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<本文から> かつての防長二州からなる山口県は、戦前、それもかなり早い時期から学校教育の場で吉田松陰の事績を子どもたちに教え込んできたと聞いている。それは薩摩人とともに明治政府の主力閥を形成した長州人たちが、自らが主導する天皇絶対制下の忠君愛国のイデオローグとして松陰を利用しょうとしたことと深く関わっていると考えられるが、そういう教育によるある種のすりこみに加え、奈良本氏が何かで書いておられたが、「文句なしに松陰が好き」という心性が共通してあるのではないかと、私には思われる。同郷意識もあると考えられる。もちろんここに挙げた方々は、戦前的な松陰像を極力排除して、松陰に立ち向かっておられることはいうまでもないし、自らの好意をあからさまに広言されているわけでもない。田中氏のように、極めて冷徹に研究対象として捉えておられる方もいる。
けれども、山口県出身者を含め多くの書き手は日本人的メンタリティに基づき「好きだから」ということで、いささか乱暴な言い方になるが、ひいきの引き倒しのように自分の考える松陰像を措いてしまう傾向が多分にあるように思われてならない。
しかし先にも述べたように松陰は、未成未完に終わった人である。自身は三十歳を目前にしての死を惜淡として受け入れたという説もあるが、その死の受け入れ方とは別に、三宅雪嶺が指摘するように松陰のなそうとした多くのことが直接的に結論、結果をもたらすことなく終わったことは否定できない。彼の言動、思想がその後の時代に与えた影響は論じることができるが、これが松陰の最終的思想だといわれるものは誰にも分からない。だから、そこに常に想像や好悪の感情が入り込む。時代のというか、政治的風潮がもたらす影響も少なくない。その意味で、彼の思想や事績を正当に評価することは実に難しいことのように思われる。 |
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