津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          宇喜多秀家 備前物語

■主人の給与は家臣のために使い果たす

<本文から>
 直家は五十余人の総勢のうち、十人を屋形と城の留守居に置き、逃げる敵を追う。海賊の人数は味方に倍するが、直家たちの奇襲をうけ、陣形を乱したので、反撃の態勢をととのえられない。
 直家たちは宙を飛ぶように走り、兵船の碇泊している浜辺に迫った。
「あれを見い。やっとるぞ」
 直家は海上を指さす。
 篝火を燃やす三腹の兵船から、十六人の宇喜多勢が射かける矢をうけた海賊たちは、水際で右往左往していた。
 彼らは兵船の人影をめがけ、さかんに矢を射かけるが、舷に立てつらねた掻楯のかげにいる直家の家来たちは、巧みに身を隠して防ぎ矢をするので、多くの海賊が矢を受けた。
 直家は引き連れてきた同勢に命じた。
「まだ斬りこむんは早いけえ、しばらく矢戦をせえ」
 闇中で弓弦が鳴り、軍兵たちのかけ声がひびく。
 海賊たちは横手から矢を射かけられ、度を失った。
「こりや、いけん。もう支えられんぞ。船を取り返すまでに、皆やられようぞ。散れ、散れ。ここにおりやあ、皆殺しにされらあ」
 彼らは、槍を担ぎ四方へ逃げ走る。
 直家らは、すかさず彼らのあとを追った。
 ふだんは残忍な所業に慣れた鬼のような海賊たちも、追ってくる城兵の足音を聞くと、魔物に襲いかかられるような恐怖に駆られ、悲鳴をあげ、息をきらせて逃げるばかりである。
 直家は敵に追いすがり、槍を横薙ぎに振って倒し、家来にいった。
 「それ、こやつの首をとれ」
 彼は、足をもつれさせてよろめき逃げるあらたな敵を、背中から突く。槍先に胸板をつらぬかれた相手は、空をつかみ倒れる。すばやく槍を手もとに引いた直家は、つぎの敵を求めて走った。
 半刻ほどの戦いで、宇喜多勢は海賊五十余人を倒し、十余人を生け捕りにした。
「海賊の船は、乙子の浜へまわせ。生け捕りにした奴輩は、弓を引けんように肱の筋を切って追い放せ」
 宇喜多勢は兵船に乗りこみ、櫓を操って磯伝いに乙子へ戻った。
 翌朝、直家は戦勝の祝宴をひらいた。
 犬島海賊に大打撃を与えた直家の声威はあがった。直家をほめたたえる評判を聞き、彼のもとへ復帰する旧臣があいついだ。 
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■織田方につき戦さの大博打に命をかける

<本文から>
 宇喜多直家は一万余人の兵を備前と播磨の国境に集め、畿内の情勢を見守っていた。
「石山本山には三万俵の兵粮が入ったけえ、織田がいかに天下の兵をこぞって攻めたてようとも、こゆるぎもせんじゃろう。石山のまわりは大川、沼地が取り囲んどるけえ、攻めロは天王寺ロばかりよ。織田もいよいよ危ねえことになったもんじゃが。毛利は淡路岩屋と明石に陣を進めておるが、なんというても瀬戸内の船手が総がかりで出張っておるけえ、海は押さえられてもしかたがなかろう。いま信長は紀州の雑賀衆を攻めに出向いたというが、合戦に勝って紀州を平均すればよし、仕損じりやあすべてはおしまいだ。毛利が織田にかわり、公方を押したて上洛することになろう。そうなりやあ、儂らは遅れてはならんぞ。播州一国をわが手で切り従えるぐらいのことをせにゃあ、おえんぞ」
 直家は家老、属将たちと軍議を練った。
 彼は毛利と同盟して播州に勢力を延ばし、さらにつぎの発展にむけ策謀をめぐらす。わが命のあるかぎり、領土の拡張をはかるのみである。
 直家の脳中には、祖父の無残な最後の姿が鮮明に残っている。彼は祖父にかわって、宇喜多氏を大発展させねばならない。
 −浮世には善もなけりやあ悪もねえぞ。力の強え者が弱え者を討ち亡ぼして、わが領分をふやしていきょうても、誰も悪人とはいわんのじゃ。弱え者は正しいことをしとっても、悪者にされらあ。ほんじゃけえ、戦にゃあ負けるわけにいかんのじゃ−
 考えて見れば、合戦は大博打であった。勝つか負けるか、いずれにしても確率五十パーセントの博打である。
 勝てば相手の財産がすべてわが手に入る。負ければ何もかも失い、わが命まで奪われる。
 戦国武将は、大博打うちである。
 戦いに勝つために、もっとも必要なことは情報の収集であった。敵の内情を探り、その戦力を把握してはじめて勝機をつかむことができる。
 直家は多数の細作(間者)を駆使して、四方の情況を探らせていた。
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■秀吉は母・お福を側人にする

