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<本文から> このとき強制移転をさせられた寺院は、浄土、法華、時宗の三派のものがほとんどであった。
この三沢は町衆とのつながりがふかく、秀吉は京都支配を完全たらしめるには、両者の連繋を弱体化させねばならないと見ていた。
寺町につらなる寺院の背後には、お土居が南北につづいている。寺院は京都東部の防禦機構となったわけである。
イエズス会司祭ルイス・フロイスは、天正二十年(一五九二)年十月一日、本国への書信につぎのように記している。
「この年、関白殿は、京都でいままでに例のない事をおこなった。都の全体を大きな溝渠で取りかこんだのである。
このような大工事によって彼の名をのこし、都の状況を彼独特の流儀で一新させようとした。
すなわちすべての仏憤をその寺院から立ち退かせ、溝渠に沿う一定の地域へ集まり住ませた。
この種の区画整理ははなはだ西難で、関白のほかには誰もなしうることではない。事は数日のあいだに迅速におこなわれた。
仏僧と信徒の憤懣はすさまじく、彼らは引きはなされはなはだしく打撃をうけた。
僧たちは民衆との交流を断たれ、疫病患者のように隔離され、宵千の宗派が言所に一箇所に集められた。
彼らの所得は没収され、寺領から追放されたので、生活の手段もなく、信徒の寄付も途絶え、ふたたび以前のような寺院を建てる望みもなくなった。
そのためあらたに生計の道をたてる者もあり、扶助もなく窮迫するばかりの者もある状況で、京都でのわが宗門キリシタンのためには好都合なことである」
京都では、現代までつぎのようなわらべ唄が伝承されている。
「まる、たけ、えびすにおしおいけ。あね、さん、ろっかく、たこ、にしき。し、あや、ぶっ、たか、まつ、まん、ごじょう」
この唄は京洛を東西に縦貫する道路を、北限の丸太町通から南の五条通までをかぞえたものである。
丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御地、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿院、五条の通りが詠みこまれている。
秀吉はわずか半年のうちに、京都市街の様相を一変させた。
中核部は武家、公家の屋敷と町屋の三区分が整然とおこなわれ、周辺に寺院が配置される。
その全体がお土居で囲まれ、洛外との通行は、「京の七口」と呼ばれる関門を通じておこなわれることになった。関門は旧来の呼称に従い七口と呼ばれていたが、実際は十ロ以上あった。
秀吉は禁裏の位置を変えないまま、聚楽第を中心とする城下町の形成をめざしたのである。 |
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