら彼女の心の故郷から善を呼び起こそうと努めたのです。ローマ王家の血を享けている彼女の自覚を醒まそうとするのでした。
 ヨハンのその努力は、天童谷の時では厳父が説き諭す形になって現れ、ここでは慈母の愛をとって教えました。そうして、この頃ではようやくその真心がお蝶の心にもしみ入って来たのか、時折は、彼の読んで聞かせる聖書の声をじっと聞いているうちに、お蝶の頬を涙が流れることもある。
そういう時に、ヨハンは殊に力をこめて、
 「あなたの大きな幸福は、羅馬の都に待っています。夜光の短刀をお探し遊ばして、海の彼方へお帰りなさい。そして、絶えかけている王家の家名を興すことができれば、二宮殿の霊もどんなに満足か知れません。いいえ二宮殿ばかりでなく、日本へ渡って鬼となった羅馬の使徒の幾十人の霊が、みな天国でどよみをあげて欣びましょう」
 噛んでふくめるように説いて教えます。
 かくしている間に、世間の松の内も過ぎた時分。
 お蝶はこの頃になって、夜ごと、或いはどうかすると真昼にも、山屋敷の見廻りの隙を狙って、江戸の町へ出て行くようです。−しかし前と違って、明け方か、或いは二、三日目には、母を慕う子のように必ずヨハンの石牢へ帰って来ないことはありません。
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■ピオの生涯

<本文から>
 吉宗は平服、それも例の素服、旗本たちは稽古着を下にのぞかせ、いずれも、的場の弓からこっちへ立ち寄った様子に察しられる。
「突然、その方たちをここに集めて、塚をあばけと申せば、いかにも吉宗が怪を好むやに思うであろうがこれには仔細があることじゃ、源次郎、筑後守からまいった調べを一同に読み聞かせてつかわせ」              
 命をうけて、松平源次郎は、黙念と一礼して、ふところから一帖の綴じ物を取り出して読む。
 白石が復命した調べ書です。
−原文はあまり長きに失しますし、本篇の筋には関係のない部分もありますから、ここに概要だけをつまんで申しましょう。それはつまりピオの生涯記です。
 耶蘇紀元一五九五年は、日本の文禄四年で−吉宗の代をさること百二十余年前、羅馬の貴族ピオは、日本へ渡った。
 彼は、羅馬十二王家のうちの首座の家すじであった。しかもピオは、王家の世襲とする宝剣と「鶏血草」の種子だけを持って、海を越えた。
 その動機は、首都における王族間の内乱と、失恋であると想像される点があった。
 ピオは初め、天草支会に身を寄せて、やがて、普通の伝道者のように、京都へのぼった。
 それは、慶長八、九年前後であった。
 当時は、秀吉没後、いくらか、異教徒の往来もあり、伝道も黙認されていた。ピオの目的は、関東京坂の貴顕の間にとり入って、徐々と曙光を見、晩年には実行の端緒にはいった。
 天下は二勢力に分れていた。彼は大坂の秀頼の許しと、関東の大御所の印可とをあわせて得て、日本に一大耶蘇会堂をたてる目的の下に、地を捜すための旅に出た。
 そういう通信は、故国の王庁へも通じられていたから今までにも明瞭である。彼が、不明の人となったのは、慶長十七年、旅先で、不慮の禍いに会って、関東の山へ姿を隠してからであった。
 なぜ、ピオが山へ隠れたかというと、当時すでに、関東大坂の交渉は風雲険悪になりはじめて来て、その間に、やはり一人の耶蘇会の異国人が、密偵を働いて、関東の機密を、大坂へ通じた事件が発覚れた。
 その事件が関東方の神経を尖り立てていた時なので、ピオも忽ち嫌疑をうけて、数多の刺客に狙われた。
 つづいて、関東の老将軍家康は、突然禁教令を発し、多くのばてれんを斬り、教会堂を毀し、年ごとに迫害の度を強めた。
 ピオの山岳生活は知るよしもない。しかし、彼は三年目に、もうほとぼりも冷めたろうという気持からであろう、武蔵の高麗村に姿をあらわした。
 狛家の祖先は、彼を優遇した。
 けれどピオはそこにも長くいられなかった。忽ち、徳川家の武士の知るところとなって、境野から赤城の山へ走ったが、途中、安中の城下で、井伊直政の家中の手に捕われてしまった。
 江戸城へ送られたその年が慶長十九年。ちょうど関東大坂手切れとなって、大御所の息右大臣秀忠は、関東の兵をすぐつて大坂へ発向しようという間際であった。
 そういう際であったせいか、ピオは深い吟味をうけた様子もなく、出陣の血祭に、江戸城の庭で斬られたらしい。死骸は小者の手に渡って、無造作に埋けられた。また「慶長甲寅」の塚石は、その死骸を扱った小者が、ピオの死後、その土壌から鶏血草が咲いたため、迷信をおこして、病むものが多くひそかに計らって建てたものであった。
 どうして、鶏血革がそこに嘆くか、それは想像であるが、恐らく、ピオの所持していた種子が、ピオ自身の血汐を肥料として狂わしき鮮紅の葉を伸ばすのではあるまいか。
 迷信は迷信を生む。以来、江戸城の三代、四代、五代、とかく奥庭で怪我をすると、塚のせいにしたがった。
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