津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          柳生兵庫助 (3)

■兵介があたらしい時代の刀法を編みだす

<本文から>
 越後は、兵介があたらしい時代の刀法を編みだしつつあるのを、身をもって知った。
 鉄砲伝来ののち、戦場では重量のある甲胃の武装はすたれ、兵士は軽量の小具足、腹巻で迅速に進退するようになった。
 さらに徳川幕府が天下を統一したうえは、甲冑つけての合戦の数は、しだいに減ってこよう。
 武士はこのさきしだいに肩衣、小袖をつけての生活を送るようになるにちがいなかった。甲冑を必要としない武士の用いる兵法は、昔よりものびやかで、早い太刀技に変ってきてふしぎではない。
 越後は嘆声をもらした。
 「頭上たかく捧げる上段の太刀は、おそろしや」
 越後が小太刀を双手で持ち、頭上にふりかぶってみて、うなずく。
 「うむ、これはすぐれしかたちじゃ。伊預殿、この太刀の名は、何とつけられたか」
 兵介は笑みをうかべ、答えた。
 「いまだ名をつけておりませぬ。いったんふりかぶれば、いずこへ落つるかは分らぬ雷のような太刀と存じておりまするが」
 越後がすかさず応じる。
 「なるほど、雷のようなる太刀とはいかにもよく申された。それなれば、雷刀と名づけられてはいかがじゃ」
 「それはよき名でござりまする」
 兵介は越後のつけた名が気にいった。
 彼は自分の打ちこむ太刀が、越後を悩ませたとは気づいていなかった。越後が額の汗を懐紙で拭ったのを見ても、汗をかきやすい性分であろうと思ったのみである。
 はじめて富田流の太刀を見せてくれた越後は、悠々とふるまう動作に鋼のような気塊のこもった兵法の先達として尊ぶに足る手のうちを披露してくれた。
 太刀づかいには下段らの切りおとしが多い。それは相手が打つ太刀を、その太刀と一拍子にこちらからも打ちかけるようにして打ちふせぎ、すぐに打ち返す、新陰流の相懸けの技と似ていた。
 上段から順、逆に打ちこみ、八相からきびしく攻めても、越後はかろやかに凌いだ。ある太刀は凌げても、べつの太刀は凌げないという、ムラのある小太刀技ではない。どのような形からの打ちこみにも的確に対応してくる。
 さすがに小太刀をもって天下に名を知られた富田流であると、兵介は感じいった。
 (しかし、越後殿はつよい太刀を出される。やわらかみがすくないようじや)
 兵介は富田流小太刀は、相手のはたらきを封じて勝ちを得ようとする、殺人刀であると知る。
 老練な越後には、相手のいかなる変化太刀をも封じる奥のふかさがあるが、本義が殺人刀であれば、押し曲げられて折れる硬さがのこる。 
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■兵介の位が変わり、迷いを吹き払う境地になる

