津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          千葉周作・下

■周作は門人に惜しみなく技の秘密を教えた

<本文から>
  半年ほどの間に、加賀、薩摩、尾張、津などの江戸勤番の士分が、幾人かずつ入門してきた。さらに品川町界隈の町人が五人、七人とまとまって弟子入りした。
 周作は彼らにわけへだてなく、熱心に教える。新参の門人たちは、最初周作の巨大な体を見て、どのように手荒く扱われるであろうかと怖れるが、案に相違したやさしい態度に安心した。
 よその町道場では、師範は自らの流儀は形稽古によって教えるが、しない稽古では肝心な要領を、なにひとつ教えようとしない。たやすく教えては、門人が強くなり、手におえなくなるためであった。
 「剣術に強くなりたければ、毎日道場へ通い、熱心に稽古するのが第一だ。数多く相手に当り、体で打ちあいの呼吸を覚えるのだ」
 師範としては、門人がむやみに打ちあいを重ね、上達するのに時日をかけてくれれば、月謝を多くとれるので、好都合であった。
 門人たちは懸命に稽古をするあいだに、師匠の遣う技を見よう見まねでなぞり、しだいにしないの扱いを覚えるのだが、師匠に追いつく腕前になるのは、いつのことかおぼつかない。
 周作は門人には、惜しみなく技の秘密を教えた。身の丈六尺の周作は、眼光桐々とかがやき、人を威圧する風貌をそなえている。
 左右の手を下げると、指先が膝につくほど長く、体を曲げ手足を四方にひらけば、二畳間の四隅に達する。
 力は人並みすぐれ、厚さ六寸の碁盤を片手に持ち、五十匁蟻燭の炎を煽って消すほどであった。
 彼は門人たちに、自分が長年月をかけ、体得してきた秘訣をことごとく伝授してやっても、師匠として彼らに技偶のうえで追い越されるようなことはないと、自信があった。
 周作は教える。
 「しないの打ちあいばかりやっていても、剣理を学ばねば上達は遅くなるばかりだ。儂は修行のあいだは、床に就いたのちも剣理の工夫を怠らず、夜もろくに寝たことがなかったほどである。強敵に打ち負けた日などは、なにゆえに負けたるかを考え、終夜一睡もせなんだのじゃ。いまの世間を見れば、技はまずかなり出来る者でも、剣の理を工夫することを怠っておる。そのためひとところで足踏みし、なかなかに上達せぬのじゃ」
 周作は弟子たちに、返し技を手にとって教えた。
▲UP

■一刀流の「三の挫き」

<本文から>
  周作は山田をひと眼見るなり、この男を制圧できる者は定吉のほかにはないと判断した。周作のような腕前になると、相手が道場に立っただけでカ傾がおよそ分るものであった。
 一刀流には、他流試合をおこなうとき、相手に勝つ法として「三の挫き」という手を使う。
 ひとつは太刀を殺し、ひとつは業を殺し、ひとつは気を殺すことである。
 太刀を殺すとは、敵の太刀を左右から払い支えて、切先を立てさせないことである。切先が立たなければ、敵は打ちこみをきめられず、狙いが不正確なまま無駄な動きをくりかえす。
 業を殺すとは、敵がなかなかの巧者であるとき、二段突き、突きかけ、諸手突きなどを連発し、相手の体勢を崩して手元に入りこみ、あらたな展開を誘いだすことをいう。
 手元へ迫ると、足境、体当り、捻じ倒しをつづけさまにおこない、敵の威力を封じて業を出させない
 気を殺すとは、獅子奮迅のいきおいで仕掛けて、相手の気力を殺ぎ、挫けさせることであった。
 定吉は三の挫きにかけては、周作に劣らない巧妙な手腕をそなえている。
▲UP

■周作は良き師匠であった

<本文から>
 試合をかさね、一度も屈しない周作は、技に脂がのりきっているといえた。
 彼は他流の者の、どのような嵌め手にも乗じられない。天下に類のない力倆は、門人たちによって世間に喧伝され、入門者はさらにふえるばかりであった。
 文政七年に、周作夫婦は待ちかねていた子宝にめぐまれた。玉のような男児である。周作は奇蘇太郎と名づけ、成長を待ちわびる。
 文政八年、周作は玄武館を神田お玉ケ池に移した。弟定吉が諸方を探してまわり、見つけてきた土地であった。
 神田誓願寺前、通称お玉ケ池にある一橋下総守の屋敷と、儒者東条琴台屋敷のあいだに、旗本の広大な屋敷跡があるのをみつけ、買いいれたのである。
 資金は豊富であるので、道場は破風造り玄関、八間四面と、柳生道場と同規模の大道場を建て、江戸市中の道場主たちをおどろかせた。
 新道場に入った者は、その威容に昇おされる。周作は、ふえるばかりの門人たちに、道場発足の当初とかわらない態度で、懇切に指導した。
 よその道場で三年かかる修行を、玄武館では一年でできると評判になった。
 剣術修行において、良師を得ることがいかに大切であるかは、稽古の苦労を重ねた者でなくては分らない。
門人を分けへだてせず、すべて平等にかわいがるが、人を教える才がなく、ここという要点をとりあげ、至らない点に気づかせることが出来ない師匠、というのはまだいい。門人は師匠の腕が立ちさえすれは、自然に見習い、わずかずつでも上達してゆくものである。
最悪の師匠とは、門人のうちからつけとどけのすくない者、気性のわれに合わない者に、邪険にふるまい、無視しょうとする人物である。
 このような剣術家は、意外に多かった。腕が立つというだけで、修養ができていないのである。
 性格の偏った師匠は、気にくわない門人が、かわいがっている門人と試合をするとき、検分役に立つと、片手落ちの審判をする。
 一方のしないが、相手をしたたかに打っても知らぬ顔をするし、他方のしないが空を切っても、「一本あり」と勝ちを宣するぐらいの芸当は、朝飯まえである。
▲UP

