津本陽著書
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          柳生兵庫助 (5)

■宮本武蔵との初対面

<本文から>
 挨拶をする動作に、ひとところだけでもほころびがあろうかと、見守る兵介は、完壁な武芸者の姿を見出し、感動に動惇をはやめた。
 武蔵も兵介が座敷へ入りこんできたとき、全身から見えない針のような剣気を放射しているのを、感じとっていた。
 (うむ、これはただものではない。柳生伊豫と申さば、あてがわれし役目が気にくわなんだと、肥後加藤家侍大将、三千石の禄を棒に振ったる、豪の者と聞き及んでおるが、やはり噂だけのことはある)
 彼は、兵介の動作に見入った。
 (かような男と試合をいたしたいものだが。やればまず、五体満足では済むまい。なかなかに隙のない、鉄壁のようなる身の置きかたというべきか)
 彼は、こんどの試合の相手としてあらわれた、石川門太夫にも、一目で好感を持った。
 (これもよき侍じゃ。この澄んだ眼は、もはや生命を捨てて掛かっておる眼じゃ。男が思い決めた面魂は、すがすがしいものだ。試合えば偶の敵ではあるまいが、やむをえぬ。相手は主持ち。儂は兵法のほかに頼るもののなき牢人よ。この男に情をかけるほどのゆとりはない)
 武蔵は門太夫の身ごなし、口をきく気勢にむらがあるのを感じとっていた。
 兵介のように、地を這いひろがってくる水のような、ひた押しに押してくる剣気がないのは、修業が至らないためである。
 門太夫は強敵武蔵をまえに、静かに控えていた。顔色はいくらか蒼ざめているが、全身の気塊をこめ、武蔵の眼を睨みつけている。
 彼は武蔵に問いかけた。
「さて、試合でござるが、日取り、刻限、場所のお望みを承とうござる」
 武蔵は即座に返答する。
「それはご貴殿のお申付け下さる通りで、ようござる。いずれへなりと参じまする」
「ならば明朝辰の下刻(午前九時から十時)、御城下扇之芝御馬場にてお立ちあい願いたい」
「承知つかまつった」
「試合に使う得物の御所望は、ござろうか」
 武蔵は猛禽のように険しい顔の、表情を変えることなくいってのけた。
「とりわけ所望はいたしませぬ。太刀のほかの外の物にても、苦しゅうござらぬ」
 武蔵の琥珀の眠が、門太夫の視野いっぱいにひろがっていた。
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■兵介は人里はなれた山家で千世と暮らしたいと思う

<本文から>
 兵介は妙心寺の相見香を薫じた座敷で、話しあった海山珠和尚の慈顔を、思いうかべていた。
 和尚が独坐する安穏の境地は、すべての希望を切りすてた、無色不動の世界であった。希望を放擲したならば、悩みは湧いてはこない。
兵介は大普賢嶽の笙の窟での修業で、人間の心の世界の、無限のひろがりを感受した。彼は神仏の語りあう御声をも耳にできる、空の高みにわが魂を遊ばせることをした。
 あのまま山にとどまれば、金剛薩?として修行の生涯を送れたかも知れない。だが、千世とともにいるいまは、瞑想の世界をなつかしく思いだすのみであった。
「儂は人里はなれた山家で、お前と暮らしたい。それが本音や。儂には立身の望みはない。弘流の願いはあるが、それとてもわが気に合うた弟子を集め、技を伝えたいだけじゃ。人の世の空しさも知らず、酒池肉林の欲の海に溺れておる大名に、手取り足取りして兵法を教え、ご機嫌とりをいたす叔父上のごとき真似は、儂にはできぬことじゃ」
 千世は兵介のふとい頸を抱きしめ、頬ずりをする。
「若さまはいつまでも子供のように、かわゆいお方。あなたさまは新陰流を世におひろめになる、大切なおつとめを持っていやはります。私のような者といっしょにお暮らしなさるために、生まれきやはったのではござりませぬ。じきに弱気をおこさはる若さまは、いとしゅうござりますが、私はやっぱり若さまに世のに出て兵法をひろめて頂きようござります」
 二人は語りあるうちに心がくつろぎ、こころよい眠りにおちる。
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■兵介が尾張家の指南役になれば身を引く決意の千世

<本文から>
 彼は景憲に答えた。
「拙者は父厳勝が世を去ったるのちは、江戸の叔父に柳生館を明け渡さねばなりますまい。ほかにわが知行地とてもなく、家来、門人を連れ、諸国流浪の身のうえともなりかねませぬが、その節にはまたご貴殿に仕官の儀をお頼みいたしに参ずるやも知れませぬゆえ、いまよりよろしくお頼み置きいたす」
 兵介は、仕官をして諸人に気を遣えば、兵法の工夫がなおざりになると考えていた。
 彼は日頃、千世に内心を洩らしていた。
「儂は、叔父上に柳生を追いだされたとて、食うほどの才覚はある。儂を客分に迎えたしというてくれる知己もあり、諸国を経めぐるうちには、自然におちつく先も定まろう」
 兵介は仕官をすれば、千世との生活をつづけてゆけなくなるであろうと、思っている。
 主持ちの身分で、ことに兵法指南役となれば、身持ちのことまでとやかくいわれる。正室を迎えず、千世と暮らしておれば、なにかと口うるさく批判される。
 千世は兵介の胸のうちを察していた。尾張大納言義直の兵法指南をすれば、新陰流の弘流は居ながらにしてできる。
 兵介の技法が、天下にならびないものであっても、扶持をうけない無足人であれば、柳生館を離れては新陰流の道場をひらくのさえ容易ではない。
 市井で流儀をひろめようとすれば、それこそ兵介の嫌う世俗の雑事に、悩まされつづけねばならない。
(若さまは、やはりご仕官なされるのがいちばんお身の為や。私は若さまとごいっしょに、他人の思惑を気にせず山中にでも籠っていたいけど、さようなことをすれば、あたら新陰流を亡ぼすことになる。若さまはご大身のお身のうえとなれば、当然奥方を迎えられよう)
 千世は、兵介を他の女性に奪われると想像しただけで、胸もとに錐を刺されるような痛みを覚え、思わず眉根を寄せる。
 だが彼女は思いなおし、自分にいい聞かせた。
(すべてはかけがえのない若さまのためや。私はいままでの長い年月を、このうえものうしあわせにすごさせていただいた。ご仕官なされるときがくれば、身をひこう。もし若さまがおひきとめになるなら、どこぞへ隠れて生きるのや)
 兵介の将来をさまざまにえがく千世の眼頭に、涙の粒が浮きあがった。
 千世の傍に身を横たえる兵介も、眠らずにいた。彼も仕官のことを考えている。尾張家の指南役になれば、はなやかな世間の表街道を生涯渡ってゆくことになる。
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