津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          我が勲の無きがごと

■海での義兄の不運な死

<本文から>
 五十九歳になっていたが、外見は五十過ぎにしか見えぬ若々しさで、柔道の高段者にふさわしい練りあげた筋肉は、さほどの衰えを見せていなかった。
 事故というものは、偶発するものではなく、やはり運命で定められて起るものかもしれない。この日の午前中、白浜の白長浜海水浴場には土用波が打ちよせていて、サーフィンを試みる若者が群れていたという。
 白い越中祥を垂らして、浅い海辺に立っていたあのときのように、この日の朝も、清健は汀に佇んで、社員たちが波と戯れ遊ぶ様子を眺めていたのであろう。急に大波が頭上から崩れかかってきて、彼は不運にも水圧で鼓膜を破られた。内耳に浸入してきた海水が三半規管を傷め、平衡感覚を失った彼は横倒しになったまま助けを呼ぶこともできず、膝頭までの深さもない海中で溺れ死んだ。傍にいた大勢の人間が、誰も気付かぬうちに起った椿事であ
った。
 私は清健が海が好きでないことを知っていた。彼は、潮騒を聞くのをことのほか嫌っていた。
▲UP

■ニューギニア戦地では食糧不足のため作戦実行で兵力減らしを行った

<本文から>
  海野平の海野棟網と支族の真田幸隆は、上野国平井(群馬県藤岡市)に逃れ、南洋元直、矢沢綱頼ら滋野一族はおおかたが降伏した。
 信虎は六月に甲府へ凱旋した。
 彼は六月十四日、駿河の今川義元をたずねた。帰陣ののち、ひさびさに娘と婿に会おうという、保養かたがたの忍びの旅であった。
 晴信の家来鞠井青白斎政武の記した「高白斎記」に、つぎのように記されている。
「六月小丙辰十四日己巳、信虎公御立チ駿府へ御越シ。甲府ニオイテ十六日各々存ジ候」
信虎の近臣でさえ、二日後に主君の駿河行きを知ったほどであった。
 信虎は重臣板垣信方、飯富兵部(虎昌)にすすめられ、駿河府中へ出向いたが、そのまま二度と甲府へ戻らなかった。
 晴信がただちに足軽勢を駿遠国境の河内境へつかわし、街道を封鎖したからである。
「甲陽軍鑑」によれば、晴信は信虎の供をして駿河へ出向いた侍たちの妻子をことごとく捕え、人質とした。
 このため信虎のもとに踏みとどまる家来は一人もおらず、すべて甲斐に逃げ帰ってきた。
 信虎は晴信が板垣信方らの重臣たちと仕組んだ無血クーデターの計略に乗せられ、駿河へ追放されたのである。
 信方、兵部らは、今川方の重臣太原雪斉、岡部常憲らとあらかじめ連絡をとり、信虎を駿河に留めおく手筈をととのえていたといわれる。
「塩山向岳禅庵小年代記」に、信虎追放につき記されている。
「信虎平生悪逆無道なり。
国中の人民牛馬畜類ともに愁悩せり。
 然るに駿州大守義元、信虎の女を娶り、これに依り辛丑六月中旬、駿府にゆく。
