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<本文から> 彼はまえの年の三月、吉日をえらび千世を妻にむかえた。
「私がようなものとつれそわれては、兵庫助さまのお名前にきずがつきまするゆえ、そればかりはお許し下されませ。私はいましばらくのあいだ、若さまのお傍に置いていただけるなら、そのうえの望みはござりませぬものを。もったいなき仰せは、御心のみを頂戴して終生忘れませぬ。どうぞおつれあいはしかるべき姫御を召されて下されませ」
千世は懸命に辞退した。
伊賀の下忍の妹が、柳生の嫡男に嫁ぐのは誰がみてもつりあいのとれない縁組みであると、彼女は思っていた。
だが兵介は笑ってとりあわなかった。
「なにをいうのや。儂はお千世を終生の伴侶ときめておったに、いまさらつれなきことをいうでないぞ。父上、母上もご承知なされてござるのや。肝心のお前が尻ごみするなど、もってのほかではないか」
千世は兵介の妻となれるよろこびに、言葉もなく感動の涙にむせぶばかりであった。
夢のようにしあわせな彼女の暮らしは、重い糖蜜に沈みこんでいるような静寂のうちに、過ぎてきた。
いま、彼女はみごもっていた。出産は年の末になろう。
(こんな眩しい日向に坐ってるような、はれがましゅう嬉しい日が、いつまでつづくのやろう。思うてみれば空おそろしゅうなってくる)
千世は形のいい鼻梁をあおのかせ、裏山のあたりで忙しく囁く、囁の声に耳をかたむける。 |
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