津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
        徳川吉宗の人間学

■ずいぶんスケールの大きな人

<本文から>
  十年ほど前に私は、徳川吉宗を主人公とした『南海の龍』という小説を書きました。その時、吉宗というのは非常に賢い人物であったということが印象に残っています。この小説では吉宗が将軍になるまでを書いたのですが、今度もう一度最初から洗い直して生涯を書いてみようというようなつもりで、『大わらんじの男』を書きはじめたわけです。
 吉宗という人物は、『南紀徳川史』によりますと、たいへん理性的で、生涯大きな声を出したことがなかったとか、感情に動かされることのない人物であったようです。そういう点で、我々がとても及び得ないような、ずいぶんスケールの大きな人だということを感じます。
 また吉宗は、「堪忍」と自分で書いた額を居間に掛けていました。それはよっぽど堪忍しなければ人は使えない、人はついてこないという自らへの戒めでもあったでしょう。また、人は大体、六分目か七分目働けばいいほうだと、そういうようなことも彼はいっています。
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■強靭な体力はこの外祖父の血、大変徹底した合理性は百姓出の母から

<本文から>  
 六左衛門は腕力も非常に強かったそうですから、吉宗の強靭な体力はこの外祖父の血からきたものでしょう。和歌山城扇の芝馬場に七百余人の藩士が集まったとき、人々の立ち並ぶなかで吉宗だけが首から上を出していたといわれる。一説によると、江戸中期は日本人の背が最も小さかった時代だそうで、六代将軍家宣が百六十センチくらいで、それで背が高いほうだったらしい。だから吉宗の六尺余り、百八十センチ以上というのは、そこにいるだけでも相当な威圧感があったと思いますよ。
 お由利の方も、大女であったといわれるが、三十二歳の時に六十歳の光貞が手をつけているわけで、ある程度は美人だったのではないかとも考えられます。しかし「希代の醜女」だったという資料もあって、そこのところはよくわからない。この母親の影響なのかどうかはわかりませんが、吉宗の好みの女性は、皆大柄だったようです。
 吉宗の母の出自に関しては、以上のようにいろいろの説があります。しかし、吉宗の性格、資質から推し量っても、母親はやはり紀州の巨勢村の百姓の娘だったというのがあたっていると私は思います。
 というのは、吉宗には大変徹底した合理性というか、嫌いな人間でも才能があれば使うというようなところがあります。現実をじっくりと分析し、非常に割り切ってそれに対応する策を綿密に練るという面があります。普通のお殿様は、そこまで目が行き届かないものです。家臣がさまざまなデータを持ってきても、それを分析したり理解したりする力がない。ところが、吉宗にはその能力が備わっていました。下情に通じるためには、そのような感覚が資質として備わっていることが必要条件だと思うのです。
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■信天一坊事件にみる女好き

<本文から>
 同十四年には「源氏坊改行事件」というのが起こり、これが『大岡政談』の中に出てくる「天一坊事件」の原型だと見なされています。
 吉宗はこの件については、実は身に憶えがあると言っているらしい。それは自分の落とし子かと。しかし、吉宗は憶えがあると言ったけれども、そんなものを認めたら大混乱が起きるから、それで幕府は否定した、ということのようです。
 吉宗は相当な女性好きであったようで、落とし子は大勢いた。何十人もいたと思われる記録もあって、天一坊みたいなケースは他にも幾つかあったようです。
「上様、身に憶えは……」
と聞かれると、
「憶えがある」
とすぐに答えたらしい。えり好みはしないけれども、女性が好きだった。顔の美醜も全然問わなかったようだ。吉宗の側室で田安宗武の母親などは、鼻があぐらをかいたみたいで特別不細工だったそうです。
 こうした女性の好みを見ても、吉宗はリアリズムと割り切っていってるところがあるように思えます。人間は感情で絡めとられる部分があるものだが、吉宗にはそれが見受けられない。
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■増収策

<本文から>
 積極策として増収策をとります。まず、新田開発を活発に行なわせる。そのためには荒れ地に水を引いてこなければならず、潅漑用水の工事をしなければならない。そのために大がかりな工事を行ない、大畑才蔵など、この方面に特別な技能を持っている者たちを積極的に登用します。
 そして三つ目には、「二十分の一差上金」ということで、藩士から借り上げ、すなわち借金ですが、給与の一部を払わないという方針を出す。三年間にわたって、給与のペースダウンを強制したのです。
 さらに、紀州は名産品の多い土地柄であって、湯浅の醤油、粉河の酢、紀州みかん、漆器、和紙などいろんなものがあった。これをあらためて殖産興業ということで、他国に高皇冗れるように奨励策を講じた。この分野にも農政の実務にくわしい者を登用しています。
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■弱い立場の者にこまやかな気づかいを見せた

