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<本文から>
父上、心の下作りとは、何でございますか?」
兵介に聞かれ、厳勝は口をひらく。
「それは大刀を持った敵に小刀で掛かるのは誰しもおそろしい。そのため、小転の技を使うまえに、敵に向こうて立ち、敵をひと握りはどの小人じゃと思いこなす。そのうえで、敵の心中のうごきを見通す『観の眼』でかかるのじゃ。この心性をこしらえ思いこむことを、心の下作りというのじゃ」
厳勝は息子たちの顔をのぞきとみ、言葉を継ぐ。
「敵が先をとって斬って掛かってくるとき、相懸けの合撃で掛かってくるとき、いきおいに押されれば、どうしても右へ身をひらいて避けとうなるものや」
厳勝は小太刀をとり、片手中段に構えてみせる。
「敵が踏みこんで斬りかかってくるとき、その動きに合しこんで、まっすぐに己が人中路を斬れば、己が太刀先は峰から谷へ落ちるがとく敵の人中路に当たる。ところが敵味方が同時に打ちこむ合撃に際し、もしこちらがひるんで、敵の太刀が己が手に当たらぬよう右へ身を避ければどうなる。かえって己が太刀は敵に当たらぬままに、己が身は斬られることになる。我を塞ぐという言葉は当流の極意やが、それは危ぶむ心、妄想をすべて己が内より取り去るということや。我を塞いで仕掛けた太刀先は敵に当たる。己が勇気をみがけぼ、敵はこちらの思うがままに従うてくる。心の下作りができればいかなる敵にもめったに負けはせんのや」
兵介は兵法者にとって勇気がいかに必要なものであるかを知らされた。
彼は稽古所正面の上段の間に掲げられている石舟斎の詠んだ道歌を思い浮かべる。
兵法の奥より奥のならいこそ
ただ剛臆の二つなりけり
兵法の根本をつきつめていけば、極意に達するか否かは、剛胆か臆病かの二つの条件によって左右されるのみというのである。 |
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