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<本文から> 淡路島と紀州雑賀の浜とのあいだの水道には藍碧の海波が北東風に吹かれ、皺をきざんでいる。
飛魚が海面をこするように飛び去り、ハマチがはねる。
(しばらく、和歌の海ともお別れじゃ)
監物は舷側の垣立にもたれ、はるかな葛城山から加太岬へつらなる山なみへ眼をやる。鼻さきに赤トンボが一匹、海風にさからい浮かんでいた。
監物は大明へ渡るのではない。種子島へゆくのである。種子島は大隅の南端から七里はなれた海上にある。
紀州と種子島の緑は、ふるくからつながっていた。紀北から紀南へかけての海岸線は、鋸の歯のようなリアス式の凹凸がつらなり、良港が多い。
海岸の住民は船をあやつり、漁撈、交易をふるくからおこなってきた。熊野海賊、湯浅衆、雑賀衆はいずれも交易により、莫大な収益を得ており、その裏付けによって強大な武力を養っている。
彼らは秋の短い日数のあいだに吹きつのる季節風を利用し、黒潮に乗って南下すれば、途中で高知へ寄港するだけで、種子島へは四、五日の日数で到着できるのを、いつの頃からか知った。
種子島は、明国、琉球からの交易の中継点であった。根来衆、雑賀衆は、種子島で異国の文物に触れ、交易をおこなうようになる。
雑賀衆と根来衆が、とりわけ密接に種子島との交流を保っていたのは、ふるくから砂鉄製錬についての技法を、学んでいたからである。
種子島と紀州の紀ノ川筋、能野川筋では、砂鉄が豊富にとれるという共通の条件があった。
紀ノ川筋では古代の神事儀礼にも形をとどめているほど、古代製鉄の歴史が長かった。
古代製鉄の砂鉄の採掘は露天掘りであったが、中途から比重選鉱法にかわった。すなわち採掘場の上方に貯水池を掘り、その水を一気に流し、採鉱した花崗岩を押し流すのである。
山走りと称する急傾斜の水路を落下する岩石は、土石と砂鉄とに砕け、重い砂鉄は水路の下方に設けられた階段状の沈積池に沈み、土石だけが下流に流れ去る。
これを鉄穴流しといい、はじめは種子島でおこなわれていたものである。
紀州雑賀、根来から種子島へ交易に出向いた者がそのさまを見ておどろく。
紀州では、砂鉄を採取するのに、露天掘りである「鉄穴掘り」をおこなうのみであった。
種子島では、砂鉄を製錬するのにも、古来からの露天でおこなうものはなく、家屋を構築し、炉を設ける方式をとっていた。 |
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