津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          夢のまた夢 1

■松下之網のもとを去ったことにより歴史に登場できた

<本文から>
 秀吉がこのときまで松下の家来として勤仕しておれば、主人とともに家康に仕えることになったか、職をはなれたか、どちらにしても出世の道はふさがれたであろう。
 松下家に残ってももちろんとるにたらない陪臣として、歴史の表面にあらわれる機会にめぐりあうことなどは、なかったにちがいない。
 信長が有望であると見て、織田の家来になろうとしても、今川の部将に奉公した前歴があれば、たやすく採用されるはずもない。かりに転職に成功したとしても、疑心のつよい信長は敵に仕えていた秀吉を、容易に信頼しなかったであろう。秀吉が松下之網のもとを、同僚のねたみにより去らざるをえなかったことが、彼の運命の重大な転機となったわけである。
 信長の草履取りとなってのち、秀吉は卓抜な才能を縦横に発揮した。
 戦場では勇敢に戦い、足軽、足軽組頭、足軽大将と昇進し、短時日のうちに士分に列した。平時には台所奉行、普請奉行と大役を与えられる。
 東美濃進攻、洲俣占領の大功によって一手の将となった秀吉は、永禄十一年(一五六八)九月、信長が足利義昭を奉じ入京したときは、椎慢に参与する重臣となっていた。
 −儂はおのれの運気のつづくかぎり、精根しぼって舞いを舞うてやらあず。どの辺りまでゆきつくか、われながらに分らぬでやがな−
 秀吉は、眼前にあらわれ立ちふさがるさまざまの障害にたちむかうとき、身内から泉のよう.虹勇気が湧き出てきて、愉快にさえなる。 
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■中国大返し

<本文から>
 中国地方を転戦するあいだに習熟した電撃作戦は、秀吉の軍団のみがなしうるわざである。
 武器は小荷駄で送るか、現地調達とし、身軽な兵士を通常の軍団移動の二倍ないし三倍のスピードで動かしうる能力は、敵の意表をつくものであった。
急速な移動の際には、侍衆も甲冑をつけず、半裸で戦場へ馬をむける。彼らの甲冑は、平生から養っている「兜着」と呼ばれる強壮な体躯の足軽が、着込んであとにつづくのである。
 着るのは、担ぐよりも体が楽なためであった。戦場に到着すると、主人は兜着から甲冑をうけとって武装し、充分に余裕のある体力で戦闘にのぞむことができる。
 軍団移動の沿道には、焼きむすび、水、草鞋などがそろえられ、落伍者を収容する陣小屋も設営され、夜間は篝火が真昼のように焚かれた。
 そのような戦法は、秀吉のほかにとる者がいなかった。
 ここまでくりやあ、まず仕損じはなかろうで
 高松の戦線を退陣するときは、五里霧中であった彼の布石が、次第に明瞭なかたちをとりはじめていた。
 光秀はどうやら、近江平定を第一ととらえ、作戦をすすめているようであった。
−あやつも、畿内で日和見をいたしおる諸侍も、儂がかほどに早う退陣せしとは、夢にも思うておらぬわな−
だが、秀吉は楽観しているわけではない。
 野戦の将として自分を鍛えぬいてきた彼は、戦場でどのような番狂わせがおこるか知れない事情を、心得ていた。
 楽勝できると思うときは意外の苦杯を喫し、難敵にむかい全力をふりしぼって激突してみると、案外に脆いことがある。
 大勝ちして敵を追いまくっているときに、伏兵に急襲され、旗本本陣が突き崩されて、秀吉自身が落命しかねない危機に見舞われたことも幾度かあった。
 秀吉はそのような波瀾は承知のうえで、合戦の勝敗をほぼ誤らず予断できるようになっていた。
 彼は、まもなく疲れはてて備中から到着する軍団の将士を鼓舞するため、姫路城に蓄えていた金銀、米穀のすべてを大盤ぶるまいする。
 柴田や丹羽であれば、小出しに与えるであろう金穀を、家来どもの意表をつくほどに多く与えれば、勝利ののちはどれほどの恩賞にあずかれようかと、ふるいたつものであるのを秀吉は知っていた。
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■秀吉は気さくで一度会った相手を忘れない

