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<本文から> 和尚は名古屋にくるたびに、三の丸の柳生屋敷、広井郷の下屋敷をおとずれる。兵庫助に迎えられると、喫茶一服ののち、仏間に通り読経をするのが常であった。
会向が終ると、兵庫助は斎(昼食)を和尚に供し、よもやまの話を交すのが常であった。
壁間には、「白雲未在」と禅語を記した扁額が掲げられている。剣の極致は、会得したと思えて、会得できないものであった。
これこそ極意と思いきわめても、山上さらに山がたたなわっているのである。手のとどかない白雲を追いもとめているのが、兵庫助の心境であった。彼は、三十七歳となったいまも、剣の工夫をこらし、日々にあらたな発見をかさねていた。
修行をかさねるうちに、相手を動かせるばかりで、自分はほとんど動かずにいて、一太刀で死命を制することができるようになっていた。
敵に技を出させて勝つ、活人剣のつかいようを、上泉伊勢守、祖父石舟斎のいずれよりもさらに繊細巧撤なものに工夫したのである。
無形の位から、常形も定勢もなく、敵の動きにつれ従い、転化、変動のはたらきをする。
懸かるが懸かるでなく、待つが待つでない。自らの心も太刀も身も、盤上の円い珠となり、敵のはたらきにしたがい円転自在の応対をする、「転」の極意である。
流祖上泉伊勢守は、「転」の境地を「牡丹花下の睡猫児」と禅の公案の一句によって表現した。
すなわち新陰流の本義は、活人剣であった。柳生石舟斎の工夫公案書(没茲味口伝書)に、記している。
「当流に構え太刀を皆、殺人刀という。構えの無きところを、いずれのをも皆、活人剣という。また、構え太刀を残らず裁断して除け、無きところを用ゆるについて、その生ずるにより(新たに生れるとの意)活人剣という」
構えのない無形の位から、敵をはたらかせて勝つ活人剣には、万一の敗北はなく、常に敵を制圧するのみであった。
兵庫助は、道統を継いだ頃をふりかえってみれば、いつのまにかはるかな高みにまで、手練が向上してきたと思う。 |
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