津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          塚原卜伝十二番勝負

■勝とうと思いつめるのも病

<本文から>
 左門のなにげなくいう述懐が、新右衛門には、凝りかたまった己れの心を解きほぐさんとする思いやりであることは、すぐ解った。
 彼の頭蓋を日夜締めつけていた焦燥が、左門の一言によってすみやかにうすらぎ、やがて消えた。
 勝とうと思いつめ、習いおぼえた技を出そうと思いつめ、打ちかかろうと思いつめるのは、すべて試合にのぞむ者の、罹ってはならない心の病いであった。
 打つ気をなくして、待とうとばかりするのも病いであれば、心の固まりを解きほぐし、平常心に戻ろうと思いつめるのも痛いである。
 新右衛門は、知らぬ間に内心に病いを生じていたことを、はずかしく思った。剣術者の心は、虚空を吹き来り去る大風のように、一所にとどまることなく、つねにさわやかであるのだ。
 その夜、新右衛門は熟睡した。翌日になれば、若い体躯には力がみなぎっている。
 「心は待つ、身は掛かり」
 彼は胸にくりかえしつつ、左門を相手に稽古をする。大内家の弟子たちは、その様をみて、感嘆する。
 「なんと身の軽きことよのう。まるで猿としか思えぬではないか」
 「いや、あのような眼覚しい動きを、いままで隠しておられたのか」
 六月八日には、足利義軍が京都に到着し、行列は都大路を埋める町衆の注視のなか、室町柳営に入った。
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■京都で人気が高まるばかり

<本文から>  
 天下兵馬の権を握っている細川高国、大内義興の庇護をうけ、京都にとどまっておれば、いながらにして時勢の推移をまなぶことができる。
 剣技は、諸流の手練の者と立ちあう機会の多い京都で練磨すべきであった。一人でも未知の剣術者と打ちあい、その技を学ぶのが、上達には必須の条件である。
 新右衛門は、ふだんの稽古試合には、袋竹刀を用いた。それで打ちあえば、試合をおこなう者が心おきなく技を出すことができ、たがいに傷つくことがない。
 また、彼は、なるべく他出をひかえている。大内屋敷にいても、塚原の高名を聞きつたえた武芸者が、踵を接して立ちあいを申しいれてくる。
 彼の人気は日を経るにしたがい、たかまるばかりであった。
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■見せたことのない新しい技が、突然ひらめき、一撃で相手を倒す

<本文から>
 彼には、あらかじめ相手の手のうちを読む必要がなかった。挑戦者と立ちあったとき、彼は心を虚にして向かいあえばよい。
 刀を構えた相手が、動きに出てくれば、卜伝の精神はそれに感応して、体は自然に対時の構えをあらわす。彼が他流試合でみせる技は、多彩なものであった。
 これまでに身につけてきた、香取神道流の組太刀の技でもなく、廻国修行のあいだに編みだした技でもない。
 卜伝の身辺をはなれずにいる山崎左門をおどろかせる、それまで見せたことのない新しい技が、突然ひらめき、一撃で相手を倒すのである。
 卜伝が、新規の技をあらわすのは、苦心してのことではなく、とっさに流れでてくる動作であったので、左門たち高弟は、その限にもとまらない迅速な技を、必死で見取り、絵に書きとめねば、そのまま忘れ去ることになりかねない。
 その場でたしかめておかなければ、卜伝は自分の動いた形を、記憶から消し去るのであった。
「お前様は、おそろしいお人でございますな。技の形に頼らずとも、試合をおこなえる境地に達した兵法者は、ほかにはおらぬのではありませんか」
 左門は、人間の能力を夙にこえていると思える、卜伝の剣技に、畏怖のいろをかくそうとはしない。
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■透視力も身につける

<本文から>
 卜伝が、心を虚にして試合にのぞむと、相手の動きにあわせて、苦労なく勝ちを得られるのは、相手の双眼を凝視しているうちに、その心中を覚ることができかからであった。
 人間の五感のそとにある知覚を、卜伝がそなえるようになったのは、鹿島神宮に千日参寵の行をおこなっているうちのことであった。
 彼の体内にやどった透視力ともいうべき能力は、うすらいではたかまることをくりかえし、やがて常時身についてはなれなくなった。
 卜伝は、彼に細合を求める兵法者が、三十里の彼方から塚原館へ歩いてくる姿を、あきらかに眺めることができた。
 「明後日の夕刻に、わが館へ旅の者がくるかも知れぬぞ」
 卜伝は妙に洩らし、二日後のかわたれ時、風塵を浴びた旅装の兵法者が、塚原館の門を叩いて、妙を驚愕させた。
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■極限の境地を伝える弟子にめぐりあいたいと願う晩年

<本文から>
 卜伝は閑寂の境にいて、愛弟子のために教訓を書きつらねる日課を、たのしんでいた。
 塚原城の書院で、虫の声が降るような奥庭に机をむけ、一穂の火光のゆらぐ下で筆をとる卜伝の脳裡には、十七歳で山崎左門とともに兵法修行に京都へのぼったとき以来の、数多い思い出が湧きいでていた。
 眼前に旧知の人々の悌が笑み、話しかけてくる。彼らの声音や動作が、鮮明によみがえった。
 卜伝は、剣の奥義というものは、己れの技のすべてを理解できる才能の持ち主にのみ、伝えうると覚っていた。
 大勢の門人に、新当流の技を教えてはいるが、一つの太刀を伝えるにあたいする資質をそなえた者は、身辺にはいなかった。
 当流の極限の境地を伝える弟子にめぐりあいたいものだという、はげしい願望が、卜伝の胸奥で炎をゆらめかせている。
 飯篠軋信、松岡兵庫助など、一門の俊秀が多いが、一つの太刀を完壁に会得する才を持ちあわせてはいなかった。
「儂は自分がわけいり、眺めた剣の至極の境地を、余人に伝えることができずに死ぬかもしれない。それでもよい。妙のもとへ参れば、無窮の平安が待っておる」
 彼は、内心のさびしさを、まぎらそうとした。
 弘治二年(一五五六年)六十八歳になるまで、卜伝は塚原城を出ることなく日を送っていたが、翌年、彦四郎幹重を養子にむかえ、剃髪して入道となり、人生最後の廻国修行の旅に出立した。
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