 晴信、万民の愁を済わんと欲し、足軽を河内境に出しその帰道を断ち、位に就き国々を保つ。
人民ことごとく快楽の咲いをふくむ」
「王代記」も簡単に触れている。
「武田信虎六月十四日駿州へ御出。十七日巳刻晴信屋形へ御移。一国平均になる」
諸記録には信虎追放を惜しむ声がなく、晴信のクーデターを褒めたたえるのみである。
 二十一歳の晴信は四十八歳の信虎を追放し、甲斐の国主大名となった。
 信虎追放の真相は分らないが、およそ三つの理由が推測されている。
第一は信虎が晴信を廃嫡し、信繋に相続させようとしたためであるとする。
第二は信虎が残虐の行い多く、民衆の怨みを買っており、飢饉あいついで餓死者続出する領国経営の失敗が覆いがたくなったため、家臣からの反揆を回避するにはクーデターをとらざるをえなくなったとする。
信虎はそれまで武力で制圧し従属させてきた甲斐の国人勢力に疎まれ、孤立の状態に追いこまれていたのである。
第三は、「甲陽軍鑑」人物伝にあり、今川義元の謀略によるものとする説である。
 義元はかねて甲斐併呑の機をうかがっていたが、信虎は舅にあたり、道義のうえからも討つことができないうえに、武勇すぐれた豪傑である。
 そのため晴信を甲斐国主に取りたてれば、野望実現の機もあると考え、晴信に謀叛をすすめ、信虎を駿府へ引きとった。
真相はいずれであるか分らないが、信虎追放のもっとも重要な理由である「悪行」悪逆「無道」のふるまいについて、信虎在世当時の文書には、具体的な例がまったく述べられていない。
 近世はじめになって、「甲陽軍鑑」で乱行について語られる。
信州伊那で八十過ぎの信虎が孫勝頼と会い、伝家の宝刀左文字を抜きはなち、振りまわした。
「この刀では五十人に余る者を手討ちにいたせしが、そのうちには、ここに侍る内藤修理(昌豊)と名乗る者の兄もおりしことであった。儂は袈裟がけに斬って棄てたのじゃ」
 信虎が自ら過去の乱行を口にしているが、これはフィクションであろう。
江戸期正徳、享保年間に出された「武田三代軍記」のなかではじめて信虎が妊婦の腹を裂いたとか、愛猿を誤殺した家来を切腹させたという行状が語られる。
 このような事情をいろいろ考えてみると、信虎が追放された最大の原因は、やはり領国経営の失敗であったといえる。
 彼の治政は国内統一につぐ領土拡大の合戦がつづくなかで、家来、領民に苛酷な負担をかけざるをえなかった。
 農民たちは合戦がはじまれば雑兵として駆りだされ、死傷者も続出した。
 甲斐の国内に敵が侵入してくれば、田畑は踏み荒され、荒廃してしまう。
 大軍の移動、情報収集に必要な、伝鳥制度、狼火台の強化にも、大勢の百姓が従事しなければならない。
 戦費を調達するための、各種の税金も課されるうえ、毎年天災、疫病、飢饉がつづく。このような国内の不満を爆発させないための唯一の手段が、信虎追放であった。
▲UP