■大道場になっても初心者に稽古を気やすくつけて適切な助言を与えた

<本文から>
  玄武館の敷地内には、五十人が宿泊できる内弟子の寄宿舎も設けられていた。周作の収入は、なまじの大名では及ばないほどになった。
 玄武館に内弟子として住みこんでいるのは、尾張、加賀、薩摩、熊本、津、柳川、福山、水戸など錚々たる大藩の家来であった。
 周作が道場に立つと、門人たちは緊張して、深山のように静まりかえった。
 周作は初心者と鍛練を積んだ古参者をわけへだてせず、教授に手間のかかる初心者をも熱心に地稽古で鍛えあげてやった。
 門人が千人を超える大道場では、初心者が師匠に稽古をつけてもらう機会など、めったにない。
 まず目録免許をうけた者からうえの、高段者だけが、しないを交えることを許されるのである。
 だが周作は、初心者に稽古を気やすくつけてやり、その長所と欠点を敏感に観察し、適切な助言を与えてやった。
 彼は守りを専一に心がける門人に諭した。
 「お主のように、相手のしないを受けとめることばかりを考えておっては、技の伸びることがないぞ。敵を倒すカのない死に技ばかりを身につけるようになり、事にのぞんで太刀技を生かせぬことになろう」
 周作はまた、撃剣上達の域に達するのに、二つの道があると説いた。
「上達には理より修行に入る者と、技より入る者とがある。技を重んじる者は、打ちあいにのみ熱中し、ひたすら相手に勝とうとする。理を重んずる者は、試合に敗けたときはなぜ敗けたかを考え詰め、ついに相手の機先を制する呼吸に思い至るものであ告技にのみ重きをおく者は、打ちつ打たれつの稽古を長年月かさねたうえで、ようやく技に進歩をみるが、理を考える者は、上達がすみやかである」
 試合における心得も、詳細をきわめていた。
 身体長大な相手には、どのように対すればよいか。隙のない相手を動揺させ、隙をつくる手段。連戦するときの構えの変えよう。相上段、相青眼、相下段のときの仕掛けかた。間合いのとりかたなどを、門人が納得できるまで、ていねいに教えこむのである。
「他流試合では、かるがるしく前へ出てはいかん。間合いをひらき、相手が出てくれば退き、退けば出る。そうして隙を見せなければ、言口がかりで立ちあっても打ちこまれることはない」
 またいう。
「相手がわが面へ打ってくれば、それを受け払いつつ、胴、面へ返す。小手を打ちこまれたなら、その剣尖を打ちおとし、突くか面を打つ。突いてくれば払って面か小手を返す。守りと攻めの技は数多いが、この三手にさえ熟達しておれは、いかような強敵とも充分に対応できるものである」
▲UP

■藩への仕官を断り道場経営を念願し続けた

<本文から>
  周作は選士がしないを提げて立ちあがる姿を見ると、およそ腕前の見当がついた。相手は周作としないを交しただけで、すでに圧倒されている。
 玄武館では気性のはげしい者でも、周作に稽古をつけてもらうとき、容易に打ちこめず、叱咤されようやく掛かってゆくほどである。
 穏やかな性格の周作であるが、身辺に相手を寄せつけない気圧がある。
 水戸藩の選士たちは、周作とむかいあうと、どこから打ちこんでいってよいのか迷ってしまう。
 十年、十五年と稽古で練りあげた男たちが、しないの振りようを忘れたように、無理な立ちあいぶりをみせた。
 周作は、木偶人形を打ちこむように、自在にしないをふるい、全勝した。
 斉昭は周作の悠々と余裕にみちた態度に打たれた。彼はその場で周作を誘った。
「どうじや、当家の剣術指南役になってはくれぬか」
 周作は平伏して返答する。
「ありがたき御諚を拝し、わが身の栄誉これに過ぐるものはござりませぬが、手前は卑しき野人にござりますれば、行儀などもわきまえず、なにかと不調法にてござりますれば、仕官の儀は平にご容赦下されまするよう、願いあげ奉りまする」
 周作は玄武館経営を生涯の念願としている。
一藩の指南役になる気などは、毛頭なかった。
斉昭は了承した。
「なるほど、天を翔ける鷲は、籠に入りたがらぬわい」
 彼は周作を外臣として、月々二十人扶持を給することにした。
▲UP

■出世したときの心境

<本文から>
 (陸前の片いなかから出てきて、しない一本でここまで名をあげれば、生涯をふりかえって何の悔いるところもない。ありがたいと思えばその通りだが、過ぎてみれば夢のようにはかないものであったという気もする)
 周作は、人間が一生努力して追いもとめる出世とは、何であったのだろうと考える。
 それをつかみたいと望むうちは、確固とした到達点と思えたのに、出世してみると何のことはない、ろくに固いものも噛めない老人となっただけのことであった。
 (人間というものは、目先の欲につきうごかされてはたらき、さて成果を得てみてはじめて、手にしたものがさほどの値うちもないと分るのだな)
 周作は、なすべきことをすべてしとげたのちは、いつ世を去ってもかまわないと、恬淡とした心境になった。
 玄武館は次男栄次郎が主体となり、三男道三郎が兄をたすけ、繁栄させていってくれかだろうと、周作は見込みをつけている。
 栄次郎の天稟は周作もおどろくほどで、海保帆平の力量をはるかに凌いでいた。
▲UP

メニューへ


トップページへ