津本陽著書
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          夢のまた夢 5

■朝鮮出兵で正確な情報を得なかった

<本文から>
  秀吉は事態を深刻と判断するほどの情報を得ていない。現地の百姓は日本の百姓と同様に、支配者が交替しても頓着せず、戦乱とは関係なく耕作にはげみ、新しい主人に年貢を納め、以前とかわらない生活をつづけてゆくであろうと考えている。
 朝鮮住民がはじめは日本軍を倭冦のたぐいだと思い、やがて李王朝の圧政からの解放者であると見たのち、しだいに恐るべき侵略者であると排斥し反抗するに至った過程を、秀吉は知らされていなかったようである。
 たがいに理解しあえない言葉の障壁が、占領地支配政策をすすめえない重大な欠陥となり、百姓たちがひたすら日本軍を恐れ、秋の収穫さえ放棄して山間に逃げこむ深刻な状況がおこりつつある事実は、現地に身を置かねば把握できない。
 日本国内でも奥州と薩摩の人が会えば、言語はまったく通じないが、文書は理解できる。朝鮮、明国の住民との意思の疎通もさほど困難ではなかろうと、秀吉をはじめ諸大名は朝鮮へ侵入するまで考えていたが、現地の状況はそのようななまやさしいものではない。
 日本人どうしであれば、片言で意思を分りあえる方便もあるが、朝鮮語はそうはゆかない。結局、疑心暗鬼を生み、日本軍は作物の実りのない荒涼とした広大な朝鮮八道で孤立した。
 秀吉は強大な武力を備えた日本軍が、異国でさまざまな困難に遭遇してもそれを克服し、期待する通りの戦果をあげるであろうとの考えを変えないでいた。
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■乞食が一人もいないほど好景気

<本文から>
  当時日本の人口は四千万人に接近していたといわれる。日本の数十倍の国土を有している明国の人口が六千七十万人といわれていたのを考えると、おどろくばかりの稠密な人口であったわけである。
 「信長公記」を著した信長お弓衆太田牛一がのちに秀吉に仕え、「太閤さま軍記のうち」を著すが、そのなかに、秀吉在世中の日本が政治経済の大発展期に遭遇していたと記すくだりがある。
 「太閤秀吉公御出世よりこのかた、日本国々に金銀山野にわきいで、そのうえ高麗、琉球、南蛮の綾羅錦繍、金瀾、錦紗、ありとあらゆる唐土、天竺の名物、われもわれもと珍奇のその数をつくし、上覧にそなえてまつり、まことに宝の山に似たり」
 太田牛一は武人であるので、秀吉右筆の大村由己のように舞文曲筆を用いず、儒教道徳観念に左右されていないので、当時の事情を客観的に把握しているといわれる。
 彼は民間の大好況について記す。
 「むかしは黄金を稀にも拝見申すことこれなし。当時はいかなる田夫野人に至るまで金銀沢山に持ちあつかわずということなし」
 「太閤秀吉公御出世よりこのかた、日本国々に金銀美もっぱらにましまし候ゆえ、路頭に乞食ひとりもこれなし。ここをもって君の善悪は知られたり。御威光ありがたき御世なり」
 全国どこにも乞食が見あたらないというのは、非常な好景気に湧きたっていた事実を裏書きするものといえよう。
 室町期の通貨は明銭と砂金であったが、信長は天正大判を、秀吉は大判、小判を鋳造した。金貨をこしらえるだけの財力がととのっていたのである。
 秀吉は現代の六、七千万円に相当する小判を常に小姓に持たせ、諸人への心付けとして使っていた。
 文禄期は建設ブームの時代であった。秀吉はじめ諸大名が築城、居館造営など大建築工事をあいついでおこない、農民に夫役を命じた。
 このため農民は労賃を得て豊かな生活ができ、乞食をする者などはいなくなった。暮らしむきに余裕ができると子供がふえ、人口は増加の一途を辿っていった。
 当時の武士階級は財力をそなえていた。商人の規模も後世にくらべると桁はずれに巨大である。
 元禄期の豪商川村瑞賢、奈良屋茂左衛門、紀伊国屋文左衛門、淀屋辰五郎などが巨万の富を築いたというが、文禄期の博多商人の足もとにも及ばない規模にすぎなかったといわれる。
 日本の金銀が海外へ流出し、国力が衰えてくるのは寛永期になってのちのことである。