<本文から>
 岡山城に入った秀吉は、浮田忠家以下の重臣たちに迎えられ、本丸主殴で具足を脱ぎ、湯風呂で道中の塵を落とす。
「八郎穀とお福の方に目見えいたすに、むさき姿ではなるまい。五体を磨きたて、香をたきしめて参るが、武士のたしなみだで」
 風呂からあがった秀吉は、紫地に萌黄、自、コバルト、赤の色もあざやかな、南蛮模様を染めだした絹地の小袖をつけ、皮袴に縫箔の肩衣を着て、大広間へ出向いた。
 上段の間に、小姓、女中を従えた八郎とお福が待っており、秀吉を見ると色代(挨拶)をした。お福は薄紅小袖のうえに、金銀箔置きのうちかけをかさねていた。
 −これは、噂に聞きしよりも勝る尤物だわ−
 秀吉はお福の艶やかな容姿にこぼれるような色香を見て、思わず胸の鼓動をたかめた。
 お福は三人の子を持つ三十七歳の、開ききった花であった。秀吉は小柄な体躯には似あわない、戦場往来で鍛えあげた響きのこもった力づよい声音で、声をかける。
「八郎殿は母御に似て、姿のよき若君だわ。兵法を身につけ成人いたさば、世に稀なるすぐれし大将分におなり遊ばすでござろう。儂は先年男子を失いしゆえ、八郎殿がようなる若君を、猶子にいたしたきものよ。儂が子となれば、侍従にも取りたて、大大名となるようにはからおうぞ」
「お懇ろなる思召しのほど、かたじけのう存じまする」
 八郎がたしかな口調で礼を述べた。秀吉がかさねていう。
「いかがかな。お福殿。八郎殿に羽柴の家をも嗣いでもらいたきものだで」
「身にあまるお情けにて、もったいなきばかりにござりまする」
 秀吉は目を細め、お福の甘やかな声を聞いた。彼は岡山城に三日間滞在した。そのあいだ、お福は毎夜彼と閨をともにした。
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■秀吉の養女・豪姫を妻に迎える