<本文から>
「若さまは私のこども、いつまで経ってせ馴髪のとれぬ幼な子のように、かわゆうございます」
 兵介もふくみ笑いをもらし、千世の腋をくすぐる。
「これ、転合をなされてはいけませぬ。おやめなさらぬば、私もお返しいたしましょう」
 千世の躯が若い牝鹿のように、柔軟に波うつ。
 しばらくたわむれたあと、兵介は天井をむいて静かになった。
 「お千世、儂はこのさき無事に江戸へ着けるか分らぬが、危難を冒しても、金沢へきてよかったと思うておる」
 千世が静かに答える。
 「私もそのように存じておりまする。兵法修業は、危難をのりこえねば、なしとげられぬものでございます」
 「うむ、儂は天下に聞えし小太刀の巧者、富田越後殿に立ちあいを願うて、まことによき修業になったと思うておる。儂の太刀筋は、いつのまにか変った」
 千世は、せきこんだ口調で応じた。
 「ほんに、その通りでございます。若さまはいままで、ご自身のつよさをしかとおわきまえになっておりませなんだ。そのため迷わずともよいところを迷うておられたのが、富田さまとのお立ちあいののちは、心にかかる雲が晴れたような、無双の強みをお見せでございます。ついに道をきわめられたのかと、私はうれしゅうてなりませぬ」
「道をきわめると申すほどのこともなかろうが、いつのまにやら儂の位が変ったようや。お千世のいう通り、迷いが消えた」
 己れの位が変りはじめたのは、京都で叔父又右衛門宗矩と太刀を交してからだと、兵介は過ぎた月日をふりかえってみる。
 又右衛門は、おさない頃の兵介にとって、眼前にそびえたつ偶像であった。それがいまになってみると、こちらが位押しに圧倒できる相手になっていた。
 近江長浜から木の本へむかう、琵琶湖岸の街道で、一宮流剣法をたしなむという二人の兵法者が、「北候の長物」をふりかざしての挑戦に、間然するところのないはたらきをあらわすことができたのも、又右衛門の偶像をのりこえた自信のもたらした成果であった。
 兵介の伎倆は、そのときすでにいちじるしい進境を、あらわしていた。さらに金沢城下に至って、名人のきこえの高い富田越後と立ちあい、位において一歩もゆずらず、むしろ押し気味であった事実が、彼の心にかかっていた迷いの霧を、いちどきに吹きはらってくれた。
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■金沢からの担猿たちに小猿が犠牲に?

<本文から>
 兵介たちが吊り橋を渡りおえるまで、担猿の前進をくいとめるため、小猿はまず、二個しか残っていない焙烙玉の一個を投げ、戦意を挫こうとしたのであろう。
 何事か口ぐちに叫ぶ敵勢の声が、谷間に流れる。小猿が煙玉をいくつか投げ、黒煙が崖に沿いひろがった。
 「ひとぉつ、ふたぁつ」
 彦八はうしろの騒動が聞えないかのように、拍子を狂わさず、橋を渡ってゆく。
 (小猿、死ぬでないぞ。なんとしても急場をきりぬけて、戻ってくれ)
 兵介は顔に冷汗を流しつつ、小猿の武運を祈った。
 小猿と小六が、いつまでも襲いかかる担猿を支えていられるかは、わからない。山に馴れた敵は、きりたった斜面をも猿のようによじのぼる。
 前面を塞がれたときは、どのように険阻な地形をも克服して、迂回してくるにちがいなかった。そのとき、挟みうちにされた小猿たちは、逃げ場を失い殺致されるのである。
 また煙玉がつづいて鳴った。
「来くされ、外道めら。一匹のこらず胸板にみやげ持たせて、谷底へ飛びこませてやるぞ」
 小猿が、兵介たちに健在を知らせようとするかのように、大音声で罵った。
 谷間のなかほどまでくると、下手からふきあげてくる風が、耳もとで喰った。彦八は沈着に、拍子をかえなかった。
「ひとぉつ、ふたぁつ」
 足をふみじめ、渡ってゆく兵介の全身に、汗が滝のように流れていた。
 うしろについてくる才蔵の呼吸があらくなった。彼は声をしのんで泣いていた。あとに残した小六を不憫に思う気持が、おさえがたくなったのであろう。
 二個めの焙烙玉が鳴りとどろいた。押し寄せてくる担猿を、支えきれなくなったのにちがいなかった。突然、パチパチと銃声がこだましはじめた。風にのって煙硝のにおいが、兵介たちの身辺にまでただよってきた。鉄砲を持った担猿が、応援にかけつけたのである。
 対抗するように煙玉が十個も、そのうえもつづいて鳴りとどろいた。
 「若さま、おさらばだっせえ」
 小猿の叫び声が峰々に反響し、兵介は身内をこおらせた。
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■新陰流正統第三世を受け継ぐ