 秀吉は有りあまる国富をもって隣邦と共栄をはかるべきであったのに、戦乱をひきおこしたのはあきらかな過誤であった。
 大航海時代を出現させたスペイン、ポルトガルが「地獄の使徒」といわれるほどに残忍な所業をあえてして、未開大陸の掠奪をおこなってはいたが、日本はなぜ同文同種の朝鮮、明国とあいたずさえ、あらたな未来を拓こうとしなかったのか。
 時代の趨勢であったとはいえ、戦国の蛮風が悔やまれてならない。
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■先見性と他人を大事にして栄達の道を歩んできた

<本文から>
 秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃、出世のいとぐちをつかんだのは、信長に命ぜられた仕事を常に百パーセント以上、有数十パーセント、時には二百パーセントも達成する好成績をあげたからであった。
 薪奉行となると、清洲城の暖房をそれまでの半量の薪でおこなう。塀のつくろい普請をすれば、前任者が要した工程の三分の一の期間にやり遂げる。
 そのような業績は秀吉の機智によるものであるとして、さまざま語り伝えられているが、彼を支えていたのは部下の足軽、中間たちであった。
 当時、足軽の年間の手当は米一石八斗であったといわれる。自分の衣服、食料は与えられてもそれだけの俸給で妻子は養えない。
 彼らは兵士のような危険に満ちた職業をやめ、妻子とともに平和な生活をたのしみたいが、実現は不可能であった。
 戦場へ出陣すれば、戦死、怪我の災厄がいつわが身にふりかかるか知れない。敵と自刃を交えれば生き残れる確率は五十パーセントである。怪我をして運よく負傷が癒えても、体が不自由になれば乞食に転落しかねない運命が待ちうけている。
 そのような境遇に身を置けば、どうしても刹那的な快楽に傾き、博打をさかんに打つ。
 病気になり怪我をしても貯えがないので、死ぬまで医療をうけられない。
 秀吉はこのような小者たちに薬を与え、医師を呼んでやった。彼は自分に金銭の余裕があれば、そうしないではいられなかったのである。
 秀吉が小者のうちの一人を救ってやれば、その朋輩がことごとく秀吉に心服し懐いてくる。
 他の奉行が指揮して作事普請をおこなわせると、彼らはできるだけ怠けようとする。要領よくはたらいていると見せかけ手を抜くので、仕事に余分な日数がかかる。
 秀吉が指図をすると、足軽小者は惜しみなく力をついやし協力した。彼らは秀吉を味方、身内と見るようになったのである。
 延麿寺焼き討ちの際、秀吉は自分の持場へ逃げてきた僧俗はできるだけ落ちのびさせた。延麿寺の宝物のうち後世にのこったのは、秀吉が見逃してやったものがおおかたであるといわれる。
 秀吉は信長が山内の一字も残らず焼きつくし、僧俗ことごとく撫で斬りにせよと厳命を下してはいるが、部下が無駄な殺生をせず、寛大な措置をとったことが判明しても、咎めだてはしないであろうと見抜いていた。焼き討ちでは、光秀のほうが秀吉よりもはるかに残酷な仕打ちをしている。
 このように鋭敏な先見性と他人への思いやりによって栄達の道を歩んできた秀吉は、永禄四年(一五六一)織田家中間頭をしていた三十五歳のとき、十二歳年下のおねを妻とした。槽樺の妻のおねは利発で、秀吉が信長の信頼をかち得て昇進するための力強い協力者となった。
 おねは子を産まなかったが秀吉が天正二年(一五七四)長浜十二万石の城主になったとき、城下の町政に関与するほどの才気をそなえていた。  秀吉は大名家では表と奥の別をあきらかにし、表は政事軍事をつかさどる男の領分として女性の介入を許さないのがふつうであったのに、おねを政事にかかわらせた。
 このような秀吉の方針が、豊臣政権確立ののちに北政所派と淀殿派の対立を招く結果となった。
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■秀次破滅の原因は関白の地位に異常な執着をあらわしたから

<本文から>
  秀次破滅の原因は関白の地位に異常な執着をあらわしたことにあった。
 石田三成ら秀吉奉行衆は、秀次が将来お拾に政権を継承させる意志がないと見ていた。