<本文から>
「あれはなんだ」
と聞くと、紙帳だという。紙のカヤである。普通の殿様なら、
「そうか」
といって、下々はそれでよい……でおしまいだろう。ところが、吉宗は、
「この暑いのにかわいそうだ」
といって、木綿のカヤを使わせるように指示し、そのうえ窓がなかった厩をあけて風通しをよくさせたという。
 そのように細かい部分まで気が回るところは吉宗ならではであって、他の大名では思いつきもしない。階級が違うのだから、彼らは彼らなりの生活をして当り前と思う時代です。こんな者に情けを掛けるとかえつて悪いんだという考え方をする時代です。
 また、紀州家の中屋敷に中間が千人余りいましたが、彼らは狭い部屋でワラをかぶって寝ていました。それで、ボスのようになると博打ばっかりしているし、下のほうの連中は疹癖になったりしてひどい目にあっている。そこで吉宗は、皆に蒲団をやれ、風呂も立てて入れてやれとか、薬をやれなどと命じています。
 こういう弱い立場の者にこまやかな気づかいを見せられるというのは、吉宗が幼少の頃、紀州家家臣の加納五郎左衛門からそうしたことを教えられたのだろうと思うんです。しかし教えられても、わからない者にはわからない。吉宗にはそれを理解する力があったのでしょう。吉宗は、夜中の町内の見まわりをもかかさなかった。
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■この人のためなら、と思わせる天性のリーダー

<本文から>
 紀州藩主となつた吉宗は、町廻横目や芸目付などを使っていますが、通常、このようなスパイを俳梱させるというのは、一般に暗いイメージを与えるものです。閉塞感と疑心暗鬼のみが蔓延するでしょうから。しかしここが吉宗の不思議なところというのか、本人のキャラクタ一によって非常に得をしている。
 のちに将軍になつてからも言えることですが、絶対に大きな声を出さない、笑顔を失わない、部下の失敗を露骨に表情に出して各めるようなことをしない、こういう人徳が吉宗には備わっています。これは彼の資質といえる。リーダーの条件にはいろいろあるけれども、
 「この人のためなら、一生懸命やりましょう」
という、部下のモラールアップと同時に、働こうという動機づけ、モチベトションを与える意味で、その発散する雰囲気は常人には得がたいものがあったのでしょう。天性のリーダーだったと言ってもいいのではないか。
 他の大名たちにも、倹約を励行させようとした例はある。しかしたいがいの場合は各藩の大奥が抵抗してうまくいかなかったんですね。吉宗の場合は、大奥に手をつけなかったわけではないが、うまくいきました。美女たち五十人をまずクビにするという非常に人間の心理をうまくつかんだやり方をしたからです。これで人々が信頼感や安心感を持つことになり、抵抗がなくなつたのではないでしょうか。巧妙な手です。
 紀州藩主として財政を再建した実績を持って江戸城に乗り込んだあとも、根気強く時機の到来を待つという哲学がうかがえて、吉宗のリーダーとしての資質を感じます。この根気強さは、自信とともに、長いスパンでものごとを考えるということでしょう。政治の大きをつねりをよく捉え、小さなさざなみは問題にしなかった。大器中の大器であったことは確かです。
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■紀州の江戸家老と尾州の江戸家老の能力の違いは決定的