<本文から>
 天正十一年(一五八三)正月、秀吉は山崎宝寺城で鶏鳴とともに起きた。彼は四十八歳の春を迎えた。
 宝寺城の内外は、前年夏の合戦で敵味方の命が多く失われ、付近の山野には行く先をわきまえぬ怨霊がさまよっているかと思える、荒涼とした気配がただよっていたが、秀吉は物の怪をおそれない。
 彼は主殿の奥まった辺りの寝所で、絹の得に側女とともに伏し、熱寝をむさぼってめざめる。
「さあ、今年は何かとせわしいだわ」
 女性の柔肌を抱きつつ、格天井の性のぐらい辺りに眼をあそばせる秀吉の表情は、無数の軍兵たちの生血のにおいに馴れてきた、峻厳な武将のものであった。
 彼は湯風呂を浴び、髪をくしけずったのち、金紋継子の小袖に縫箔の肩衣の派手ないでたちで大広間に出て、群臣、近国大小名の年賀をうけ、時はあわただしく過ぎた。
 秀吉は拝謁に出向いた侍衆に、親愛の情をつくして応対する。彼は一度会い、言葉をかわした相手であれば、姓名、経歴をくわしく覚えていた。
 それはなかば人心収攬の努力によるものではあるが、彼には天性の妃憶力によって、労せず相手の身上をそらんじうる才があった。
 「そのほうが父者は、腰痛に悩んでおったが、近頃の様子はいかがでや。なに、本復いたせしか、それは重畳」
 「おのしが乙姫は、幾つになったかのん。はや、十三か。そろそろ婿を探さねばなるまあが、儂にまかせておけ」
 元旦は諸侍、公家、寺社の僧、商工を業とする町衆たちに会い、終日を過ごした。
 京都の町衆たちの、秀吉の評判は上々であった。
 「筑前さまは、信長さまとはちごうて、諸事気兼ねいらずでありがたい」
 「ほんまにそうや。大路を馬で打ち過ぎながら、行きあう男や女子に、気やすうお声をかけなさるが、あげなことをなさるるお大名は、ほかにはおらへんどつせ」
 彼らはいぬ信長に拝謁するときは土下座して、地面に額をすりつけ、顔もあげられず、ただ声と衣摺を聞くのみであったが、秀吉とは畳のうえで言葉を交すことさえできた。
 秀吉は町衆たちの話におもしろげに耳をかたむけ、同輩のような威張らないロをきく。しかも気前よく引出物をくれた。
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■賤ケ岳七本槍は九人

<本文から>
 世に名高い「賤ケ岳七本槍」の勇者は、実際には九人いたわけである。
 寛永二年(一六二五)加賀の儒者、小瀬甫庵の編んだ「太閤記」のほか、江戸期に書かれた史録には、なぜか九人のうち石河兵助、桜井佐吉の二人をのぞき、七人が一番槍の功をたてたとされているので、「七本槍」と誤伝されることになったのである。
 秀吉の御伽衆大村由己が、賤ケ岳合戦ののち幾月も経たないうちにあらわしたといわれる、「柴田合戦記」には、九人が一番槍をつけたと記されている。
 秀吉は合戦ののち、戦死した石河兵助の弟長松一宗に家督を継がせたうえ、他の八人の一番槍の面々とともに、特に席を設け、盃を与えた。
 恩賞としては三千石または五千石を加増し、添えるに黄金、羅吊をもってし、さらに感状を与える。
 秀吉が九人に与えた感状は、福島市松、脇坂甚内、加藤孫六、平野権平、桜井佐吉あての五通が現存している。
 片桐助作、糟屋助右衛門尉、石河長松にあてた三通は、写しが残され、加藤清正あてのものだけがや実物も写しも伝えられていない。
 恩賞の領地石高は、九人のうち福島市松だけが五千石で、他の八人はいずれも三千石である。
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