 秀吉の死後、お拾とのあいだに武力衝突が起きないとはいえない。秀吉も、ついに秀次を見放すことになった。将来に禍根を残すより、いまのうちに処分するよりほかに方途がないと判断したのである。
 秀次は秀吉にいつ見放されるかと恐れるあまり、自らの地位をかためようとさまざまの術策を試み、いっそう破滅の淵に近づいてゆく。
 秀次の妻一の台局の父萄亭晴季は、婿に進言した。
 「太閤との疎遠をもとへ戻すには、禁裏のおとりなしを頼まれるがよかろうと存じまするが、いかがでどざろう」
 秀次は晴季の意見に同意し、朝廷へ白銀五千枚を献上した。現代の価値にすれば三百億円である。
 この事実はたちまち石田三成らの探知するところとなった。朝廷側の斡旋がすすめられるまえに、秀次への疑惑が深まった。
 「関白さまはご謀叛なされるやも知れぬ。禁裏にたいそうな金銀を献上してお味方を願ったそうな」
 不穏な情報を得た三成は、ただちに秀吉にその旨を言上した。秀吉はさきに秀次から金子を借用した諸大名が、彼に対し忠誠の誓書を差しだしたとの噂をも聞いていたので、ついに決断した。
「事の虚実を乱すべし。このままには打ちすておけぬだわ」
 秀吉の命を受けた三成と増田長盛は、七月三日に聚楽第へおもむき、謀叛を詰問した。
 三成らは数百の軍兵をともなってゆき、聚楽第では家老木村常陸介の指図で、輪火縄に点火した足軽鉄砲隊が待機していたといわれる。
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■外様を五大老にした遺言は家康、利家、三成らの協議によって作成されという説

<本文から>
 秀吉が後事を托する遺言の舟容は、彼がみずから語ったものではなかった。そのすべてが家康、利家、三成らの協議によって作成され、それを秀吉が読み聞かされ追認したものにすぎないとする説がある。
 病苦にさいなまれ気力消耗して意識障粍とした状態の秀吉が、五大老、五奉行の制度をとりきめたと三成たちから聞かされると、その是非を判断する分別もはたらかないまま認めたというのである。
 秀吉は生産に針のメドをくぐるような難関を数えきれないほど突破して生存闘争に勝ちぬき天下人となった、常人の及びがたい先見性、洞察力をそなえた非凡の人物である。
 他人の心中を見抜くわざにおいては、諸大名のうちで彼に及ぶものがいないといっていい。
 そのように思慮ぶかい秀吉が至上の宝としていつくしんだ秀頼の将来を預ける五大老のうちに徳川、前田、毛利、上杉の四人の外様大名を加えたのはふしぎである。
 また五奉行に浅野長政をのぞき石田三成以下の事務官僚ばかりをそろえたのも、有事の際の戦力にならない偏った人選である。
 足利将軍家が弱体といわれながら徳川将軍家とおなじく十五代の命脈を保ちえたのは、将軍家の政治を運営する中枢機関がすべて一門、譜代衆で構成されていたためであったといわれる。
 織田政権が天下一統の中途で瓦解した原因は、政権の中枢に光秀、秀吉らの新参衆を置いていたことにある。信長亡きのちその遺産を手中にした秀吉は、外様衆がなおさら信用できない存在であるのを知りつくしているはずであった。
 戦国大名の家臣団は一門衆、譜代衆、新参衆、国衆に分けられる。 一門衆は大名の一族で主人と血縁によってつながっている。譜代衆は親または祖父、そのうえにさかのぼる祖先から代々仕えてきた家来で、主人との緊密な一体関係は一門衆につぐ。
 彼らは主人を中心に鉄の団結を誇り、主人と生死をともにする。信長には郡古野衆と呼ぶ一門譜代衆がいた。家康には松平十八郷の松平衆がいた。  秀吉は小者として信長に仕え出世してきたので、譜代衆はいない。一門衆も彼に彼に兄弟が少なかったため、蓼々たるものであった。  弟の秀長、姉ともの子の秀次、秀晴、秀保。おねの甥の秀俊。ともの嫁いだ三好氏の一族。おねの実家の杉原、木下両家の者。おねの義兄妹浅野長政、宇喜多秀家などが、わずかに数えられるのみである。
 浅野長政は五奉行に名をつらねたが、豊臣秀長とは比較にならない器量であった。
 秀次の処刑は、豊臣家の基盤をゆるがす大事件であった。秀吉が秀頼の成人するまで政権を秀次に預けておけなかったことは、早期の一族崩壊を暗示するものであった。
 秀吉が自らの一代によって形成した家臣団の根幹としたものは、子飼衆、直参衆である。
