津本陽著書
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          武田信玄 下

■信玄死去

<本文から>
伊那街道を北上しつづけ、平谷、浪合と山桜のほころびる山中を進み、駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)に達したとき、信玄はついに息をひきとった。
 「甲陽軍鑑」に記す。
 「一、四月十一日未の刻(午後二時)より信玄公卿気相悪しくござ候て、御脈ことのほかはやく候。
 また十二日の夜亥の刻(午後十時) に、口中にはくさ出来、御歯五つ六つ抜け、それより次第によわり給う。
 すでに死脈うち申し候につき、信玄公御分別あり。各譜代の侍大将衆御一家にも人数を持ち給う人々ことごとく召し寄せらる。信玄公仰せらるるには、六年さき駿河出陣まえ、板坂法印申し候は、膈というわずらいなりといいつる」
 信玄は天正元年四月十二日、駒場の山中で息をひきとった。
 遺体は駒場長岳寺にひきとられ、荼毘に付された。
 信玄は死にのぞみ勝頼を枕頭に呼び寄せ、つぎのように遺言した。
 「儂は家督を継いでのち、隣国他郡を攻め伏せ、一事として望みを達しえないことはなかった。だが妄執の随一は、帝都に族旗を立てえなかったことじや。
 儂がみまかりしことが露顕いたさば、怨敵どもはかならず時節をうかがい蜂起いたすにちがいなし。それゆえ三、四年がほどは喪を秘し、分国の備えを堅固にして国を鎮め、義兵を撫育し、おのしが一度なりとても都に攻めのぽってくれたなら、たとえ死んでも歓喜いたすぞ」 
 信玄の享年五十三歳。大勝大夫兼信濃守、従四位下。法名は恵林寺殿横山玄公大居士であった。
 勝頼、家老衆は遺言により喪を秘し、遺骸は甲府躑躅ケ崎館に安置した。
 信玄死去の情報を心.ちはやくつかんだのは、飛騨の江間輝盛である。江間は上杉謙信と同盟していたが、信玄の死後十三日を経た四月二十五日、つぎの書状を謙信に送っている。
 「一、信玄の儀、甲州へ御納馬候。然るあいだお煩いの由に候。また死去なられ候とも申し成り候。いかがか不審に存じ候」
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■勝頼は武威を内外に認めさせようとした

<本文から>
 勝頼の生母は信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘諏訪御前である。彼は信玄第四男として生れたが、武田の家督を相続すべき資格のない庶子であったためであろう、生年が知られているが、月日は残されていない。
 彼は永禄五年(一五六二)、十七歳で伊那高遠城代の地位に就く。伊那地方の支配者となったのである。だが永禄八年(一五六五)八月、信玄嫡男義信の謀叛が露顕したため、急遽後継者としてたてられた。
 勝頼は同年十一月、信長の姪である苗木(遠山)勘太郎の娘を室に迎え、二年後に嫡男信勝をもうけた。
 信玄が勝頼を後継者として遇するようになるのは永禄末年頃からであった。勝頼は常に信玄と行動をともにし、信玄にかわって領内に下知状を発するようになる。
 だが武田の一家衆、譜代衆のあいだには、勝頼が信玄の跡目を継ぐことについて釈然としない者が多かった。
 「勝頼殿は亡き太郎さまとはちがう。太郎義信さまご存命なれば、伊那の郡代におとどまりなされしお人じゃ。いかにもご器量に不足ありと存ずるぞ」
 家中に不満の声があるのを勝頼は知っている。
 彼は武将としてすぐれた器量をそなえ、勇敢であった。体躯は人なみすぐれ、合戦にのぞみ陣頭に雄姿をあらわすと士卒は勇みたった。
 信玄在世の頃のように全軍団の結束が緊密でないとはいえ、その戦力は織田、徳川にとって恐るべきものである。
 甲斐、信濃、飛騨、越中、西上野の軍勢二万五千余を率いた勝頼は、まず高山城に襲いかかり、一気に攻め落す。
 さらに苗木、串原、香野、今見、阿寺、孫目、大居、鶴居、瀬戸崎、振田、中津川、幸田、妻木、大羅、千駄帰の十五城を奔馬のいきおいで攻略し、ついで明智城を攻めた。
 明智城は恵那郡西南の盆地にあった。信長は嫡男信忠とともに明智城救援にむかったが、武田勢に前途をさえぎられ引き適し、明智城は陥落した。
 勝頼は攻撃のいきおいをゆるめず東美濃一帯を劫掠したのち、四月には三河に入り、足助、安城、田代、浅谷、八桑らの諸城を攻撃し、足助城を陥れ下条信氏を入れた。
 武田勢はあたるべからざるいきおいである。織田、徳川の戦力を無視するかのような傍若無人の行動であった。
 いったん甲府に戻った勝頼は、つぎの攻撃目標を高天神城にさだめた。
 高天神城は遠江小笠郡の標高百三十二メートルの山上にある堅城で、元亀二年(一五七一)三月に信玄が二万余の兵をもって攻撃したが、ついに抜くことができなかった。
 勝頼は信玄でさえ陥落させられなかった難攻不落の城を攻め、わが武威を内外に認めさせようとした。
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■勝頼は織田の鉄砲の威力を検討していた

