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<本文から> 為朝は前途に重畳する紫の山なみにむかい、馬背に揺られてゆく。
阿曾三郎忠国は、阿蘇高岳の南麓に、広大な居館を構えていた。旅の途中、為朝は積雪まぶしい山なみに眼をやりつつ、わが前途を考える。
彼は京都を出でたつとき、父為義から平氏の領分である九州の地を、できるかぎり攻めたいらげ、源氏の勢力を伸長するよう、いいつけられた。
西の平氏といわれる通り、九州では平姓の豪族が、いたるところで威を張っていた。
為朝は、由布院で三年をすごすうち、彼らの実力が、おそれるにたりないものであるのを知った。
まとまった兵を掌握すれば、大宰大弐をも追いしりぞけ、九州の荘園のすべてをわが支配に納めてやると、野望を抱きはじめたとき、阿曾三郎忠国の招きを受けたのである。
阿曾三郎の兵を用い、まず攻めるのは有明海の湾内ふかいところにある、伊倉湊であると、為朝は狙いをつけていた。
現在の有明海北岸は、筑後川の流す泥砂に埋められ、二十キロ余りも南に寄っているが、当時はふかく湾入し、伊倉に湊があった。
伊倉湊には、宋の貿易船が入港する。湊の附近は、鳥羽院領神埼荘という、千町歩に及ぶ荘園である。伊倉湊にはじめて宋商周新の船が渡来したのは、長承二年(一一三三)であった。
当時鳥羽院の院司であった平忠盛は、宋船との貿易によって、莫大な利益をあげられると知り、自ら下文をつくり院宣と称して、大軍府の監督を拒否し、伊倉で私貿易をはじめた。
太宰府は、外国から来着した使臣の接待の場であるとともに、大陸からの商船との貿易を管理する役所でもある。
朝廷は唐の商船が博多に来着したという知らせをうければ、ただちに蔵人所から唐物便を太宰府につかわした。
貿易の全権を委任された唐物便は、太宰府鴻臚館で、外国商船の舶載品をあらため、そのなかから朝廷の必要とするものを、買いあげる。
残余の品については、民間商人との自由な取引きを許すのである。
京都の朝廷の大官たちは、唐物便が出立すると聞くと、太宰府へ家来を送り、唐物買いしめに狂奔する。唐物便が到着するまえに、裏面工作をして、欲する品享にいれる者さえいた。
そうするのはもちろん、買いいれた唐物によって、おどろくべき利潤が得られるからであった。
貿易が有利であるのを知っている九州の豪族たちは、鳥羽院政期にはいって、平忠盛をみならい、私貿易をはじめた。
福岡宗像神社、筥崎八幡宮、太宰府観世音寺、太宰府安楽寺である。
為朝は、神埼荘の貿易権をおさえれば、軍資金を思うがままに入手できると、父為義から教えられていた。
馬背に揺られつつ山路をたどるうち、為朝は自分がやがては、九州の王として君臨する日がくるにちがいないと、想像する。 |
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