津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          草原の覇王チンギス・ハーン

■幸運を開いた結婚

<本文から>
 二人の結婚式は、翌日おこなわれた。デイ・セチェンの帳殿の接見の間に三百人の招客が集まり、昼夜を問わず酒宴がつづいた。三昼夜の酒宴のあと、テムジン夫妻はベルグティとともに、ボスクル氏のグリエンを出発した。
 ビュルテには男女の従者二十人ほどがついている。デイ・セチェンの贈り物を積んだ馬と駱駝の列が、延々とつづいた。贈り物のなかには、テムジンの全財産よりもはるかに高価な黒紹の袋も含まれていた。
 デイ・セチェンには、人間の将来の運命を洞察するカがそなわっていたにちがいない。そうでなければ、かつて婚約を交わしていたとはいえ、父のイエスゲイ・バァトルの没後、二十人たらずの家族、戦士とともに、危険きわまりないブルカン岳の麓に住んでいる、微力なテムジンに、愛娘を与えなかったであろう。
 ビュルテの婿として、大部族を率いる青年武将を選ぶ機会は、いくらでもあった。デイ・セチェンは、クルバガンを常食として貧困に堪えてきたテムジンが、モンゴル族に前例のない大発展を実現する強運をそなえているのを、見抜いていたのである。
 デイ・セチェンは、ケルレン河畔のウラル・チョクという集落まで娘夫婦を送ってきたが、母親のチョタン夫人は娘と別れるのが辛いので、ついにセングル小河を遡り、青い湖を見おろす丘陵にある、テムジンの牧営地までついてきた。
 チョタン夫人は、貧弱な牧宮地を見て、不安の思いに駆られたであろうが、テムジン夫妻とビュルテの従者たちの幕舎ができあがるまで、十日ほど滞在したのち、別れを惜しみつつ帰っていった。
 テムジンの牧営地は、幕舎の数がそれまでの二倍に増え、集落の形がととのってきた。ビュルテが持ってきた財産は、テムジン一族の生活をうるおした。 
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■部族連合の王となった本営の仕組み

<本文から>
 チンギス・ハーンはモンゴル部族連合の王となったが、彼らを家臣とする封建国家の王ではない。たがいに協力して本格的な中央集権制度の雛型をつくつたにすぎない。
 チンギスはハーンの本営としての帳殿を設けた。移動のときは簡単に解体して牛車に積み、運ベるほどのものである。帳殿を定めると、本営に勤務する者二十三人を任命した。
(一)矢筒を帯び、ハーンの身辺護衛にあたる者。四人。
(二)帯刀して警戒にあたる者。四人。
(三)ハーンの飲食を料理し、さしあげる者。三人。
(四)去勢馬の放牧、管理をする者。二人。
(五)馬群の放牧、管理にあたる者。三人。
(六)羊飼い。一人。
(七)帳殿内の雑事、召使いの監督にあたる者。一人。
(八)車の修繕、管理をする者。一人。
(九)伝令。四人。
 このほかに、ボオルナユ、ジエルメの二人が、チンギス・ハーン側近の最高責任者、参謀として置かれた。
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■モンゴル軍団の機動力

<本文から>
 当時、モンゴル高原にはモンゴル軍団の戦力に対抗しうる敵はいなかった。彼らの機動力はすさまじい。敵を発見して勝てると思えば、鳥が集まってくるように、群がり襲ってくる。疲れると、雲に覆われていた空が急に晴れてゆくように、四方へ駆け去ってゆく。勝つと見たときは肉薄して戦い、不利と見ればたちまち退き、遁走を恥じることがない。
 マルコ・ポーロの『東方見聞録』(愛宕松男訳注・平凡社)に、数万の軍団の迅速な行動が記されている。
 「軍団がなんらかの目的をもって行軍する場合、平原中であれ山間であれ、常に二百騎の一隊が本隊の前後左右二日行程の地点に派出されて偵察隊となっているが、言うまでもなくこれは敵の急襲を免れる方法である。長途の行軍の際などは、彼らはこの間ほとんど馬乳だけを糧食とするものだから、牝と牡と合わせて十八頭のウマを各人が連行し、一頭が疲れれば別のと取り扱えて騎乗し続ける」
 モンゴル軍は、十単位で編成された組織集団により、敵と戦闘中にも望むがままに軍団を離合集散させ、敵の弱点に集中攻撃をしかけさせる。
 モンゴル兵の主な武器は強力な弓矢であり、彼らはそれを体の一部のように使いこなした。敵と接近した白兵戦になると、投げ縄、鈎槍を自在に使い、敵を馬から引きずり落として殺した。
 騎馬兵のすべてが、数頭から十数頭に及ぶ替え馬を持つモンゴル軍団は、千キロ離れた場所にいる味方の軍団と連絡しあい、たがいに救援におもむくことが可能であった。
 チンギス・ハーンは戦闘に際し、「矢の伝騎」という伝令を用いた。
 「矢の伝騎」はチンギス・ハーンのいる大本営に情報を伝えてくる。それはただちに各地に派遣されている軍団に伝えられた。
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■モンゴル軍は掠奪だけが目的

