津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          直感力〜カリスマの条件〜

■目的ではなく、結果だった信長の天下統一

<本文から>
  織田信長の信念・哲学というと、旧弊な制度を打ち破って、新しい価値観で天下統一をしたことがあげられるのでしょうが、それは頭で考えたものではありません。
 彼が命がけで生きてきた日々のなかで、実際に見て、感じたことが、ひとつの思想として結実したものでした。だからこそ、時代のリーダーとして、実際に世の中を変革し、人びとを牽引していくことができたのだと思います。
 初めて「天下布武」という文字を刻んだ印をつくらせたのが三十三歳になった永禄一〇年(一五六七)だったことからも、信長が最初から天下統一を目指していたわけではなかったのがわかります。この年、「この地を制する者は天地を制する」といわれた美濃を平定し、ようやく大きな目標に目を向けることができたのでしょう。それ以前の信長には、天下統一などという野心を抱く余裕はほとんどありませんでした。尾張一国の統一をようやく果たし、美濃の攻略に全力を注ぐ日々だったのです。武田信玄、上杉謙信、今川義元ら、居並ぶ武将が早くから天下統一を旗印に虎視眈々と上洛の機会を狙っていたのとは、まったく事情が異なります。
 しかし、一旦、天下統一を意識してからは、この事業に全力で打ち込みます。上洛してから、本能寺で光秀に殺されるまでの期間はわずか十四年。彼は、この間に天下統一という困難な事業のほとんどをなしとげました。
 そもそも信長は戦国大名として、決して大きな力を持っていたわけではありません。父の信秀の代の石高は二十万石でしたが、傾奇者、うつけ者と見られていた信長は親戚や有力家臣から信用されず、彼自身の知行は八万石にまで減らされてしまったのです。その土地を守るために、叔父や兄弟に取り囲まれて骨肉相食む戦いを繰り広げました。
 そうして一門衆の足場を固めたと思ったら、今度は周辺の武将たちが、虎視耽々と尾張の地を狙っています。信長が勝利して、一躍その名を世間に知らしめた桶狭間の戦いなどは、決死の覚悟で臨んだに違いありません。あのような勝負は、一生に一回できるかできないかというようなものです。敵方は駿河、遠江、三河に勢力を広げる強大な今川義元。兵力は自軍の十倍。俺の運命も、これでお終いだなと思っていたはずです。しかし、奇襲が成功して、奇跡的な勝利を収めた。
 すると、すぐに次の美濃攻略を考える。しかも、一転して、これには時間をかけている。七軒もかけて、何遍も失敗しては、やっと美濃を手中にした。
 こうして信長は戦を重ねるにつれ、倍々ゲームのように、勢力を拡大していきました。けれども、当初は天下統一どころか、自分の命が来年まで持つかもわかっていなかったのです。
▲UP

■裸一貫からのリーダーは、上に立てるかを問う前に動いている

<本文から>
 気力・執着心があれば、あなたもリーダーになれる?
「お金もない、力もない、おまけに運もなさそうだ。こんな自分でも、リーダーとして人の上に立つことができるでしょうか」という質問を受けたことがあります。これは、かなり答えるのがむずかしい問いですね。
 裸一貫から事業を興し、財をなした人はたくさんいます。そういう人たちは、そもそもこんな質問をしないでしょう。力不足や運のなさを嘆く前に、行動を始めています。そして、信長や松下幸之助のように、目の前の課題を一つ一つ片づけていく。その継続的な取り組みがやがて大きな成果となり、名実ともに人びとを率いるリーダーとして認められるようになるのです。
 そして、こういう人びとは、一般の人では考えられないような運を呼び込みます。信長の桶狭間の戦いなど、客観的に見て、勝機はほとんどありませんでした。突然の豪雨という、まさに天の助けがなかったら、結果はどうなっていたか、わかりません。松下幸之助にしてもそうです。その生涯を調べると、端から見ても絶体絶命というような状況に何度も追い込まれていますが、そのたびにどこからか仕事の発注が来たり、援助がもらえたりする。不思議に運に恵まれているんですね。
 ですから、質問を発する前に、まず考え、動け、ということですね。そういう気質の人でなければ、成功はむずかしいでしょう。
 ただ、あえて、この問いに答えるとすれば、はじめは金も力も運もいらない。それよりも大切なのは「気力」、つまり何かをなしとげようという執着心。これを持つことです。
▲UP