<本文から>
 木猿が、兵介の言葉を聞いてううなずいた
「小猿が、おさらばだっせえと、大けな声で喚いたのは、うずら隠れの術だすわ。そのとき八右衛門の甥に助けられて、崖の下へでも飛びこむふりをしたんだっしゃろ。担猿かて忍者やさかい、たやすうはだまされまへん。そこを逃げたのは、よっぽど上手に相手を驚かせたんだっしゃろ。私らの忍術では驚忍という手を使うたわけだんな」
 小猿は喰代の作兵衛のたすけを借り、伊賀忍者のしぶとい本領を発揮して、死地をのがれたのであった。
「小猿とともにいた小六という者は、いかがしたであろうか。生きのびてくれたのであればよかったが、何も聞かなんだか」
 兵介の問いに、木猿は首をかしげた。
「小六だっか、その名は耳にしまへなんだが」
 宗矩が兵介をうながす。
「一別以来のつもる話は、またあとでゆるりとものがたることとして、まず父上よりのご印可を頂戴いたせ」
 兵介は居ずまいをただし、頭を垂れる。
 松右衛門が文箱の蓋をとった。鳥の子紙の伝書二巻と、奉書紙に記した印可状が、兵介の眼のまえに置かれる。
 漢文でしたためられた印可状の冒頭の、「猶々此上御鍛錬可然候」という文字を見ると、兵介の視野がこみあげる涙でかすんだ。祖父が高い額のほくろに生える毛をふるわせ、噛んでふくめるように太刀遣いを口伝してくれるときの表情を、あざやかに思いうかべたのである。
 石舟斎は本文で、高大の印可相伝を兵介に授け、新陰流正統第三世を承けつがせる理由をのべたのち、誓約の文言をつらねていた。
「流ひととおりの位、心持ひとつものこさず、相伝申し候。この旨偽るにおいては、魔利支尊天、八幡大菩薩、天満天神、春日大明神、愛宕山、この御罰を罷りこうむるべきものなり」
 印可状の添え書には、つぎのように記されていた。
「兵法の極意ことごとく、貴所にゆずり申し候。われらの後、そのほうならでは、真実極意を知りたる人これあるまじく候。よくよく工夫つかまつるべく、懈怠これなきよう、たしなみ申すべく候。巳上。石舟斎花押。柳生兵介殿参る」
 松右衛門は、石舟斎が印可状をしたためたときの様子を語った。
「ご隠居さまは、若さまに印可相伝のため、没茲味手段書の奥書きに、印可状をお書きになされまいたが、万感胸に迫ってしきりに取り乱され、文字が読めぬほどに乱れたのでござります」
 兵介は懐紙を瞼にあてた。
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■素肌剣術の世を先取りした構えに衝撃

<本文から>
 敵が斬りかかろうとしても、太刀と両拳のなかにこちらの身がかくれ、攻めることができない。
 このような地を這う姿勢で斬りあいをすれば、身が浮かないため、敏速に体の向きを変えられる。また、打ちこみ、防ぎのいずれのときも、強靭な二枚腰の体勢をとれるのである。
 だが、兵介は素肌での斬りあいでは、直立ったる身の位がもっとも自由軽捷に動けるものであることを、疋田豊五郎のクネリ打ちに勝ったときにたしかめていた。
 彼は、しないを持ったまま腰をおとさず、まっすぐに立ち、右足をしずかに踏みだしつつ上段にとった。
 稽古所の内外につめかけた男女が、しばらく静まりかえった。前庭で性急にさえずる鶴の声が、耳につく。
 石舟斎は、戸外からさしこむ陽射しをまぶしく反射する板敷きに立ち、兵介をみつめた。兵介がしないを頭上たかくふりかぶると、門弟たちがおどろきの声をあげ、どよめく。
「これが私の工夫いたしましたる上段にござります」
 石舟斎の頬に血のいろがさした。
「うむ、その位で富田越後と立ちおうたのかや」
「さようでござります」
 申胃つけての介者剣法の時代では、刀をとった両拳がわが乳の高さにくるのが、上段であった。
 それより上へは冑の前立て、吹き返しなどが障げとなるため、さしあげることができなかったのである。
 石舟斎は愛しい孫の考案した太刀に、はげしく衝撃をうけていた。
(流祖は、兵法は時代によって恒にあらたなるべしと仰せられしが、儂もうかと気づかぬところに、兵介は眼をつけてくれた。日本国の兵法者が、かような高い位をとろうとは誰ひとり思いつかぬうちに、こやつめはこののちは素肌剣術の世になると、見通しおった。やがては、世のなかの剣をつかうすべての者が、兵介の工夫を学ぶようになろうぞ)
 石舟斎は一見して、兵介の直立ったる身の位が、日本の剣術諸流の内容を土台から変えうる、重大な影響力を持っているのを看破した。
 甲冑つけての戦場での斬りあいに通用する太刀は、相手が斬りにくく、斬る部位が限られていたため、ひたすら構えに頼りわが身を守ることを重視した。
 構えに頼れば、「刀中に身を蔵す」という考えがさきに立ち、構えはしだいに低くなってくるものである。
 低い姿勢をすて、自然の立ち姿になれば、自由に身をうごかしはたらけるわけであった。太刀の位はたかくなって敵にうちこむ剣尖が延び、敵の動きを充分にみてとることができる。
 石舟斎は直立ったる身の位のもつ、もろもろの利点を、瞬時に理解した。
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■印可の儀式後に気力の変化を自覚