<本文から>
  彼はチンギス・ハーンの指示によって、占領地に代官を置いた。代官は戸口調査、募兵、駅伝設置、租税徴集、貢納の大本営への送達などの役目を果たすものであった。
 モンゴル・ウルスは、馬の肥える秋に疾風のように敵の領域を襲撃し、掠奪を終えるとたちまち去っていった。
 チンギス・ハーンにとって、中都のような巨大都市も、その財宝、奴隷とすべき男女を奪ったあとは、何の価値も認めない糞溜めのようなものであった。颯々と澄んだ風の吹き通う草原に住む彼は、都市の大慶高榎など一顧にも値しないものと思っている。
 そのため、モンゴル軍が金国に乱入するとき、掠奪だけが目的で、占領地の経営は念頭になかった。だが戦いが年をかさね長期化するにつれ、その必要に迫られるようになってきた。
 モンゴル軍が河北、山西、山東地方に侵入すると、それまでの治安が乱れ、住民は自衛組織をつくり、跳梁する群盗にそなえなければならなくなった。
 チンギス・ハーンは、州県をまとめ投降する者は守令(知事)として、属官を置かせ、司法権を与えた。放牧地ではない占領地域に価値を認めなかったモンゴル族が、そこから現銀・生産物を毎年収奪するのが得策であるとするようになったのは、その頃からであった。
 チンギス・ハーンは、敵を攻撃するとき、あくまでも反抗する者は皆殺しにするが、抵抗することなく降伏した者は、しかるべき課税をするだけで殺さず、自治を許した。
 このため定住民に対する戦いは長引くことなく、終惚することになった。
 チンギス・ハーンは、中郡を陥落させたとき、いかなる戦利品よりもはるかに価値のある人材を得た。耶律楚材である。遼の東丹王八世の孫で、父の名は履といい、六十歳のときに耶律楚材が生まれた。金が遼を亡ぼし、契丹人を追放したとき、楚材の家族は金に仕えた。
 楚材が三歳のとき父の履が亡くなったが、賢母楊の教育をうけ、天文、地理、律令、術数に詳しく、抜群の才をあらわす。彼はその後数世紀にわたり用いられた天体運行表の作成者であり、仏教、道教、医学、占学にも長じていた。
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■なぜ抵抗した敵の降伏を許さず殺しつくしたのか

<本文から>
 モンゴル軍はなぜ抵抗した敵の降伏を許さず、殺しつくしたのか。海のように広大で富裕なホラズム王国の大半を、わずか十数万の兵で制圧したチンギス・ハーン以下のモンゴル軍団は、このまま破竹のいきおいで進撃すれば、世界制覇も夢ではないと思いはじめた。その一方で、もし占領地域の回教徒たちが協同して決起すれば、自分たちが砂嵐に埋もれ去るようにあとかたもなく消滅するのではないかという妄想にとらわれるようになってもいた。
 モンゴル軍は寡勢である。連戦連勝をつづけているが、確保している地点は、サマルカンド以下のわずかな城市のみであった。
 ホラズム全土に暴動がおこれば、退路を断たれ、馬を失い、たがいの連絡網を断たれ、自滅するにちがいない。そうなれば故国モンゴルは西夏、金の侵略のもとに、ひとたまりもなく踏みにじられる。
 モンゴル軍はそのような妄想に胆を冷やし、ひたすら狂暴になるよりほかはなかった。
 ムハンマドを追い、数千キロも西方へ兵を遣わしたのは、ムハンマドとその息子たちが兵を集め、再起する事態を防止するためであった。
 ムハンマドは死ぬ前に、長男で後嗣と定めていたウスラクを廃し、末子のジエラール・ウツディーンを後嗣とした。ジエラールが勇猛で、モンゴル軍に対抗しうる将器であると認めたためであった。
 ヂエベとスベエティの軍団は、ムハンマドが死んだあとも西方への進撃をやめず、数千キロの道程を経て、ロシアからクリミア半島に進出、ブルガリアまで侵略して、一二二四年にようやく遠征を終えた。
 彼らはチンギス・ハーンから西方の偵察を命じられていたので、はるか黒海からロシア平原に入り、数万のモンゴル軍を率い、旋風のように各地を劫掠して引き揚げたのである。
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■チンギス・ハーンの死