■リーダーに共通しているのは、身近な問題を一つ一つ粘り強く解決していく

<本文から>
 ここまで見てきたように、優れたリーダーに共通しているのは、身近な問題を一つ一つ粘り強く解決していくことに集中できることでした。無我夢中になって目先のピンチを切り抜けると、またバッと新しい課題が出てくる。それに対しても一つ一つ粘り強く対処していける人は、どんどん成功しますね。
 そのときに、あらゆる知能を働かせている。信長は膨大な情報を集め、分析し、新しい戦法や戦略を考える。幸之助はモノを製作することに全能力を注いでいます。そうした地に足の着いた、目標設定、信念の持ち方こそが、強大なリーダーを生むのかもしれません。
 ただ、信念だけで、すべてがうまく進むものではありません。その張りつめた思いを癒す存在も必要になってきます。
▲UP

■信長はもう少しで実現したヨーロッパ進出

<本文から>
 こうして、自ら示したビジョンを次々に実行し、新しい世界観を示した信長が、その先に考えていた構想といえば、日本を脱して、中国大陸、さらにはヨーロッパへと進出し、世界を統一することでした。荒唐無稽なアイデアのように見えますが、現代の目で見ても、あながち実現不可能なこととはいえません。
 信長は、近畿、中国を完全制圧した暁には九州へ勢力を伸ばし、肥前名護屋に城を置くことを考えていました。なぜ、肥前を狙っていたのかというと、博多沖の潮流は中国大陸へ向かっておらず、そこから八十キロ南下した肥前沖で大陸向きに変わるからです。
 つまり、同じ大陸進出であっても、信長が考えていたのは、朝鮮経由で攻めて行くのではなく、直接、中国の港を制圧し、一気にフィリピンに進出することだった。フィリピン周辺の海域は当時、ヨーロッパ〜アジア航路のみならず、マニラを経由してメキシコのアカプルコに向かう大圏航路まで確立していたほど、航海が盛んな海域でした。信長は、マニラ、セレベスと南下し、インドのゴアへと勢力を拡大していくことを目論んでいました。当時、この地はポルトガル領インドの首府であり、ここを制圧することはヨーロッパへの玄関口に到達したといっても過言ではありません。
 軍艦や戦車といった近代兵器が登場する以前は、同等の武器を装備した二つの軍勢がぶつかり合った場合、兵隊の総数が多いほうが圧倒的に有利であったと考えられています。当時、すでに鉄砲の日本国内における生産態勢が確立しており、その保有数もヨーロッパ諸国に伍するものとなっていましたから、日本の軍事力がヨーロッパ諸国よりも劣勢だったわけではありません。一方、戦術面を比較すると、当時、ヨーロッパは連邦的な国家制度に移行しつつあり、かつての大国が規模の小さな勢力の連合体へと変質していたので、軍の規模が縮小し、何百人単位で編制された軍隊がぶつかり合うのがヨーロッパでの典型的な戦争のスタイルでした。それに対し日本では、何万という単位で戦う合戦が主流だったのです。
 だから、日本がもしもヨーロッパに攻め込んでいたら、きわめて短時間で征服できただろうと、東大名誉教授の木村尚三郎さんが推論していらっしゃいます。もちろん、資金も潤沢にあった。当時、日本は世界一の銀の産出国でしたし、金も大量に産出していました。
 これらのことを考え合わせると、信長が本格的に海外に乗り出せば、インド以西はともかく、少なくとも東南アジア一帯は押さえていたでしょう。いずれにせよ、相当に強大な国家になっていたことは間違いありません。
 事実、日本の存在は、当時のインドでは脅威として受け止められていたようです。これは秀吉の時代になってからのことですが、ゴアの総督が人質や貢ぎ物をよこしていたという記録が残っていますから。
▲UP