■弱い者を襲い、共食して生きのびた

<本文から>
  白山は、またいい淀んだ。私は彼を促そうとした。
 「その肉食うたんやろ。兄貴に聞いたで。そうでもせな、生き残れなんだものなあ」
 白山はうなずいていった。
 「そうかえ、ほやその前の晩のことも、聞いたかえ」
 「いや、知らんでえ。教せえてよう」
 白山は話す気になったようであった。
 「前の晩、山中のかなり大きな部落へ泊ったんよ。そこにいっぱい残留ひてる落伍兵の様子が、ただごとでないちゅうことは、すぐ分っとよ。気い立ってるんやなあ、殺気が分るんよ。ほうぼうで、気の狂うた兵隊の笑い声、やかましほど聞えてたなあ。何を射つんか、発砲の音も聞えてた。傍らが焚火のまわりへ坐ってたら、見たこともない兵隊が顔のぞきにくる。
 そいつらは、足しっかりひてて、身ごなしがすばしこいんよ。この部落にいてる兵隊は危険や、気い許すな、何されるか分らん、ちゅうて加納はんは拳銃手に握ってた。夜中に、通りかかった兵隊が、儂ににやにや笑いかけながら、手に提げた血だらけの物を見せたんや。何やと思たら、肉やった。それが何の肉か、儂らにゃすぐ分ったよ」
 私は白山の言葉の異様な力にひきこまれ、われを忘れていた。
 「そこで話は前へ戻るけどのう。薮のなかへ引きずりこんだ屍骸を、加納はんはしばらく眺めてた。儂らもまばたきもせんと見てたよ。加納はんは両手あわして念仏唱えたあとで、さあ食うぞ、と傍らにいうたんよ。皆は黙ってうなずいたよ。加納はんは腰から蛮刀を抜いて、儂に肉を切りとれというたんよ。短いナイフみたいな蛮刀は、よう切れたんよ。前の晩のことあったんで、皆は人の肉食わな、生きて山をば下りられやんと覚悟決めたんよ。垢だらけの皮切ったら、きれいな桃色の肉が、飛び出てきた。儂は鶏の料理するような気分になって、足から尻へかけて切って取った。飯盆に五杯ほども取ったら、加納はんが、肝臓も取れ、そこには滋養が集まっちゃあるていうと。いつの間にやら雨降ってたのう。儂らはジャングルのなかで、誰もいてへん小舎みつけて、そこで飯盆に水溜りの雨水汲んで、肉炊いたんよ。煮えてきたら、ええにおいひてきてのう。生れてはじめて喚ぐにおいじょ。湯の表面に、脂の玉も浮きあがってくるんよ」
 「栄養失調やのに、脂肪あったんか」
 「おう、あったれえ。儂らは、煮あがった熱い肉をば頼ン張ったんよ。味は、二度と忘れられんほど旨かったよ。鴨とか雉の味にどこやら似てたのう。加納はんは、鉄兜のよな形ひた肝も食てたよ。飯盆に一杯ずつの肉食うたら、腹いっぱいになって、そんなり寝てしもたんよ。そやけど、夜中に恐ろし夢見て、何遍も眼え覚めたよ」
 私は酔いにほてった白山の顔を、背筋に走る寒気をこらえながら見つめていた。人の肉をくらうことなど、いまさら驚くほどのことではないと、たかを括っていた気持ちをうらぎって、白山の言葉は、なぜか私の内部から怯えを呼びおこす。思わず身震いをした。
「夜が明けてから、儂らはまた歩き出ひた。前の日まで伸びなんだ膝が、しゃんと伸びて、坂道も息も切らさんと歩けたよ。前の日いと、体のぐあいがころっと変ってるんや。ほんまにびっくりするほど元気になったんよ。傍らは歩きもて、飯盆からひと切れずつつまんで食うた。ちぢれ毛のついた皮をば、チューインガム噛むよに、歩きもてゆっくり噛み続けたんよ。加納はんがいうた通り、肝はいちばん旨かったのう」
「兄貴は、なんで肝臓が旨いのを知ってたんかなあ」
 私は疑問を口にすると、白山は、「そこよう」とうなずいた。
「誰やったか、加納はんに聞いた者居てたよ。ほいたら、キアリ村の陣地で軍医に聞いたて、いうてたのう。ほかの糧株持たんと、塩提げて行けと教せてくれたんも、その軍医やていうてたよ」
「お前ん、その軍医、知ってたかえ」
「いや、知らんのよ。どんなの男やったんかのう」
 白山は嘆息をもらした。
「儂やいまになって思うんやけど、加納はんはあの転進で、えらい山越えすることに決ったとき、これは食うか食われるかの有様になると、見当つけちゃったらしいのう」
 そうよ、そうに決ってたんよ、と白山は首をふりながらくりかえした。
「ほや、塩かついで行たんも、そのためかえ」
「そうやと、儂は思うよ。儂はできることなら共食いはせんと山を越えたいと思うてたが、いよいよやらな生きられん所まで来た。一人共食いをはじめたら、たちまち皆がやるようになる。食うた者は体力がついてるし、食わん者は生ける屍や。強い者に襲撃されて、カシワのよに食われてしまう運命がかならず来る。生きて帰ろうと思たら、人の肉食わな仕方ない。これは単純な理屈や、ちゅうてのう」
 共食いをする者は、清健たちがそれを体験した前後から、急速にふえはじめた。その頃は行軍序列などはどこにも見あたらず、単独行動の兵隊がふえてきていた。そのような独行者が、まず目標にされた。パーン、バーンと山中にこだまする狙撃音が、敵がいるはずもないのに毎日聞えていた。それまでは頻々と眼についた、道端にぶら下っている自殺体や、行き倒れの姿は眼につかなくなった。誰かが薮蔭へ引きずりこみ、料理するからであった。
▲UP

メニューへ


トップページへ