<本文から>
 だが決戦のまえの戦評定で、賛否さまざまの議論がたたかわされたであろうことは想像できる。勝頼のとった方針は無謀としかいいようがなかったからである。
 対戦のまえに、勝頼は織田、徳川勢の鉄砲の威力について検討していた。織田勢は連子橋から北方の山裾へおよそ二十町ほど馬防柵をつらねている。
 勝頼は織田勢の装備する鉄砲が千挺ほどであるとの情報を入手していた。種子島筒の有効射程は二百メートル、人体必中射程は百メートルである。
 筒口から鉛弾と硝薬をいれ、柳杖でつき固め装填するのに二十秒から二十五秒かかる。甲斐駒が甲胃武者を乗せ、起伏の多い地形を走る速度は時速三十キロメートル前後である。
 百メートルを走るのが十二秒ほどであるので、二百メートルの有効射程外から突撃しても、一発を射たせ二発目を装填しているあいだに馬防柵の際まで達し、斬りこめる。
 折柄梅雨の悪天候で、設楽原は連日の霧雨に草木は露を帯び、湿気は濠々とたちこめている。
 鉄砲の硝薬は木炭、硫黄、硝石の粉末を混合したものであるが、いずれも吸湿性がつよく、雨中ではもちろん雨の晴れ間でも射撃は困難をきわめるであろうと勝頼と幕僚たちは考えていた。
 信長の率いる五畿内鉄砲衆の中核である根来衆の射撃能力が、いかに高度なものであるかを武田の将領たちは知らない。
 長篠に集結した武田勢一万五千人のうち、精強を誇る騎兵は四千騎に達していたといわれる。
 勝頼が長篠城周辺に布陣せず、寒狭川を渡って見通しわるく狭陸な設楽原で待ちうける織田、徳川勢に立ちむかった理由は謎とされている。
 騎馬隊が威力を発揮できる場所は平原である。長篠城周辺は開豁地で、武田勢は機動力を発揮できるが、設楽原は狭苦しく小丘陵の重なる谷間のような地形である。
 そのような所で三段に馬防柵をつらねて待つ三倍の故にむかってゆくのは、馬場信春らが判断した通り敵の思う置にはまりにゆくことになる。
 勝頼がそのような愚挙をあえてしたのはなぜか。信長が狭い設楽原で待ちかまえていても、武田勢が攻めかけてこなければ合戦はなりたたない。
 信長は謀略で勝頼をおびき寄せたのである。
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■武田勢は上下ともに不敗の自信が仇となった