<本文から>
 チンギス・ハーンは瞑目する直前、枕頭にはべる肉親、諸将を見渡して告げた。
「儂が死んだことは、柩がケルレン河の帳殿に着くまで隠し通せ。チンギスがいなくなったことを知れば、襲ってくる敵の数がまたたく間に増えるだろう。故郷へ戻ってのち、喪を発表せよ」
 西夏王リケンは、チンギス・ハーンと約束した日に、実子のように扱ってくれるだろうと思いこみ、わずかな護衛兵を連れてモンゴル軍本営に参向したが、哀れな羊のように殺されてしまった。
 チンギス・ハーンの柩は近衛隊に守護され、数多い山河を越え、砂漠を横切り、北方へむかった。柩に従う軍隊は、途中で出会ったすべての人間を殺しつくした。訃報が四方の敵に知られることを防ぐためであった。人間だけではない。馬、牛、羊、犬、猫などの動物もすべて殺した。
 冥界でチンギス・ハーンに仕えさせるためである。
 柩がケルレン河畔の帳殿に戻ったのは十月、モンゴルの山野は落葉の時期に入り、風景は影を深めていた。正妻ビュルテ夫人の帳殿に柩が着いてのち、はじめて喪が発表された。
 柩はクラン妃、イエスイ妃、金国公主岐国の帳殿に移された。チンギス・ハーンの訃報がモンゴルのすべての支配地に通報されると、皇子、公主(姫)、将軍たちが駆けつけてきた。もっとも遠隔の地であるカスピ海北方の領地からきたジョチの息子が、大帳殿に到着したのは、三カ月後であった。
 告別の葬儀はジョチの息子がくるまで、三カ月にわたりおこなわれた。日に一度、参会者全員が大帳殿に集まり、笑泣の礼をするのである。
 このあと、チンギス・ハーンの遺骸はオノン、ケルレン、トゥウラの三つの河の源であるブルカン岳に埋められた。その後、陵墓のまわりの木を伐採することが禁止されたので、三筋は密林となり、人が立ち入ることもできなくなってしまった。
 チンギス・ハーンは、モンゴル人の風習に従い、わが墳墓の位置を消してしまったのである。
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■モンゴル軍の生活や戦い方

<本文から>
  草原というが、地表下数メートルは永久凍土層であるところが多く、夏の陽は肌を焼き、冬はいてつく寒気に耐えねば生きてゆけない。
 口にするものは、羊、牛、馬などの獣類の肉、乳、発酵酒である。路舵もいる。モンゴルの男たちは肉と酒を腹いっぱいつめこんだのち、一週間、十日ほどを水のほか何ひとつ口にせず、重い労働に耐えうる体力を誇りにしていた。獲物をしとめると、食えるだけ食い、つぎの獲物を幾日も待つ、野獣と変わらない生活である。
 冬、厳しい寒気にさらされる獣は、放牧地で大半が凍死する。そのなかで頑健なモンゴル馬は生き残った。
 モンゴル人は文字を知らない。彼らは即興詩を口ずさむ。戦い、狩猟、はげしい恋について、低く響きのこもった声音で、休息しているとき、馬上にいるときに唱うのである。彼らの記憶は獣の動作、鶴や雁の飛ぶ姿、星の位置、山や川の形に満たされている。
 それらは、目印ひとつない、地平線が丸く見えるだけで、何の目標もない海のような草原を渡り歩くために、必要不可欠なものであった。
 彼らは戦闘能力において、都市の住民、農耕民とくらべ、かけはなれて優れていた。
 モンゴル高原は、彼らがサルタウル人と呼ぶイラン系商人である、ウイグル隊商の目的地であつた。
 彼らはパミールからシルクロードを越え、西方から運んできたさまざまな商品をモンゴルに売りこみにくる。ウイグル隊商の男たちは、彼らがむかう諸国の政治、軍事情勢につき、問われるがままに詳細に語った。
 チンギス・ハーンは、彼らのいうことが、自分がおもむかせた間諜の報告と合致していることを知り、信頼を深めた。チンギス・ハーンの間諜は、商人、乞食に化け、遠くボヘミア(現在のチェコ)辺りまで潜入していた。
 チンギス・ハーンが幾度かの戦いに勝ち、モンゴルの王者となると、掠奪した品物と交換して兵器、貴族の好む著移品を隊商が大量に売りこむ。
 チンギス・ハーン以下、モンゴル貴族たちは、戦勝のたびに大量の金銀を椋奪してくるが、草原では使い道がなかった。サルタウル人はそれを借りうけ、他国で高利貸をおこない、モンゴル人と利益を分かちあった。
 ウイグル隊商から聞く西方の情報と、彼らから買いとる軍需資材によって、モンゴル軍の戦力は強大になっていった。
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■ユーラシア大陸を制覇したモンゴル帝国の軍勢

