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<本文から> 伊那街道を北上しつづけ、平谷、浪合と山桜のほころびる山中を進み、駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)に達したとき、信玄はついに息をひきとった。
「甲陽軍鑑」に記す。
「一、四月十一日未の刻(午後二時)より信玄公卿気相悪しくござ候て、御脈ことのほかはやく候。
また十二日の夜亥の刻(午後十時) に、口中にはくさ出来、御歯五つ六つ抜け、それより次第によわり給う。
すでに死脈うち申し候につき、信玄公御分別あり。各譜代の侍大将衆御一家にも人数を持ち給う人々ことごとく召し寄せらる。信玄公仰せらるるには、六年さき駿河出陣まえ、板坂法印申し候は、膈というわずらいなりといいつる」
信玄は天正元年四月十二日、駒場の山中で息をひきとった。
遺体は駒場長岳寺にひきとられ、荼毘に付された。
信玄は死にのぞみ勝頼を枕頭に呼び寄せ、つぎのように遺言した。
「儂は家督を継いでのち、隣国他郡を攻め伏せ、一事として望みを達しえないことはなかった。だが妄執の随一は、帝都に族旗を立てえなかったことじや。
儂がみまかりしことが露顕いたさば、怨敵どもはかならず時節をうかがい蜂起いたすにちがいなし。それゆえ三、四年がほどは喪を秘し、分国の備えを堅固にして国を鎮め、義兵を撫育し、おのしが一度なりとても都に攻めのぽってくれたなら、たとえ死んでも歓喜いたすぞ」
信玄の享年五十三歳。大勝大夫兼信濃守、従四位下。法名は恵林寺殿横山玄公大居士であった。
勝頼、家老衆は遺言により喪を秘し、遺骸は甲府躑躅ケ崎館に安置した。
信玄死去の情報を心.ちはやくつかんだのは、飛騨の江間輝盛である。江間は上杉謙信と同盟していたが、信玄の死後十三日を経た四月二十五日、つぎの書状を謙信に送っている。
「一、信玄の儀、甲州へ御納馬候。然るあいだお煩いの由に候。また死去なられ候とも申し成り候。いかがか不審に存じ候」 |
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