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<本文から> 秀吉がこのときまで松下の家来として勤仕しておれば、主人とともに家康に仕えることになったか、職をはなれたか、どちらにしても出世の道はふさがれたであろう。
松下家に残ってももちろんとるにたらない陪臣として、歴史の表面にあらわれる機会にめぐりあうことなどは、なかったにちがいない。
信長が有望であると見て、織田の家来になろうとしても、今川の部将に奉公した前歴があれば、たやすく採用されるはずもない。かりに転職に成功したとしても、疑心のつよい信長は敵に仕えていた秀吉を、容易に信頼しなかったであろう。秀吉が松下之網のもとを、同僚のねたみにより去らざるをえなかったことが、彼の運命の重大な転機となったわけである。
信長の草履取りとなってのち、秀吉は卓抜な才能を縦横に発揮した。
戦場では勇敢に戦い、足軽、足軽組頭、足軽大将と昇進し、短時日のうちに士分に列した。平時には台所奉行、普請奉行と大役を与えられる。
東美濃進攻、洲俣占領の大功によって一手の将となった秀吉は、永禄十一年(一五六八)九月、信長が足利義昭を奉じ入京したときは、椎慢に参与する重臣となっていた。
-儂はおのれの運気のつづくかぎり、精根しぼって舞いを舞うてやらあず。どの辺りまでゆきつくか、われながらに分らぬでやがな-
秀吉は、眼前にあらわれ立ちふさがるさまざまの障害にたちむかうとき、身内から泉のよう.虹勇気が湧き出てきて、愉快にさえなる。 |
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