<本文から>
 宇喜多秀家が、豪姫を妻に迎えると決まったとき、諸大名の羨望が彼にあつまった。豪姫の父前田利家は加賀百万石の太守で、秀吉の信任がもっともあつい大名である。
 豪姫は、秀吉と利家がともに織田政権の侍大将で、隣り合った長屋に住んでいた頃、利家の側室の子として生まれ、むつきのうちから秀吉に貰われ、北政所が手塩にかけて育てた。
 才気にあふれた豪姫は、父に似て大柄な美貌の姫君であった。秀吉夫妻は彼女を実子のように思っている。その秘蔵の子を、秀家が妻とすれば、今後のさらなる栄進は、疑いなかった。
 秀吉は摂津茨木へ鷹狩りに出向いた際、持参するはずであった百両ほどの砂金を、聚楽第の自室に置き忘れできたので、金子を管理する役の老女に調べるよう、申しつけている。
 当時の金子百両は、現代の六千万円に相当する価値がある。わずか数日のあいだの鷹狩りに、それほどの砂金を持参したのは、諸人にチップを与えるためであろう。
 日本の金銀山の開発は、戦国期に入った頃からしだいにさかんになり、ゴールド・ラッシュの様相を呈し、豊臣政権下では「金銀野山に湧きいで」と形容されるように、ピークに達していた。
 大名のあいだでは金銀が外交の道具に使われ、贈答がおこなわれる。極東へ進出してきたヨーロッパ人たちは、日本が黄金の国であると見て、蜜にたかる蟻のように長崎へおとずれ、貿易の道をひらこうとした。
 日本が弱小国であれば、たちまち彼らの侵略をうけたであろうが、全ヨーロッ人をうわまわるといわれる戦力を擁する日本に対しては、貿易を望むほかはなかった。
 信長在世の頃、金銀の主要な用途は輸入品の決済にあった。豊臣政権のもとでは、兵根米調達の決済にまで、金銀を用いた。
 天正十七年三月、豪姫は秀家正室として輿入れした。大坂城下備前島の宇喜多家屋敷には、大船十艘に山積みされた嫁入りの荷が運びこまれ、祝宴がひらかれた。
 前田家からは、豪姫付きとして家老中村刑部が従い、家来、女中も多数従う。
 豪姫の婚儀は、豪華をきわめ.たものであったと想像できる。
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■国元の重臣たちは秀家の施政に失望

<本文から>
 余人の及ばない栄達の道を歩んできた秀家は、備前の太守にふさわしい闊達な性格であるが、あまたの人材を統率するには、経験が足りない。
 秀吉は宇喜多家中の内紛を未然におさえるために、助力してやらねばなるまいと考える。彼は花房助兵衛と嫡男職則、次男職直を、常陸太守佐竹義宣に預けた。常陸は助兵衛の生国である。
 秀吉が助兵衛の身柄を預かったことで、風波は収まったかに見えたが、国元の家老たちは秀家の措置を不満とした。
 「殿は太閤殴下の羽交いのもとにさえおれば、安泰でおられると思うてござるのじゃ。あいもかわらず、上方で伴天達狂いどもを重宝して、こののちもわれらを用いては下さらぬじゃろう。われらとて黙ってはおれんぞ。助兵衛が常陸へいってしもうたとて、憤慨の士は大勢おるんよ。皆が力をあわせて、殿にご改心をお頼みせにゃいけん」
 国元で、もっとも強硬な態度をあらわしたのは、浮田詮家であった。
 彼は戸川達安、花房正成、岡家利、新免宗貫、浮田織部、生石惣左衛門、梶原平次らと意を通じあい、長船紀伊守の弾劾をおこなおうとした。
 秀吉は、宇喜多家の家老たちが派閥をつくり、いがみあっていることを知って、秀家を呼び、命じた。
「伏見の城普請もできあがりしゆえ、そのほうが家中の家老どもを召し寄せ、城中の結構せみせてやれい」
「がしこまってござりまする」
 秀家は、家中に深刻な動揺がおこっているのを知らなかった。
 太閤検地によって、家臣の知行を削り、寺社領をも召し上げ、二十万石の封地をふやしたことが、重臣たちに秀家不信の思いを募らせていた。
 宇喜多家では、豊臣政権のもとで過重な軍役を繰り返しつとめてきた。島津征伐、小田原攻め、朝鮮在陣と、一万人をこえる出兵を繰り返したのである。
 この結果、家中財政の窮迫、農地の荒廃が領民を苦しめた。国元の重臣たちは秀家の施政に、しだいに失望していった。秀家は直家のように、生きぬくために戦国の辛酸をなめてきた経験を持たないので、家中諸棒が不満を鬱積させているのに気づかなかった。
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■秀家は関ケ原で敗れ薩州に落ち延びた

