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<本文から> 秀吉は事態を深刻と判断するほどの情報を得ていない。現地の百姓は日本の百姓と同様に、支配者が交替しても頓着せず、戦乱とは関係なく耕作にはげみ、新しい主人に年貢を納め、以前とかわらない生活をつづけてゆくであろうと考えている。
朝鮮住民がはじめは日本軍を倭冦のたぐいだと思い、やがて李王朝の圧政からの解放者であると見たのち、しだいに恐るべき侵略者であると排斥し反抗するに至った過程を、秀吉は知らされていなかったようである。
たがいに理解しあえない言葉の障壁が、占領地支配政策をすすめえない重大な欠陥となり、百姓たちがひたすら日本軍を恐れ、秋の収穫さえ放棄して山間に逃げこむ深刻な状況がおこりつつある事実は、現地に身を置かねば把握できない。
日本国内でも奥州と薩摩の人が会えば、言語はまったく通じないが、文書は理解できる。朝鮮、明国の住民との意思の疎通もさほど困難ではなかろうと、秀吉をはじめ諸大名は朝鮮へ侵入するまで考えていたが、現地の状況はそのようななまやさしいものではない。
日本人どうしであれば、片言で意思を分りあえる方便もあるが、朝鮮語はそうはゆかない。結局、疑心暗鬼を生み、日本軍は作物の実りのない荒涼とした広大な朝鮮八道で孤立した。
秀吉は強大な武力を備えた日本軍が、異国でさまざまな困難に遭遇してもそれを克服し、期待する通りの戦果をあげるであろうとの考えを変えないでいた。 |
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