津本陽著書
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          夢のまた夢 3

■秀吉は家康を上洛させて政治的に成功

<本文から>
 彼は羽織を脱ぎ、家康に着せたうえで、居流れる諸臣に告げた。
「いま皆の聞けるがどとく、家康の儂に鎧を着せまじき覚悟のほどを聞きとりしだわ。思うてみれば、まことによき婿を取りしものよ。果報由々しき秀吉にてあらあず」
 このときの二人の応酬は、羽柴秀長、浅野長政の仕組んだものであったが、たちまち諸国に流布した。
 噂を聞いた者は皆、今後の秀吉の威勢はどのようになろうかと恐怖した。
「家康にしてこの言葉あらば、こののち秀吉の鋒先となって戦うに違いない。されば海内に楯突く者はあるまい」
 秀吉は、家康に聚楽第の傍へ屋敷を授けることとした。
「旭が大政所の顔を見に参りたしと申すとき、あるいは有馬の湯に入らるるときに、館があらば都合よきことだでのん。こなたにて建ててつかわすだわ」
 秀吉は宇喜多ほか二人の大名の屋敷を取りはらわせ、跡地に徳川屋敷を普請するよう奉行に命じた。
 秀吉は家康の京都屋敷普請の大半を負担してやり、家康在京中の台所料として、江州守山三万石を与えた。
 ほかに家康の重臣酒井忠次に京都で宅地を与え、江川で采邑千石を授けた。
 十一月五日、家康は羽柴秀長とともに正三位権大約言に叙せられた。
 九日には家康の臣本多平八郎忠勝、榊原小平太康政が従五位下に叙せられた。忠勝は中務大輔、康政は式部大輔に任じた。
 十一月十一日、家康と一万二千の供侍は尾州大高表に到着した。
 三河在国の諸将は大高城下で迎え、無事の帰国を賀した。
「お殿さまご息災なるお姿を眼の辺りにいたし、祝着このうえもござりませぬ」
「京都にて異変おこらば、われらはただちに押し登り、屍の山を築く覚悟にてありしところ、尊顔を拝し、総身より力の抜けゆく思いにござりまする」
 留守居の井伊直政、本多重次らは喜色をかくさず家康の手をとらんばかりのよろこびようであった。
 家康も笑って答えた。
「いかさま、虎口より逃れし心地のいたすことよ」
 彼は秀吉に仕物にかけられるおそれが充分にあるのを覚悟で上洛した。
 彼は帰国の途上で、群雄割拠の時代はもはや過ぎ去ったと、くりかえし考えていた。
 四方に強敵をひかえていた信長在世の頃は、対抗勢力の頭領を自らの勢力圏内におびき寄せれば、生きて帰さぬのが当然の苛烈な弱肉強食の法則が通用していた。
 だが、いまはちがう。秀吉はあたらしい政治方針をつかんだと家康は知った。
 彼は自分に抵抗する敵は攻めるが、降参すればたやすく許し、傘下に加える。
 そうしても、謀叛される懸念はない。秀吉政権の基盤は信長在世当時からわずか四年余りを経たのみで、はるかに強化されている。
 一向一揆も膝下にひれ伏し、刀狩り、検地の施策をうけても反抗の気勢をあらわさない。
 聚楽第に参集する諸大名は、小柄な秀吉を魔王のようにおそれ、仰ぎ見ていた。
 「儂が浜松にてすごせし月日のうちに、猿めは面変りいたしおっただわ」
 家康の胸中に、天下をうかがう機を逸した悔恨の思いがたゆたっていた。
 信長の陳使に甘んじていた秀吉は、いま天下人として彼の頭上にいる。残念だが従うよりほかに保身の道はないと、家康は思いきめていた。
 秀吉が家康との対戦を回避するために、あらゆる努力を惜しまなかったのは、徳川一門の軍事力を警戒したためであった。
 彼は小牧長久手の合戦によって、徳川勢が危急存亡の瀬戸際に立ったとき、鉄の団結によって強敵に立ちむかう獰猛なまでの底力を知った。
 下手に扱えば、荒れ狂う熊蜂のように手をつけられなくなる徳川軍団は、政治的におさえこむのに限る。
 物量作戦によって圧倒しようとしても、捨て身の反撃を受ければ大損害を受け、秀吉政権の軍事力の弱点が露呈する結果となりかねない。
 そうなれば、いったんは鎮静したかに見えている諸国の下剋上の機運にまたもや火がつき、収拾のつかない動乱がはじまる可能性もある。
 秀吉が大政所を人質にまでして、家康を上洛させた効果は大きかった。
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■関白太政大臣になった秀吉は臆病になる