<本文から>
 それと注目したいことは、吉宗が「将軍後見職」に就くということが結局は決まるわけですが、これは、現将軍が病弱で幼少なため、子供もいない。そこで将軍後見役として、将軍の代行者として政務を見るという意味ですね。そして、将軍の亡きあと、次期将軍職に就くということだつた。先代の将軍家宣の正室天英院が吉宗を呼び、家宣の遺命であると説得することによって、吉宗は将軍後見職への就任を受けることになつたのです。
 しかし、江戸城からの知らせで吉宗が到着した時には、もう七代将軍家継は死んでいたわけですから、これは手続き的なことにすぎなかった。
 事前に大奥から漏れてきたか、あるいは老中のリークによって、幼い将軍家継の病状がかなり危ないということを吉宗は知っていたので、各方面への根まわしを滞りなく進め、いつでも駆けつけられる準備を万端整えていたのです。吉宗が一度は将軍職を辞退したことは事実だっただろうと思います。
 吉宗だって喉から手が出るほどに天下がほしいと思うがゆえに、なおさらし たたかに政略を練ったに違いをいですから。確実な準備ができていればこそ、セレモニーとして固辞したのではないかと思います。
 ここに至るいきさつの中で、紀州の江戸家老と尾州の江戸家老の能力の違いは決定的でした。家来たちが一致団結して、
 「我が殿を、なんとしても将軍職に」
とあらゆる努力を惜しまない。吉宗の人望ということもあったと思いますが、家来たちの質は吉宗の代になつて急に高められたわけではないでしょう。初代頼宣の代から、紀伊藩の家老たちの心構えが違っていたということは言えないでしょうか。それが何の時に役に立つかといえば、最も重大な場面、徳川宗家の相続人がいなぺなつた時です。
 「我が藩から是非とも次期将軍を」
 という気持ちは、いつのことになるかわからなくても、江戸屋敷に詰めた重役陣の胸に秘めた共通の思いとして常にあったはずです。
 これに比較して、尾張のほうは、
 「そういう時には当然筆頭の我が藩に決まっている」
 という安心感があったでしょうから、油断をしている。だから、そのための事前準備には自然と手を抜いてしまう。細かいことの積み重ねが、いざという時に思わぬ大きな陥穿をつくり、足元をすくわれてしまう結果になりました。
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■裏切らないスパイ組織を握る

<本文から>
童門 このような幕府の重要機密に関わる部分で働いていた御庭番に、二重スパイのような裏切り者は出なかったのでしょうか。
津本 結論としては、出なかったと思いますね。それをすればバレてしまうでしょう。紀州から付いてきた連中が百人も二百人もいたし、誰かが裏切ったということがあれば黙ってはいない。誰もが代々使ってもらわなきやいけないし、自分一人のことではすまないから、そんなリスクを負ってまで裏切る者はいなかったでしょう。
 だから、尾張や水戸が接触しても、それに乗る者はいなかったと思う。裏切って移ったところで生きてはいけないし、消されて終わりです。裏切りがわかれば必ず告げ口する人間がいるものです。
 とにかく、犬馬の労を尽くすような秘密組織を、吉宗が握っていたということは想像にかたくない。吉宗が幕政について、細かいところまで指示していますし、いろんな事情をよく知ってなければわからないような発言が多くあります。賢くない将軍なら、彼らを使いこなせなかったでしょう。驚いたことに、個々の御庭番の性格やくせなどについてもよく掴んでいたようです。
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■重農主義の限界

<本文から>
童門 吉宗は重農主義で「祖法に還れ」といっていますが、家康の頃と違って商業経済が飛躍的に発展して、米だけで経済が成立している状況にはもはやない。なおかつ貨幣の流通量が非常に多くなつています。貨幣をコントロールする金融政策なしに経済政策は成立しなくなつていたのです。
 しかし、吉宗は農民に可処分所得を与えすぎると、いきおいそこから人間生活が華美になつてくるとの考えを強固に持っていて、これを非常に警戒していました。これが彼の重農主義の根幹にある思想であり、それが改革の限界にも結びつくわけですが、彼はこれをがんとして変えなかった。
 なぜそこまでこだわったのかということは大きな疑問です。その理由の一つとして考えられるのは、士農工商制を保持していくのが、徳川幕府の、ひいては征夷大将軍家の権威を確立していく道だと考えたのではないか。農民は土から直接農産物を生産し、職人はそれに必要な農具や工具をつくる。それに対して商人は何も生産しない。他人のつくつたものを動かすだけで儲けるという風潮が、この国に蔓延しては困るという思いがあったのでしょう。商人はそのような諸悪の根源であるという意識があったと思われます。
 そうして商人の扱っているものはというと、貨幣である。銭でまわる世の中になると、百姓もそうしたことを覚えるし、武士も堕落する。
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■有能な人物は時勢によって自分を使い分けする