<本文から>
  テムジンが九歳のとき、父イエスゲイがタクール族に毒殺され、一族、部下のすべてが離散して、残ったのは幼い子供たちを中心とする家族だけになってしまった。
 テムジンが成長し、亡父の旧部下たちを呼び集め、かつての声望を回復するまで、無事に生きのびるのは至難の業である。
 実際に、タイチウト族がテムジンを殺しにきて捕えられたが、テムジンは奇蹟のように逃れ、生きのびた。
 テムジンは強運によって命を全うしたとしかいいようのない転変を経験してゆく。彼の括頭の機縁は、妻ビュルテの父、オンギラト族の大首長デイ・セチェンの協力である。
 テムジンは、モンゴル草原の最有力部族であるケレイト部族のオン・ハーンを頼ったことで、覇者への階段を昇っていった。オン・ハーンはかつてイエスゲイ・バァトルに窮地を救ってもらった旧恩があるので、テムジンを扶けたが、テムジンはしだいに強大となり、あまたの競争相手を蹴落とし、ついにモンゴル部族のハーン(王)に選ばれた。チンギス・ハーンの出現である。
 彼はタタール族、タイチウト族、やがてはモンゴル草原の全部族を征服し、金国から西夏、西遼を制圧し、さらには西域からロシア、ヨーロッパに至る、前人未到の大モンゴル帝国を建設するに至った。
 チンギス・ハーンは、すべての覇者がそうであるように、はじめは目前の敵を倒すことに全力を集中する。ついであらたな敵に立ちむかうとき、士気をふるいたたせる方法を知っていた。
 草原の大小の頭領たちは、敵に対して残酷であるように、部下に対しても残酷であった。我欲をほしいままにして、とどまるところを知らない。そのため領内の部下、人民は不安に駆られることになる。
 チンギス・ハーンは、部下の論功行賞をおこなうに際し、私情をさしはさむことなく、我欲をつつしみ、戦利品の分配を惜しまなかった。
 捕虜の処刑、部下の処罰にも寛大であったが、いったん刃向かった敵はすべて誅戟した。戦わず降参した者は許したが、主君を売って恩賞に預かろうとした敵兵は、その場で殺した。
 帰伏する者に宗教の自由を認めるので、戦わずに降る者が多い。チンギス・ハーンの軍勢がホラズム以西のヨーロッパに至る戦闘で、猛獣のように待猛であったのは事実であるが、伝えられるような見境のない殺我がおこなわれたとヨーロッパ人が記すのは誇張であるといわれている。
 チンギス・ハーンは、最初は父の失地回復という小さな念願でさえ、生涯のうちに達成できるか否か分からないと思っていたであろうが、前途に突然突破口がひらけ、眺望がひろがると、彼の身内に眠っていた天与の才能があいついで眠りから醒め、とどまるところを知らない発展を遂げた。
 彼は戦術の天才であった。広大な範囲に展開し、伝騎を走らせ連絡をとりつつ、幻影のようにあらわれては消え、後ろ向きでも射ることのできる短弓の連射を浴びせるモンゴル軍団に、野戦で勝てる敵はいなかった。
 ホラズムの職人たちにつくらせた攻城兵器に突き崩されない城郭はなかった。
 チンギス・ハーンの率いるモンゴル帝国の軍勢は、ユーラシア大陸を所狭しとあばれまわり、至るところに彼らの遺伝子を残して去っていった。
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