|
<本文から> 彼は信長のように、他者の存在を無視する傍若無人のふるまいは見せず、小大名の陪臣に対してさえ、丁重に応対していたが、小猿と呼ばれた頃よりもなお縮んだ矮躯から、すさまじいまでに精気を放射していた。
秀吉の大坂城出陣を見送った諸臣のなかに、宗易(利休)がいた。
宗易はこの時期、秀吉の茶頭であるとともに、政治、軍事の機密に関与する側近であった。
彼のそのような立場を立証するものに、天正十年(一五八二)六月十五日付の摂津茨木城主中川清秀にあてた利休書状がある。
その内容は清秀の山崎合戦における戦功を称讃したものであるが、宗易は茶頭の域をこえ、秀吉の政治顧問とみられる発言をしている。
この時期、宗易が第三者へ送った書状には、秀吉と呼びすてにしたものが多い。秀吉公、秀吉御前とたまに敬称を用いている。
秀吉あての書状では「羽筑様」とあらたまるが、彼はまだ臣従しているとの意識を抱いていなかったようである。
信長生前には、秀吉が利休を「宗易公」と敬っていたほどである。
宗易は家康から初花肩衝を贈られたときの秀吉のよろこびようを、成りあがり者の滑稽なまでの仰々しさと見ていた。
天正十年(一五八三)六月二十日、宗易は島井宗室に書状を送った。
宗室は信長が本能寺で横死の際、寺内に居あわせた茶人である。
書中には、大坂城落成を記念しての秀吉への贈りものが多く、迷惑していると記している。
「唯今は初花、近日徳川穀より来候。珍麿物到来に候。我等かたへは珍らしからず候。年来にまで様に迷惑までに候。人の上にて候わば、申すべき物をと申す事に候」
人の上にて候わば、申すべき物をと申す事に候という文意は難解であるが、宗易が秀吉ほどの人の上にある立場なら、初花佗どの物を贈られてもよろこばないのだが、といっているめである。
めずらしい唐物骨董も、自分にとってはめずらしい物ではないというのも、秀吉の茶の湯の理解についての俗物性をついた言葉である。
秀吉は宗易の芸術が静寂の境地を志向し、秀吉の唐物好みを内心で軽蔑しているのを、読んでいた。
だが、秀吉は諸事に派手好みの自分の性格を、とりつくろおうとは思わない。彼は宗易のそのような内心を察していても、珍稀な茶器に対する執着をあらわにして、はばからない。
−宗易は世故にも長けてはおるが、数奇者だわ。儂は天下人ゆえ、あやつには儂が器量は読めぬ。儂は茶事を軍略として用いるのでもない。信長旦那は茶事あろうと何事につけても、わが道具、方便としてお使いなされしが、儂はちがう。地下の暮らしの辛酸をなめつくしてきた儂なれば、この世の快楽の味わいはよう分るのでや。
茶事であろうと、女子であろうと、官位であろうと、儂は心を楽しませるものならば、無理にも掌中にして見せるだで。儂のなすことに口出しはさせぬ−
秀吉の茶の湯執心は、信長をうわまわる道具数奇にあった。 |
|