<本文から>
 四月十九日、秀吉は八代城に入った。
 地元の大小の土豪は、大手門のまえに堵列して秀吉を迎えた。
 彼らは秀吉の輿が、厳重に護衛されているのにおどろく。
 屈強な足軽たちが、防弾用の竹杷をつらね、輿を取りかこんでいるので、秀吉の顔をかいま見ることさえできなかった。
 はるばる上方から下ってきた関白とその軍勢の、華麗な行装を見物するため、沿道に人垣をつくつた老若は、たずさえた素槍の穂先に眩しく陽をはねる軍兵たちに叱咤され、おどろいて引きさがる。
 「こりや、さように近くにおるのではない。もっと退きて拝むがよい。さっさと退け。ぐずつく奴輩は槍の柄で空臑を薙ぎはらってくれるわ」
 秀吉は陽気な性格であると噂に聞いていたのに、これはどうしたことであろうかと、地侍たちはいぶかしむ。
 竹杷にとりかこまれた輿のなかにいる秀吉は、道筋にざわめく人声を聞くと、輿から出て手を振ってやりたい。
 ついでに銭や餅も撒いてやり、百姓の老若をよろこばせ、自らの威福をひろめたいのだが、四月四日に秋月八丁越えで狙撃された恐怖がまだ胸奥に残っており、人前に姿をさらす気になれなかった。
−儂もすくたれ者になりしものだわ
 彼は真夏を思わせる暑気にうだりながら、輿の扉を開ける気にもなれない臆病なわがふるまいを自嘲する。
 四年前の賤ケ岳合戦の頃までは、秀吉は野戦の経験をかさねた勇将であった。
 敵味方の軍兵が屍山血河の白兵戦を展開するただなかにいて、臆することはさらになかった。
 銃丸に胴をつらぬかれる兵が、空樽を棒で打たれるような大音響とともに血をふりまき、薙刀に首にはねられた首が毯のように宙に飛ぶのを見ても、心を動かさなかった。
 そのような光景を、秀吉は見なれており、自分がいつ死んでも定命が尽きたにすぎないと、思いきわめていた。
 だが、関白太政大臣となったいま、秀吉は臆病になっていた。
  −儂は信長旦那とは違うだわ
 秀吉は輿のうちで外部の物音に耳をそばだてつつ考える。
 信長は天下一統への目的達成のためには、前途をはばむなにものをも粉砕する闘志に満ち、自らの得たものを守ろうとかえりみることがすくなかった。
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■北政所は体裁をとりつくろわない比類なき才媛

<本文から>
 秀吉は「一の人」と呼ばれる貴人となったのちも、侍臣にはかつて信長の草履取りであった頃の苦心の数々を、隠すことなくあからさまに語って聞かせた。
彼は裡に破れ帽子のいでたちで、雨が降れば頭にさんだわらをくくりつけ、空腹をかかえ幾里もの山里を越えていった記憶を、脳裡に鮮明に残しており、旧時をなつかしむかのようであった。
 北政所も同様であった。
 なみの女性であればあまたの侍女にかしずかれるようになれば、昔の家計をやりくりし、夜なべの内職にはげんだことなど、ロにしたがらない。
 だが彼女は秀吉と同様にまったく体裁をとりつくろわなかった。
 そうするのは非凡だからである。
 北政所は夫と同様に、物事の核心を把む能力をそなえていた。
 人を評価するのに、富、出自などを重んじることはなく、その才能を率直に判断する。
 侍女たちは、北政所が比類ない才媛であることを知っていた。
 彼女が糟糠の妻として秀吉を扶け、天下人の座につかせた経緯を、前田利家のような長い交誼をかさねた武将たちは見聞してきたので、秀吉が妻に一目を置くのを当然としていた。
 秀吉夫妻は、大勢の侍臣が控えている遊宴乱舞の席において、天下の大事を語るのをはばからない。
 諸大名への仕置き、国郡の興廃などについて、北政所は秀吉と対等に議論する。
 たがいに明敏で、物事の核心をつき話しあうので、熱中すると夫婦喧嘩をはじめたかのように口調がはげしくなった。
 あるとき乱舞の席で、夫婦の議論の声がたかまり、喧嘩のようになったことがある。
 秀吉は話に熱中していたが、われにかえって能役者に聞く。
「かようの騒ぎをなんと見ようぞ」
 太鼓打ちはうろたえたが、とっさに返答した。
「夫婦の御いさかいが、太鼓の撥にあたってござりまする」
 笛吹が傍からいう。
「どなたが理やら非やら」
 秀吉夫妻は、それを聞くとともに笑った。
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■秀吉は生死の場を通りすぎてきた武将を信頼

<本文から>
 利休は家康と親密であった。
 三成は家康を嫌っている。浅野、前田は家康に近い。武人同士でたがいの心情を理解しやすいからである。
 三成は官僚であった。いまは秀吉本陣を出て大谷吉継、長束正家らとともに上州館林城攻略にむかっているが、秀吉は彼の戦闘指揮能力に期待をかけてはいない。
 秀吉は戦闘の局面では野戦、城攻めを重ね、生死の場を通りすぎてきた武将を信頼している。
 だが豊臣政権は、武将のみで維持経営するには組織が巨大になりすぎていた。
 こんどの小田原攻めで陸海二十余万の軍勢を動員稼動させるには、兵站補充の専門家が必要である。
 戦費を捻出し、人員を召集する部門にも多数の役人がいる。その組織を動かす奉行は数十人もいた。
 秀吉は政権の大組織を動かすには官僚が必要であると認めているが、心情の面では武将を理解し親近感を抱く傾きがある。
 政宗のように好戦的で四囲の他領に侵略の牙をむける若者を、秀吉は嫌ってはいない。
 豊臣政権に刃向ってくる敵は粉砕しなければならないが、政宗が帰服するようであれば味方につけてもよいと考えている。
 扱いにくい男ほど、いったん手を結べば頼り甲斐がある。
 その夜、秀吉は早雲寺本陣をたずねてきた浅野、前田の二人から政宗の陳弁を機嫌よく聞いた。
 とるに足らないような小さな紛議がもとで、国境を接する大名たちから攻撃を受け、やむをえず応戦して戦線拡大の結果をもたらしめたという政宗の主張が、牽強付会でありながら、妙に辻褄があっていたからである。
 秀吉は北条氏直とともに彼の権威に頑強に抵抗していた政宗が帰服したことを、よろこんでいた。
 小田原城攻略のめどがついていないいま、政宗が死を覚悟のうえで秀吉のもとへきたのは、民政、氏直の敗北が間近いと判断したためである。
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