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<本文から> 街道がながい登り坂にさしかかった。樹林が左右の斜面にしりぞき、頭上に陽が照りつける。薄の銀の穂波が夙に吹きわけられるのを眺めつつ、兵介は黙って歩く。
かたわらに寄りそう千世の、つねに彼の顔色をうかがう気配が、心をうるおしていた。
千世がいなければ、儂はひとりで死の幻影におびやかされつづけておらねばならぬと、兵介は彼女のたおやかな頬のあたりに、眼をむける。
「若さま、汗をおかきでございます。お拭きなさいませ」
千世は香のにおいのただよう手拭を狭からとりだし兵介に手渡す。
余人の眠がなければ、兵介は千世を抱きしめてやりたい。千世もそれを求めている。わずかに視線をもつれあわすだけで、たがいの気持ちは通じあっていた。
兵介が満心で絶えず死の恐怖とたたかつていることも、千世は察しているようであった。その証拠に彼女の表情は、兵介の眼に憂いのかげがさすと、陽に雲がかかるようにかがやきを失う。
天下無双の兵法者の名を得ている兵介が、廻国修業をするからには、行手には他流試合をのぞむ挑戦者が、数知れず待ちかまえている。
彼らはすべて、一命を賭けて立ちむかってくる。手にする得物が真剣、木太刀のいずれであれ、容赦なく打ちあえば、敗者には死ぬか身をそこなう悲運が待っている。
試合に勝てば、のちに怨恨がつきまとう。根岸矢柄のように、十年を経たのちにも執念ぶかく遺恨をはらそうとする者もいる。
兵介は廻国修業のあいだ、かたときも気を許せないわけであった。
隙があれば、いつ死の魔手が身辺に忍び寄ってくるか知れないのである。戦場での度胸をやしなうために、ふだん臥しどに横たわるとき、わが顔の真上に細糸一本で、天井から抜き身の大刀を吊す侍がいるというが、兵介にはその気持が理解できた。
いつ死んでもよいという諦念を心中にうえつけねば、自刃をふるっての争闘の場で、自由に手足をうごかすことができない。
恐怖にこわばった動作では、一瞬に敵の餌食になる。兵介には、まだ死への心構えができあがってはいない。
彼は危険に馴れ、死に親しもうとつとめていた。死はあらたな生への門出であるようにも思え、それならばさまで怖れることはないと気を安んじようとする。 |
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