津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          吉田松陰 異端のリーダー

■吉田松陰への関心は判官びいき

<本文から>
 私が『松風の人』を書きながら、ふと思ったのは、源義経のことであった。子どもがそのまま大人になったような純粋さ、政治性の欠落、利害得失の忘却、ひたすらな行動、そして宿望を達しないままの、若くて不運な死。「判官びいき」という言葉があるように、そうした人物に日本人は没理性的にというのか、文句なしに好きになってしまう。赤穂四十七士ともどこか近似している。
 それが、吉田松陰への関心が、今日なお失われない大きな理由のひとつのように思われる。
▲UP

■未成未完に終わった人

<本文から>
 かつての防長二州からなる山口県は、戦前、それもかなり早い時期から学校教育の場で吉田松陰の事績を子どもたちに教え込んできたと聞いている。それは薩摩人とともに明治政府の主力閥を形成した長州人たちが、自らが主導する天皇絶対制下の忠君愛国のイデオローグとして松陰を利用しょうとしたことと深く関わっていると考えられるが、そういう教育によるある種のすりこみに加え、奈良本氏が何かで書いておられたが、「文句なしに松陰が好き」という心性が共通してあるのではないかと、私には思われる。同郷意識もあると考えられる。もちろんここに挙げた方々は、戦前的な松陰像を極力排除して、松陰に立ち向かっておられることはいうまでもないし、自らの好意をあからさまに広言されているわけでもない。田中氏のように、極めて冷徹に研究対象として捉えておられる方もいる。
 けれども、山口県出身者を含め多くの書き手は日本人的メンタリティに基づき「好きだから」ということで、いささか乱暴な言い方になるが、ひいきの引き倒しのように自分の考える松陰像を措いてしまう傾向が多分にあるように思われてならない。
 しかし先にも述べたように松陰は、未成未完に終わった人である。自身は三十歳を目前にしての死を惜淡として受け入れたという説もあるが、その死の受け入れ方とは別に、三宅雪嶺が指摘するように松陰のなそうとした多くのことが直接的に結論、結果をもたらすことなく終わったことは否定できない。彼の言動、思想がその後の時代に与えた影響は論じることができるが、これが松陰の最終的思想だといわれるものは誰にも分からない。だから、そこに常に想像や好悪の感情が入り込む。時代のというか、政治的風潮がもたらす影響も少なくない。その意味で、彼の思想や事績を正当に評価することは実に難しいことのように思われる。
▲UP

■鎮西の旅は満足させるものではなかった

<本文から>
 松陰は旅行中、各地の碩学、識者といわれる人物三十余人に会い、懇談し、議論を交わし、そのことの知的刺激に心躍らせた。もちろん、その多くは前もって紹介があってのものではなく、旅先で紹介者を探し、会えば初対面の挨拶をしたのち、議論をはじめたのである。
 学問知識に対する意欲の激しさは、狂気のようであった。松陰はこの時期、自分の進むべき道についてまだまだ暗中模索の状態にあり、指針となる知識だと信じれば、咽喉の渇いた者が水を求めるように吸収しようとしたのである。
 とはいえ、鎮西の旅は松陰を十分満足させるものではなかったと推察できる。それは十ヶ月の予定を、半分以下の日数で切り上げたことからも察せられる。
 最新の学問知識は江戸で学ぶしかないと、平戸を離れる時点ですでに考えていたにちがいない。宮部鼎蔵との再会の約束とは別に、帰途に就いた松陰の心は江戸遊学をいかにして実現するか、その一点に向かって熱くたぎつていた。
▲UP

■松陰の東北遊歴は見てきたというだけ

<本文から>
 それにしても松陰の東北遊歴は、いったい彼に何をもたらしたのだろうか。最後にあらためて考えてみたい。
 彼の思想学問において、水戸学の会沢正志斎と会い日本史を学ぶ重要性を感得したことは、意義深いことであった。すでに平戸の葉山左内のもとで『新論』に出会っていたにしても、その意味は否定できない。しかしこのことを除くと、この旅にはさほどの意味を見出すことはできない。
 脱藩、罪を得ての帰藩、そして次章で記すことになる江戸遊学と下田踏海事件を一連のものと見て、黒船に乗り込みアメリカ渡航に挑むという壮挙は、この脱藩してまでも実行した東北遊歴がもたらしたものだといえなくもないが、松陰の考え方と行動の癖を考えると、江戸にいたまま、佐久間象山塾で勉学に努めていれば、下田踏海は必然的に起きたことだと考えられる。
 とすると、東北遊歴は北辺を見てきたというだけにとどまり、松陰の生涯にとりさほど意味を見出すべきものではなかったといっていいだろう。むしろ回り道でさえあったかもしれない。
▲UP