<本文から>
 要するに、有能な人物は時勢によって自分を使い分けするのだろうと思うんです。それと、やはり血の匂いのする時代に育った人には、狂気が宿る。
 だから、信長と吉宗の違いということをいうと、ある種の狂気の希薄さと渡さみたいなものではないでしょうか。それは、たぶん時代の帯びている狂気の濃淡とも関わってくるという感じはします。
 とくに、吉宗のように現実をよく理解する人というのはそれに合わせるから、徹底して敵を征服しなければならない時代には、普通の大名よりももっとえげつないやり方で、信長のように制圧するということもあり得たと思います。
 それと、徳川の家系には狂人が多いというと語弊があるかもしれないが、ある種の狂気を感じさせる人が少くないような気がします。たとえば吉宗の祖父の頼宣。やっぱり何かそういう変な恐ろしさが、まだ吉宗にも十分残っているように思われます。
 信長は、「梢を渡る猿猥」といわれている。サルのようにつぎつぎと飛び移る。それくらい情勢に応じて態度が変わる。吉宗にもそんなところがあったようにも見える。
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■リーダーの資質と巧妙な手法を駆使する感性、能力をもあわせ持っていた

<本文から>
 あの時代の人々にとっては、やはり、どのようにしたらいいのか誰にも判断のつかない状態だったのである。その逼迫し困窮した財政状態を、吉宗は回復させた。そうしてその後、徳川幕府を百五十年の長きにわたって存続させたのである。徳川幕府「中興の祖」と呼ばれるゆえんがここにある。
 吉宗は何故それをなし得たのか。
 それは、時代をリードする人間にもとめられる資質を、彼は天性のものとして持っており、しかも、巧妙な手法を駆使する感性、能力をもあわせ持っていたためだといえるだろう。これによって、吉宗は閉塞した時代状況を切り拓くことができたのである。
 では、吉宗の持っていた資質とは何だったのだろうか。
 江戸時代も中期にさしかかったこの頃、日本人の体格が総じて小柄だったといわれるなかで、吉宗は身の丈六尺(百八十センチ余り)の成文夫であった。立派だったのは体格だけではない。彼は生涯、大きな声を出して人を叱るということがなかったという。七かし、人間であれば誰しも、腹の立たないことはない。だからこそ吉宗は、その居室に「堪忍」と自ら書いた扁額を掲げていたのだろうと思う。それを実行しきった意志力は、常人にはおよびもつかないものである。懐の深さと人間としての大きさを感じずにはいられない。
 あの時代にあって、情報の持つ力をよく知っていたのも、吉宗をおいて右に出る者はいなかった。彼は現状の把握力にすぐれていたのであるが、それは、よく管理された情報網を駆使していたからにほかならないのである。情報は、入ってくるものに取り囲まれていてもしかたがない。吉宗は、必要な情報を自ら指示して入手し、その意味を読んで、分析する力を持っていたの。ことの重要性を理解できる鋭敏な感性を持ちあわせていたということなのである。
 吉宗は君主として、先天的ともいえる資質に恵まれていたことは確かだが、それを余すところなく発揮する手法にもしたたかなものがある。
 この時代、家康以来の徳川幕府を支えてきた金銀はすでにほとんど産出しなくなり、幕府財政の基盤である年貢の徴収も落ちこんでいた。財政状態は極めて危ないところまで陥っていたのである。ところが、幕閣の中には、これを打開できる者はおろか、状況を的確に認識できる著すらいなかった。しかし、なんとかしなければならないという思いだけは、彼らのなかにもあった。それも、側用人などという新参者に幕政を牛耳られるのではなく、自分たち譜代門閥の世襲制をまもってくれる都合のいい人物の出現を願ったのである。
 吉宗はそれを見抜いたうえで、じんわりと、しかもドラスティックに改革を始める。的確な情報によって現実を把握し、裏で各方面に手を打ちながら、吉宗待望の世論を幕閣のなかにつくっていく。このようにして、「吉宗の対抗者を抹殺してでも」という空気は老中たちばかりでなく、江戸城のなかに形成されていったのであろう。根まわしは大奥にまでおよんでいたのである。事実は奈辺にあるのかわからないが、将軍後継の問題において優位にあった尾張徳川家の当主たちがつぎつぎと死んで、将軍職は吉宗の懐にころがりこんだのである。
 そして、吉宗は我慢強い。時機の到来を辛抱強く待つ気の長さがある。もちろんその裏では、先を見たうえでの下準備を着々とすすめているのだ。
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