<本文から>
 印可の儀式がとどこおりなく終った翌朝、兵介は眼ざめると、わが身が昨日までの自分とは変ったように感じた。
 前夜の祝宴の座で客に礼をのべるときにも、丹田のあたりにいままでになかった重みが加わったように思ったが、稽古所に出てふだんの通り弟子どもを相手にすると、気力がまったく違った。
(儂は祖父さまを継いで、新陰流第三世となった。天下にかくれもない名人上手と折紙をつけられたのや。儂が名人上手か、これでそういえるのやろうか。まだいたらぬところは多いのやが)
 兵介は、あらたに自分に添うた宗家の格式に、自信を与えられるいっぼう、いまのわが立場にたより、うぬぼれる気持ちがなかった。
 なお技をみがき、流儀の真諦をさぐらねばならないと考える。
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■祖父寿終の後の生涯

<本文から>
 兵介は祖父が寿終ののち、しばらくは菩提をとむらう日を送るが、ふたたび十津川にむかい、棒庵入道のもとで鍛練の日を送った。彼が棒庵より新当流薙刀の唯授一人の印可相伝をうけたのは、石舟斎の寿終後三年を経た慶長十四年(一六〇九)であった。
 その年十二月、名古屋築城がおこなわれ、慶長十六年六月には、名古屋城に縁のふかい兵介の旧主、加藤清正が五十歳で卒去した。
 慶長十九年から二十年にかけての、大坂冬、夏の陣によって豊臣家は滅亡し、元和催武の治世にはいった。
 兵介は棒庵のもとを去った慶長十四年から元和元年(一六一五)までの六年間を、京都妙心寺海山珠和尚のもとでの参禅と、供侍をひきつれての諸国武者修業にすごした。
 身分は在野の牢人ではあったが、諸大名の厚遇をうける新陰流宗家としての名声は、天下にとどろいている。
 大坂夏の陣のあとまもなく、尾張徳川義直付の国家老、成瀬隼人正から、兵介に尾州家兵法指南役になるようとの招請があった。駿府で家康に謁したうえ、存念を申し述べるようとのすすめである。
 兵介は駿府で家康に会い、素志をのべた。
 「こたびの新陰流兵法お取りたての儀は、江戸の但馬とこと違い、諸役のご奉公は一切ご免をこうむり、替え馬一頭をもひける身分ならでは、ご仕官の儀は、かたくご免を蒙りとう存じまする」
 兵介は、柳生兵庫助と改名し、義直公御傅役格として、尾張徳川家に随身することとなった。
 尾州家指南役となった兵庫助は、世にうたわれる名人の名にふさわしく、甲冑をつけての介者剣法から、素肌剣法への転換をなしとげた。
 彼のあらわした兵法奥儀、始終不捨書は、現代剣道の淵源としての重みをいまに残している。
 あじわい深いのは、兵庫助の晩年である。彼は七十一歳で隠居ののちすべての俗事をすて、妙心寺霊峰和尚のもとに走り、柳庵という草廬をむすんだ。七十三歳で寿終するまで過した柳庵の床には「両鏡相対無影像」の一条幅が掛けられていたという。
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