■アメリカ踏海は失敗しても捨て石の覚悟

<本文から>
 五日、松陰は京橋の伊勢本という料亭で、親友の来原良蔵ら萩藩士四人、宮部鼎蔵ら熊本藩士四人と会同し、アメリカの軍艦に乗り込み彼の国に踏海する件について相談した。
 幕更に捕縛されれば、命の保証はない。最初は、誰もが松陰を説得し、押しとどめようとした。議論は白熱し容易に決しなかったが、やがて松陰の志を認めようということで衆議は一決する。
 松陰は涙を流しながら、誓った。
 「寅(松陰自身のこと)すでに断然危計(正統とはいえない計画の意)をおこなう。失敗すれば首を鈴ケ森(刑場)に梟されることは、もとより覚悟の前だ。しかし諸君がそれぞれ今日より一事をなして国に報いようとすれば、その間の成功、失敗はあるとしても、どうしてあとにつづく者達培養できないことがあろうか」
 松陰は、自らの踏海が失敗に終わっても、必ず次に続く者が出てくる。自分はそのための捨て石になってもかまわないとの覚悟を告げたのである。
 陽明学で培われた松陰の、過激なまでの行動主義が、この時期から次第に顕著になるといっていいだろう。
 この日、松陰は衣服など身の回りの品を売り、金数朱を得た。これを同行する門弟の金子垂之助と分け合い、旅支度をととのえた。藩邸の知人からは、結局、用立ててもらえな かった。
▲UP

■野山獄で囚人でなく人間として向き合う

<本文から>
 松陰という人は実に不思議な人で、いついかなる場所でもやる気の対象を見つけることができた。絶望ということを知らない前向きな性格の人だった。読書以外にも、である。
 野山獄の荒み、乱れていた風紀は、松陰という存在により一変した。囚人たちは彼より年長で、入獄させられるほどの生き方をしてきただけに意地が強い。性格がどこか曲がっている。それが何の命令する権限もない、一番年若である松陰のいうところに従ったのは、囚人を囚人としてでなく、一個の人間として見、まっすぐ向き合う彼の人間性に感応したためであろう。それは松陰自身がそうであるべきだと自覚してというより、天性のものであったと見るべきである。
 囚人たちは不穏な時勢であり、迷惑な振る舞いを起こさないようにしようと約束し、万一不祥事が起きたとき妃はたがいに気をつけることにしようと申し合わせるほどになったといわれる。
 松陰はこの経験をもとに、獄中において『福堂策』という一書を書き上げている。福堂という書名は『智者は固圏をもって福堂とす』という中国の古い諺からきているが、この書で松陰はそのように囚人を長く獄舎にとどめておくことは正しい道に立ち返させるどころか、逆にますます免れがたい犯罪者にするだけであると主張、教育により立ち直らせるべきだと述べ、今日でいう教育刑主義の立場をとっている。アメリカの文献から学んだと ころもあるようだが、多くは松陰の独自の考えで成り立っている。
▲UP

■松下村塾では、ともに学問に励む友人であった

<本文から>
 このように松下村塾では、塾生たちは松陰と膝を突き合わせて読書をおこない議論をかさねた。師弟の間柄は、教え教えられる関係ではなく、ともに学問に励む友人であった。
 松陰の教育には、方針も順序もなかった。そのときそのとき、自分が考え信じたことを塾生たちに語ってやまないというものだった。
 当時の長州藩校明倫館でもそうだし、今日の日本の学校と呼べるところはすべてそうだが、教師が講壇に立ち、カリキュラムに従い教科書を淡々と時間内に教え、効率よく多数の学生生徒を一定レベルの学力にまで押し上げ、卒業させていく。ベルトコンベア式教育である。そこでは立ち止まって深く考える生徒は邪魔者だし、そうした生徒と向かい合おうとする教師は失格のレッテルを貼られてしまう。教師と生徒の人間的つながりはもちろん教育の阻害要因とされる。このベルトコンベア式教育は教育現場を無味乾燥な工場同然とし、多くの生徒を教育の場から疎外し、個性ある才能は潰されてしまう。
 松陰がどこまで方法論的に自覚していたかは不明だが、その対極の教育方式で塾生に臨もうとしたといっていいだろう。少なくとも藩校での不人気だった自分の講義への反省と、一方、各地に遊歴し、有志の人たちと論議を交わすことで得た知的興奮、あるいは野山獄での囚人同士の交歓で得た喜びなどが合わさって、彼をそうしたやり方へと導いたのではなかろうか。
 もちろん、当時の個人塾は多くがそうであったとの反論もあろうが。
▲UP