 子飼衆としては堀秀政、加藤清正、福島正則、加藤嘉明らがいる。蜂須賀小六は秀吉よりも十二歳年上であったが、秀吉が台頭する頃から彼を支え盛りたててきた。
 おねの親族である杉原氏、木下氏も秀吉の初期の家来である。彼らは直参衆のうちにかぞえられる。  秀吉に征服され服従したのではなく、自ら彼の麾下に駆せ参じた直参衆は、尾張衆、美濃衆、近江衆、摂津衆、播磨衆など数多い。
 「黄母衣」「団扇差物」「赤母衣」「金切裂差物使番」などと呼ばれた戦場での馬廻衆はすべて直参である。
 秀吉直参の大名として「武家事紀」に掲げられる者は、つぎのような人々である。
 小西行長、黒田孝高、黒田長政、浅野幸長、浅野長居、前野長康、蜂須賀家政、仙石権兵衛尉、脇坂安治、平野長泰、大谷吉継、青木紀伊守、山口玄蕃頭。
 新参衆は、主家が秀吉に敗北した際、自ら望んで秀吉の家来になり、あるいは秀吉の調略に応じて帰服した侍たちである。おなじような経過で秀吉に服属した大名は国衆、あるいは外様衆と呼ばれる。
 秀吉の天下一統に際し、武力で抵抗できないためやむをえず服従した外様大名は、情勢しだいではいつ敵対するか分らない危険な存在である。  中国、四国、九州、関東、東北には強大な戦力をたくわえる外様大名がいた。
 小早川隆景、有馬豊氏、立花宗茂、上杉景勝、毛利輝元、長宗我部元親、島津義久、大友義統、竜造寺政家、秋月種長、有馬晴信、高橋元種、筑紫広門、松浦隆信、大村喜前、徳川家康、伊達政宗、佐竹義重、最上義光、宇都宮朝房、結城晴朝、里見義康、成田民兵、相馬義胤、南部信直、秋田親実らである。
 秀吉は外様衆の動静を警戒し、その所領配置に慎重な配慮をしていた。
 外様衆のうちで最大の勢力をたくわえている家康が天正十八年(一五九〇)小田原役ののち関東六州へ移封されたのは、外様衆の信望をあつめる台風の日のような存在を秀吉に懸念されたためである。
 秀吉は家康から三河、遠江、鞍河、甲斐、信濃を取りあげ、関東へ移対して、その支配力を弱めようとした。
 家康の父祖伝来の領地である三河を中心とする旧領は、領民の統治がゆきとどいていたが、関東へ国替えをすれば、土蒙、地侍衆、百姓町人たちをあらためて手なずけねばならない。
 新領主が旧来の慣習を無視し強権をふるえばたちまち叛乱がおこるので、慎重な地ならしが必要であった。
 秀吉は取りあげた家康の旧領には山内一豊、加藤光泰ら直臣を置き、東海道、東山道の要衝を押えて関東の情勢を監視させた。
 秀吉にこれほど危険視されつつも国替えののち破綻を見ることなく営々と関東統治に力をつくし、実力をたくわえてきた外様大名最右翼の家康が、なぜ大老に選ばれたのか。
 五大老のうち伏見、大坂に常駐し豊臣政権の中枢にいて揖取り役をつとめるのは、利家、家康の二人である。
 健康をそこない出仕もままならない状態になっている利家が枢機に参与できなくなれば家康の独壇場になり、彼が鰹節の番をする猫と化することは容易に想像できる。
 利家も秀吉の旧友ではあるが、賤ケ岳合戦のとき柴田勝家の陣営から調略により羽柴方に寝返った前歴をもつ。天下の情勢を鋭敏に察知する彼が、秀頼をいつまで守っているかはわからない。いざとなれば彼自身が覇権を狙ってもふしぎではない。
 五大老のうち信を置けるのは、秀吉の養子として育てられた宇喜多秀家のみである。
 このような人選は、家康、利家らの最高実力者が秀吉の懐刀である三成と協議し、たがいの力関係を考量したうえで決めたのであろうと想像できる。
 豊臣政権に五大老の必要はなかったといえよう。五奉行を政治の最高機関として、事務官僚ばかりではなく、加藤清正、福島正則の子飼衆、あるいは黒田長政、細川忠興ら直参衆の武将を加えれば、外様大名を威服させうる軍事力をそなえることもできたわけである。
 だが石田、長束、増田らの奉行たちは、秀吉の虎の威を借る狐として清正ら武将に嫌われていた。
 佐和山十九万四千石の領主にすぎない三成は、秀吉に忠誠をつくし豊臣家の繁栄をひたすら願っていたが、主君亡きあとの情勢を考えてみれば、利家、家康の意見をうけいれ、自己の保身を考えざるをえなかった。
 秀吉の保護を失えば、清正らに闇討ちされかねないのである。
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