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<本文から> だが狂人はまったく恐怖を感じないので、頭から返り血を浴びた悪鬼の姿で斬りまくり、傍へ寄れる者もいなかった。
狂人が斬りかかってくると、藩士たちはなだれをうって後退する。無理に立ちむかおうとする者は、たちまち斬り伏せられる。
三の丸の屋敷にいた兵庫助は、急を聞いて現場に駆けつけた。
彼は左手を刀の鍔もとにかけたまま、広縁で狂人と向いあった。
狂人は兵庫助を見ると、刀を双手下段にとり、摺り足で迫ってきた。兵庫助は右足を一歩踏みだし、右偏え身で、狂人の眼をみつめている。
狂人は裂吊の甲声をはりあげ、刀を上段にふりあげて躍りかかろうとしたが、急に動きがとまった。
兵庫助は狂人を晩みすえている。二人は四、五回呼吸するほどのあいだ、動かずにいた。やがて兵庫助がふだんとかわらない足どりで歩み寄ってゆく。
狂人が顔をゆがめ歯を剥きだし、斬りかかる動きを見せたとき、兵庫助が気合をはなった。
さほどに高声ではないが、飯茶碗をまっぷたつにする力を秘めているといわれる、するどい気合である。
狂人は電撃に打たれたように身をこわばらせ、刀をとりおとした。兵庫助は近づいて利き腕を捻じあげ、逆をとる。
見守っていた家士たちのあいだに、感嘆のどよめきがおこった。兵庫助の気塊が、狂人をも圧倒したのである。
兵庫助はのちに義直に聞かれた。
「そのほうは物狂いをば、気合にておとなしゅういたせしというが、まことか」
兵庫助はおちついて返答をした。
「狂人は、正気のときの十層倍の力をだすといわれまするが、その通りにござりまする。それは、怖れを知らぬゆえに、自由にふるまい、自然に法にかなう動きをなしうるためと存じまする。私は狂気にてはござりませぬが、心の病を断つ修業をかさねて参りせしゆえ、わが力を存分につかう法を存じておりまする。それゆえ、狂人をおさうることも難事にてはござりませぬ」
相手が動けば即座に斬りすてる、兵庫助のわずかな隙もない身の位が、狂人をも圧倒したわけであった。 |
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