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<本文から> 越後は、兵介があたらしい時代の刀法を編みだしつつあるのを、身をもって知った。
鉄砲伝来ののち、戦場では重量のある甲胃の武装はすたれ、兵士は軽量の小具足、腹巻で迅速に進退するようになった。
さらに徳川幕府が天下を統一したうえは、甲冑つけての合戦の数は、しだいに減ってこよう。
武士はこのさきしだいに肩衣、小袖をつけての生活を送るようになるにちがいなかった。甲冑を必要としない武士の用いる兵法は、昔よりものびやかで、早い太刀技に変ってきてふしぎではない。
越後は嘆声をもらした。
「頭上たかく捧げる上段の太刀は、おそろしや」
越後が小太刀を双手で持ち、頭上にふりかぶってみて、うなずく。
「うむ、これはすぐれしかたちじゃ。伊預殿、この太刀の名は、何とつけられたか」
兵介は笑みをうかべ、答えた。
「いまだ名をつけておりませぬ。いったんふりかぶれば、いずこへ落つるかは分らぬ雷のような太刀と存じておりまするが」
越後がすかさず応じる。
「なるほど、雷のようなる太刀とはいかにもよく申された。それなれば、雷刀と名づけられてはいかがじゃ」
「それはよき名でござりまする」
兵介は越後のつけた名が気にいった。
彼は自分の打ちこむ太刀が、越後を悩ませたとは気づいていなかった。越後が額の汗を懐紙で拭ったのを見ても、汗をかきやすい性分であろうと思ったのみである。
はじめて富田流の太刀を見せてくれた越後は、悠々とふるまう動作に鋼のような気塊のこもった兵法の先達として尊ぶに足る手のうちを披露してくれた。
太刀づかいには下段らの切りおとしが多い。それは相手が打つ太刀を、その太刀と一拍子にこちらからも打ちかけるようにして打ちふせぎ、すぐに打ち返す、新陰流の相懸けの技と似ていた。
上段から順、逆に打ちこみ、八相からきびしく攻めても、越後はかろやかに凌いだ。ある太刀は凌げても、べつの太刀は凌げないという、ムラのある小太刀技ではない。どのような形からの打ちこみにも的確に対応してくる。
さすがに小太刀をもって天下に名を知られた富田流であると、兵介は感じいった。
(しかし、越後殿はつよい太刀を出される。やわらかみがすくないようじや)
兵介は富田流小太刀は、相手のはたらきを封じて勝ちを得ようとする、殺人刀であると知る。
老練な越後には、相手のいかなる変化太刀をも封じる奥のふかさがあるが、本義が殺人刀であれば、押し曲げられて折れる硬さがのこる。 |
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