津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          夢のまた夢 4

■秀吉が利休を切腹させたことを後悔する

<本文から>
 秀吉が利休を切腹させたのを、ほどなく後悔したといういい伝えがある。彼が生涯のうちに悔いたおこないが五件あり、そのひとつであるという。
 秀吉にとって、諸国大名が大坂城へ伺候したとき、天下一の茶匠である利休に茶をたてさせるのが、このうえもなく晴れがましく誇らしい饗応であった。
利休のようなかけがえのない人物を死なせたのは、彼が秀吉に追随せず、いわれるがままにふるまわなかったためである。
 だが秀吉は利休を死なせてみれば、彼によってどれほど自分に威厳が添っていたかを思い知らされる。
 彼は利休の死後も利休好みの茶事をおこない、故人を偲んでいたかのようである。
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■京都を聚楽第を中心とする城下町に変貌される

<本文から>
 このとき強制移転をさせられた寺院は、浄土、法華、時宗の三派のものがほとんどであった。
 この三沢は町衆とのつながりがふかく、秀吉は京都支配を完全たらしめるには、両者の連繋を弱体化させねばならないと見ていた。
 寺町につらなる寺院の背後には、お土居が南北につづいている。寺院は京都東部の防禦機構となったわけである。
 イエズス会司祭ルイス・フロイスは、天正二十年(一五九二)年十月一日、本国への書信につぎのように記している。  「この年、関白殿は、京都でいままでに例のない事をおこなった。都の全体を大きな溝渠で取りかこんだのである。
 このような大工事によって彼の名をのこし、都の状況を彼独特の流儀で一新させようとした。
 すなわちすべての仏憤をその寺院から立ち退かせ、溝渠に沿う一定の地域へ集まり住ませた。
 この種の区画整理ははなはだ西難で、関白のほかには誰もなしうることではない。事は数日のあいだに迅速におこなわれた。
 仏僧と信徒の憤懣はすさまじく、彼らは引きはなされはなはだしく打撃をうけた。
 僧たちは民衆との交流を断たれ、疫病患者のように隔離され、宵千の宗派が言所に一箇所に集められた。
 彼らの所得は没収され、寺領から追放されたので、生活の手段もなく、信徒の寄付も途絶え、ふたたび以前のような寺院を建てる望みもなくなった。
 そのためあらたに生計の道をたてる者もあり、扶助もなく窮迫するばかりの者もある状況で、京都でのわが宗門キリシタンのためには好都合なことである」
 京都では、現代までつぎのようなわらべ唄が伝承されている。
「まる、たけ、えびすにおしおいけ。あね、さん、ろっかく、たこ、にしき。し、あや、ぶっ、たか、まつ、まん、ごじょう」
 この唄は京洛を東西に縦貫する道路を、北限の丸太町通から南の五条通までをかぞえたものである。
 丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御地、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿院、五条の通りが詠みこまれている。
 秀吉はわずか半年のうちに、京都市街の様相を一変させた。  中核部は武家、公家の屋敷と町屋の三区分が整然とおこなわれ、周辺に寺院が配置される。
 その全体がお土居で囲まれ、洛外との通行は、「京の七口」と呼ばれる関門を通じておこなわれることになった。関門は旧来の呼称に従い七口と呼ばれていたが、実際は十ロ以上あった。
 秀吉は禁裏の位置を変えないまま、聚楽第を中心とする城下町の形成をめざしたのである。
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■朝鮮侵略は情報不足による判断の過誤をかさねた

<本文から>
  だが秀吉は、明国への進攻作戦が日本国内一統の過程よりも、たやすく進展すると見ていた。緒戦の捷報ばかりが伝えられ、朝鮮人民の動向を察知することもなく、あきらかに情報不足による判断の過誤をかさねている。
 秀吉の戦歴に敗北の汚点はない。
 過去のすべての合戦を持ち抜いてきたのはもちろん強運に恵まれてのことであったが、非凡な判断力がなくては達成できないことであった。
 いま秀吉は朝鮮の民情を日本と同様に考え、現地の支配体制をととのえれば、朝鮮人民は日本の民草と同様、水の低きにつくように彼に服従すると見ていた。微妙な感覚の鈍磨があらわれているのは、現地を知らないためである。
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