|
<本文から> 織田信長の信念・哲学というと、旧弊な制度を打ち破って、新しい価値観で天下統一をしたことがあげられるのでしょうが、それは頭で考えたものではありません。
彼が命がけで生きてきた日々のなかで、実際に見て、感じたことが、ひとつの思想として結実したものでした。だからこそ、時代のリーダーとして、実際に世の中を変革し、人びとを牽引していくことができたのだと思います。
初めて「天下布武」という文字を刻んだ印をつくらせたのが三十三歳になった永禄一〇年(一五六七)だったことからも、信長が最初から天下統一を目指していたわけではなかったのがわかります。この年、「この地を制する者は天地を制する」といわれた美濃を平定し、ようやく大きな目標に目を向けることができたのでしょう。それ以前の信長には、天下統一などという野心を抱く余裕はほとんどありませんでした。尾張一国の統一をようやく果たし、美濃の攻略に全力を注ぐ日々だったのです。武田信玄、上杉謙信、今川義元ら、居並ぶ武将が早くから天下統一を旗印に虎視眈々と上洛の機会を狙っていたのとは、まったく事情が異なります。
しかし、一旦、天下統一を意識してからは、この事業に全力で打ち込みます。上洛してから、本能寺で光秀に殺されるまでの期間はわずか十四年。彼は、この間に天下統一という困難な事業のほとんどをなしとげました。
そもそも信長は戦国大名として、決して大きな力を持っていたわけではありません。父の信秀の代の石高は二十万石でしたが、傾奇者、うつけ者と見られていた信長は親戚や有力家臣から信用されず、彼自身の知行は八万石にまで減らされてしまったのです。その土地を守るために、叔父や兄弟に取り囲まれて骨肉相食む戦いを繰り広げました。
そうして一門衆の足場を固めたと思ったら、今度は周辺の武将たちが、虎視耽々と尾張の地を狙っています。信長が勝利して、一躍その名を世間に知らしめた桶狭間の戦いなどは、決死の覚悟で臨んだに違いありません。あのような勝負は、一生に一回できるかできないかというようなものです。敵方は駿河、遠江、三河に勢力を広げる強大な今川義元。兵力は自軍の十倍。俺の運命も、これでお終いだなと思っていたはずです。しかし、奇襲が成功して、奇跡的な勝利を収めた。
すると、すぐに次の美濃攻略を考える。しかも、一転して、これには時間をかけている。七軒もかけて、何遍も失敗しては、やっと美濃を手中にした。
こうして信長は戦を重ねるにつれ、倍々ゲームのように、勢力を拡大していきました。けれども、当初は天下統一どころか、自分の命が来年まで持つかもわかっていなかったのです。 |
|