<本文から>
 五郎左衛門は、落ち武者詮議の手がのぴてくるのを警戒し、裏手の洞穴に筵を入れ、秀家主従をかくまう。
 秀家主従は洞穴にいて、追っ手に発見されたときは、五郎左衛門に迷惑をかけることになるので、早々に立ちのかねばならないと、気を焦らせた。
 秀家は進藤三左衛門にいった。
 「儂はかねて島津父子と泥懇にて、約せしこともあるけえ、いったん薩摩へ落ちのびようかのう」
 「さようの儀ならば、拙者が謀をなし、追っ手の眼をくらませまするゆえ、殿は勘十郎とただちにここを立ち退かれ、薩州へお渡りなされませ」
 三左衛門は、宇喜多家の重宝である国次の佩刀を秀家からうけとり、大坂へ出て本多忠勝に申し出た。
 「それがしの主秀家は、北国に逃れおりましたが、石田、小西、安国寺の人々が生け捕りとなりしと開きてより、おのが行く末をはかなみ、自害いたしてござりまする。よって、ご遺骸を茶毘に付し、家来の一人が高野山へ参りししだいにござります」
 三左衛門はいったん殉死しようとしたが、秀家の妻子がこののちきびしく訊問をうけるであろうと思い、主人の侃刀を証拠として持参したと告げた。
 忠勝かち国次の銘刀をうけとった家康は、秀家の死を疑わなかった。秀家が生きているかぎり、国次を手離さないであろうと思ったためである。
 秀家は黒田勘十郎と矢野五郎左衛門を供に従え、古駕籠に乗って大坂へむかった。途中、幾度か追っ手の詮議をうけたが、大病人が有馬の湯へ湯治に軒く途中であるといいぬけ、大坂の宇喜多屋敷へ夜中にたどりつく。
 豪姫は二度と会うこともなかろうとあきらめていた秀家を眼前にして、夢かとよろこび泣きむせぶ。
 五郎左衛門は黄金五十両、小袖五かさねを褒美に与えられ、帰っていった。秀家は妻子とつかの間の時を過ごしたが、備前島に隠れ住むことが発覚すれば、命はない。
 彼は間もなく天満橋際から便船に乗り、薩摩へ落ちのびていった。
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■流罪地八丈島で困窮し没する

<本文から>
 だが、秀家たちの生活はその後も楽ではかなかった。前田家からの贈りものは、いったん代官の手にはいるので、すべてを与えられるわけではなかった。
 秀家の家来たちは、それぞれ農耕、漁拷にはたらかねばならなかった。
 慶長十六年、秀隆が二十歳になったとき、代官奥山縫殴介の娘わかを妻にむかえたが、暮らしむきは楽にならなかった。
 秀家は、八丈島にきて二年めに、名主菊池左内につぎの借用書をさしだしている。
 「このたぴ便りもこれなく、米にさしつかえ困りいり候。米、島研一升、鰹節三節、お貸し下されたく候」
 ある年、江戸から八丈島に赴任した代官谷庄兵衛が、秀家を陣屋へ招き接待した。秀家は食膳の握り飯を一個だけ食べ、二個を懐紙に包み持ち帰った。
 庄兵衛はそれを見て、秀家の窮状を知り、白米一俵を贈った。
 慶長十九年、秀家の嫡男秀隆と妻のわかとのあいだに、嫡男太郎坊が生まれた。その前後に、秀家は側女のやえに太郎丞という男児を生ませた。道珍斎も、身辺の世話をする水汲み女とのあいだに男児をもうけた。
 狭い島内で、食物にもこと欠く月日が過ぎていった。
 秀家は長命して、八丈島で五十年の歳月を過ごし、明暦元年(一六五五)十一月二十日、八十三歳で没した。
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