■幕府要人暗殺計画や決起計画を立案、実行しようとするが軍事的戦略的感覚が欠けていた

<本文から>
 松下村塾にあって、松陰は在塾の生徒たちと語らって次々と、幕府要人暗殺計画や、攘夷派公卿を擁しての決起計画を立案、実行しようとする。
 しかし作戦も、要員も、資金も、武器弾薬も、とても兵学師範の立案した計画とは思えない粗雑なもので、計画に参加する塾生すらもろ手を挙げて賛成しかねる内容であった。
 しかし松陰は一人猪突する。
 安政五年(一八五八)十月末になってあらたに立案したのは、老中間部詮勝遊撃暗殺計画であった。
 尾張、水戸、越前、薩摩の四藩が大老井伊直弼の襲撃を企てているとの情報を得た松陰は、井伊の片腕祝されている間部を襲ってこれを殺害、尊王撰夷運動において長州藩が他藩に後れをとることなどないのだと天下に示そうとした。日本全体のことを考えながら、
 松陰には毛利家の股肱という意識がいつまでも抜けきれない。
 加えて、日ごろ自身の功名を排するとしながら、勤王という点では自分が一番でありたいと思っていたようにも見える。
 十一月六日、松陰は藩政務役周布政之助に次の書状を送った。
 「こんど江戸の様子を伝え聞くと、薩藩が主導で越前落と申し合わせ、彦根公を討ち果たし、上方でも義挙を企てているようです。尾張、水戸ももちろん同意で、土佐、宇和島は正論を主張したので(藩主が)隠居するよう幕命をこうむったことでもあり、これまた同意と察しております。そのほか、かねて正論をとなえていた大小藩は、いずれもこの挙に後れないでしょう。ついては御当家も他藩に誘われるまでもなく勤王の志をあきらかにするべきです」
 噂や推測が元となったものだ。そのうえで、こう記す。
 「私どもは時事を憤慨し、黙視しがたいので、連名の人数が早々に上京して、間部下総守(詮勝)、内藤豊後守(正継、京都所司代)を討ち果たし、ご当家勤王の先駆けをして、天下の諸藩に後れをと告げ、末代まで名を輝かしたく存じますので、この段許容くだされたく、お願い申しあげます」
 松陰は、兵学門下である周布は自分の理解者でかつ同志でもある、この要請を聞き入れてくれないはずはないと思い込んでいた。
 繰り返すようだが、松陰には人を見る目も、周囲の動向を察知する政治感覚も、軍事的戦略的感覚もまったく欠けていた。
▲UP

■死を迎えるときの様子

<本文から>
 十月二十七日、松陰は評定所で死罪を申し付けられる。高手小手に縛られた松陰は、その場から、小伝馬町に戻され、間をおかず牢内の首切り場に連れていかれた。
 松陰はそこで、洪透かんだあと、首切り役の山田浅右衛門に向かい、「ご苦労さま」と声をかけ、立ち会いの役人たちに会釈したのち、端座して首を差し伸べたという。
 「留魂録」の一文といい、この死を迎えるときの様子といい、すでに生死の境を超越した、松陰の澄みきった心境を映しているように見える。
 だが一説には、死罪を申し付けられた松陰は「気息荒く切歯し、口角泡を出す如く、実に無念の顔色なりき」と記した、政治犯だった人物の目撃談もある。事の真偽は不明であるが、橋本左内は、首切りの場でほろほろと涙を流したあと、涙をぬぐうと、「切れ」と一声かけて、悠然と首を差し出したという、山本周五郎の小説にも描かれた有名な話である。
 生涯不犯であった松陰は、肉体や、肉体が求める欲望について、幼児期から常に押さえつけるようにと教育をされてきた。とすれば、死という肉体の終焉も、彼にとっては観念的にしか受け止め切れなかったのかもしれない。
▲UP

■子どものように無邪気で我欲のない松陰、なぜか失敗のほうへ歩みだしてしまう松陰

<本文から>
 松陰は成長して長崎に出向き、江戸遊学を許され諸国の志士と交流し、アヘン戦争で中国が英仏の属国のような有様になり、インドも同様になったことを知る。
 彼は西欧の兵学を学び、日本を彼らに対抗しうる強国にするため外国へ渡航しようとする。藩や幕府の禁令を彼は恐れることもなくやぶり、幕府老中の暗殺をくわだてる。その足跡には実に世間知らずの稚拙きわまりない判断が読みとれる。
 絶望のなかでもなぜか希望を失わず、身内にはいつも楽観が根づいている。彼は自分の目的を達し、日本を強力な近代国家にしたてるため幕閣をゆるがす革命行動をおこなおうと、狂気のようになる。江戸で訊問をうけると奉行たちの知らなかった事実まで残らずうちあけ、その結果、もっとも重罪でも遠島だと思いこんでいた彼は、死刑を申し渡され激昂するが、すべてをあきらめさわやかな最期を迎える。
 楽天的で無心というよりも、子どものように無邪気で我欲のない松陰は、彼に学んだ弟子たちの心のうちに強烈な印象を残していた。
 松陰は短い期間接しただけで、弟子たちに忘れられない敬慕の念を残す男であったにちがいない。
 世間で功名をあげることなどまったく考えず、成功と失敗のわかれ道に立つと、なぜか失敗のほうへ歩みだしてしまう松陰は、そのために、久坂、高杉の忘れがたい師匠となり、彼らにのりうつって新時代開拓への行動をとることができたのだとしか思えないのである。
▲UP

メニューへ


トップページへ