■勝敗を決するのは戦う前の準備

<本文から>
 信長がゲリラ戦を繰り返し、すべての一門の勢力を圧倒したのは二十代の半ば。七〜八年をかけて、じっくり足許を固めていきました。
 信長は常々、「勝敗は戦いが始まるまでに七割が決まっていて、戦場で決するのは三割だ」と言っていたそうです。逆にいえば、七割方勝利が確信できるだけの準備が整わない限り、戟を始めなかったということです。そこに至るまでには、情報戦が大きな位置を占めていました。まさに情報を制するものが勝利を手に入れる証明といえるでしょうか。
 このような、情報を見極め、それを活用する能力が、リーダーにとって不可欠であることは昔も今も変わりありません。情報を制すれば、はるかに大きな組織に打ち勝つこともできるのです。
 現代は、あらゆる分野で変化のスピードが加速している時代です。国際経済や科学技術ばかりでなく、政治情勢も刻々と変化している。かつては変化に十年もかかっていたような事柄が、今は半年ほどで変わってしまう。当然、情報の流通するスピードも加速し、手許に届く情報の量はものすごく増えています。そんな状況の中で、正確に情報を見極めることは、ますます困難になっているといえるでしょう。元就や信長の教訓を生かすとすれば、情報の取捨選択に命を賭けることにほかなりません。漫然と情報を受け止めていたのでは、思わぬ落とし穴にはまってしまうかもしれないのです。
 現在の日本の政治的リーダーたちに、そうした命がけの選択ができているのかといえば、非常に心許ない。特に外交の場では情報力が重要になります。そこには、ニセ情報もあれば、相手を陥れるような情報も流されている。これを見極め、分析し、さらにはこちらから情報操作を行うなどの手段も用いて、生き馬の目を抜くような外交の場で、したたかな国々と対等な立場に立ち、しつかり交渉を重ねていってほしいですね。
 いずれにせよ、構想力と情報力は表裏一体のもの。何かをなそうというときには、まず情報を十分吟味して思考することが大事です。
▲UP

■織田兵が弱いというマイナス面があったから鉄砲の有効性を生かせた

<本文から>
 上杉謙信は初めから鉄砲には興味がなかったようです。それでも三百五十挺ほど鉄砲を持っていました。けれども彼は、騎馬隊で攻め込んで一気に片をつける戦い方に重点を置きました。
 信長が、なぜ鉄砲に重きを置いたかというと、信玄の甲州勢や謙信の信州勢に比べて、兵隊が弱かったからではないかと思います。尾張はもともと米がたくさん獲れる土地柄で、割と利に聡い連中が多かった。だから死に物狂いで戦うことがなかった。しかし、そんな兵でも、鉄砲なら相手に照準を合わせて引き金を引くだけでいい。織田勢の兵が強かったら、信長も鉄砲の有効性に気がつかなかったかもしれません。そうしたマイナス面があったがゆえに、世界に先んじた戦法を生み出すことができたのかもしれない、というのは非常におもしろいですね。
 組織の弱点を把握し、それを新しい方法論で「強み」に変えていく発想が重要なことは、現代のリーダーにもそのまま当てはまります。
▲UP

■西郷隆盛のように人間的な魅力だけで人を動かす人物はめったにいない

<本文から>
 それは、頭山が言うように、徴が純粋に「誠」を重んじる人だったからです。口先だけのごまかしや、その場しのぎの言葉を連ねることはありませんでした。
 彼のように、人間的な魅力だけで人を動かす人物はめったにいません。司馬遼太郎さんは、西郷を政治的能力はまったくない人だったと指摘していますが、実際、そうだったのでしょう。しかし、少なくとも人々の精神的支柱にはなれた。彼が中心にいて、どんと構えているだけで、政治家や役人は私心を恥じ、世のため人のために働こうとした。西郷がもしも生きながらえていたら、明治の官僚機構もずいぶん違った性格のものになっていたのではないかと思うのです。少なくとも、自分たちが倒した江戸幕府と同じような腐敗した組織に堕することはなかったでしょう。
 これは世の常ですが、正義感というものはなかなか長続きしないんです。権力が手に入ると、自己保身の思いやさらなる欲望がわき上がってくる。自分のことを考えず、命もいらぬ、金もいらぬという西郷のような人は、なかなかいません。
 そんな西郷が教えを請うたからこそ、勝も幕府の軍艦奉行という立場を捨てて、倒幕と近代的な中央集権国家樹立の必要性を熱く語ったのだと思います。
 西郷が大久保利通に送った手紙が残っているんです。これは、笠に貼った紙の中から出てきたものだそうですが、およそ次のようなことが書かれていました。
「幕府がそこまで腐り切っているとは、自分は知らなかった。幕府の人間でありながら、自分にそのことを教えてくれた勝とは、驚くべき人物である」
 その頃、西郷は幕府の提案を受け入れて、長州を東北の小さな藩として追いやることを考えていました。しかし、勝は言う。「そんなことやっちゃだめだよ。次はお前さんたち薩摩藩が幕府にやられちまう番だ。それどころか、ごたごたが続けば、フランスやイギリス、アメリカが日本に入り込んでくる口実を与えるだけ。それよりも、あんたたちが手を組んで、いっしょに腐り切った幕府を倒してしまえ」と。
 この言葉に、西郷は死ぬほど感動します。まさに虚心坦懐。西郷という人の純粋性がうかがわれます。
 この二人の関係は、一方が来るべき時代の在り方を指し示し、一方がその思想に共鳴して時代を変革していくという、お互いに刺激し合い、高め合う、最も理想的なものだったのではないでしょうか。西郷にとって、自分の知らない世界を教えてくれ、進むべき道を示した勝海舟はこのうえないブレーンでもあったのです。
▲UP


■家康には経験を知恵にできる洞察力があった

<本文から>
 西軍は関ケ原の高地に陣営を築いているので、本来なら、三日間は持ちこたえることができたでしょう。三日経てば、立花宗茂や小野木公卿など西軍の最も強大な加勢が到着する。さらに、西軍に豊臣秀頼本人が担ぎ出されてきたら、東軍の武将たちは謀反者となってしまう。矛を納めるしかない。そうすると、家康は江戸城へ逃げ帰るしかありません。つまり、この戦いを持久戦にしてはならなかった。何が何でも、短期決戦で片をつけるしかなかったのです。
 そこで彼が仕組んだのが、心理戦です。西軍の武将への寝返り工作でした。戦国武将というものは、信玄によって三方原の合戦で辛酸をなめさせられたように、真正面から攻めてくる相手に対しては武士の意地があり、どうしても応戦してしまう。この心理をついて、彼は攻めると見せかけておいて相手が応戦するやいなや、一気に引き上げ、敵を戦いやすい平地におびき出す戦法をとりました。そして、あらかじめ密約を交わしていた敵陣の武将がそこに攻め込む……。それらすべての作戦がぴたりとはまり、東軍は劇的な勝利を収めることができたのです。
 結果、彼の手許に転がり込んだのは、西軍から召し上げた六百五十万石の領地を再分配する役割でした。請われて総大将となった家康ですが、諸国の大名の生殺与奪の権利を手に入れたのです。こうして、慶長八年(一六〇三)、家康は征夷大将軍に上りつめます。
 この成功はある意味、漁夫の利ともいえますが、しかし、家康に経験を知恵にできる洞察力がなかったら、収めることはできなかったでしょう。歴史上、まれに見る「達成力」を発揮した家康は、失敗に学ぶことによって、さらなる高みへと上っていくことができたのです。
 家康は征夷大将軍に任ぜられる直前、六十二歳のときに、次のような言葉を書き遺しています。
 「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに欲おこらば、困窮したる時を思い出すべし。
 堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。勝つことばかり知って、まけることをしらざれば、害その身にいたる。おのれを責めて、人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」
 これは現代においてリーダーを目指す人にとっても、含蓄のある言葉です。
▲UP

メニューへ


トップページへ