<本文から>
 長篠合戦のまえ、武田勢の士気は天をついていた。天正元年の秋、勝頼が遠州へ出陣したとき、軍勢の最後尾に小者十五人が挟み竹をかついで行軍していた。
挟み竹とは、衣服を二枚の板で覆い、そのうえを竹で挟んだもので、彼らは侍衆の衣裳を運んでいたのである。
 そこへ突然徳川の騎馬武者三酪があらわれ、草履取り一人を突き伏せた。附近に武田の軍兵はいなかった。このようなとき、甲宵に身をかためておらず、脇差しか帯ていない小者たちは逃げ散るのが当然である。
 襲われた場所は久能と掛川の中間で、徳川の本拠地浜松城の間近であった。だが武田の小者たちは逃げず、立ちむかって騎馬武者一騎を打ちおとし搦めとって生捕りにし、他を追い払った。
 このようなことは異例であった。戦場往来をかさね太刀打ちの技をこころえた騎馬武者が、一騎でも十五人の小者を追い散らすのは苦もないことである。
 ところが武田の小者たちは彼らを圧倒する強みをあらわした。徳川方に負けるはずがないと思いこんでいたのである。
 この出来事を知った馬場信春、内藤修理、山県昌景、高坂弾正らは、武田勢の前途を危惧したという。
 「かようのことがあるのは、よくよく勝頼御先手が強きがゆえにてあるら。信玄公のご威勢かさなり、われらの軍力が頂きにさしかかっておるに違いねえら。頂きより先は下るよりほかはなし。危うきことにごいす」
 このような挿話があるほど、武田勢は上下ともに不敗の自信を抱いていた。
 そのため設楽原で、刀槍を交えるまえに銃弾で強剛な軍兵が薙ぎ倒されたとき、武田勢は織田徳川勢の戦法を卑怯と見た。
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■長篠の戦いは慢心が敗北の原因

<本文から>
 勝頼は三重の馬防柵を構え、鉄砲数千挺をそろえ待機する敵に誘いこまれ、無謀な突撃をくりかえした。
 信長が三千五百挺の鉄砲隊の射撃で武田椅馬隊を潰滅させようとしても、馬防柵を攻撃させなければ戦法を生かすことはできない。信長は武田勢に設楽原へ攻めいってこさせるための、さまざまの謀略活動をおこなっていたに違いないが、勝頼が敵の注文に乗せられたのは慢心していたためである。
 勝頼は戦えばかならず勝つと慢心していた。彼は信玄も落せなかった徳川の属城高天神城を陥落させ、また美濃の明智城をも陥れた。
 彼は信玄も及ばないほどの武将の資質が自らにそなわっていると錯覚していた。
 また勝頼は信長、家康よりもはるかに年齢が若いのに、戦術においては保守的であった。当時鉄砲の威力は全国に知れ渡っていた。紀伊雑賀衆が鉄砲隊の威力を買われ、傭兵隊として活躍したのは永禄年間からである。勝頼は自軍に鉄砲を装備させ、さらに鉄砲製作工場をいとなむことが可能であったのに、新兵器の活用を怠った。
 勝頼が甲府へ戻ってのち、設楽原敗戦の噂がひろまった。なにしろ戦死者の数がおどろくばかりに多い。
 そのうえ、合戦では後方にいてめったに討死することのない信玄以来の宿将が、ほとんど骸を長篠の野にさらした。
 山県昌景、馬場信春、内藤昌裕豊、原昌胤、真田信網、甘利信廉、土屋昌次らが揃って討死を遂げ、敗戦の原因を糾明しようとしても、合戦直前の軍議に列した将領はほとんどが生きていない。
 勝頼が甲府へ戻ったのち、城下には死者を弔う読経の声、鉦の音が絶えまもなくつづいた。
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■勝頼は親戚衆の圧力にも屈服せざるをえなくなっていた

<本文から>
  親戚衆は信玄死去のあと勝頼が屋形の地位についたことに、内心不満を宿していた。勝頼は他に相続人がいなかったため信玄のあとを継いだが、庶腹の四男に過ぎない。
 このため穴山信君らは勝頼を屋形と敬うことなく、朋輩のように見ていた。
 勝頼は有力な親戚衆と外様の侍大将たちとの対立を統一する力量を持っていなかった。
 「弾正の申し条も分るが、いまとなっては信豊、信君に腹切らすのは無理じゃ」
 勝頼は敗戦の大失態に動揺していた。
 表面では強気をよそおっているが、不敗をもって聞え、法螺貝、押し太鼓を鳴らせ鶴翼の陣形で攻め寄せれば、いかなる敵をも動揺させた武田勢が、鳥威しとさげすまれていた新兵器の鉄砲攻撃のまえに瓦解した。
 合戦の相手方が名を聞くだけで戦慄した椅羅星のような侍大将が数十人、織田、徳川の弱兵に討たれ現世から消え去ったという事実がひろまるにつれ、武田軍団の扶桑随一といわれた巨大な声価は消滅していった。
 「こんどの勝頼は信玄とは違うぞ。信長の仕懸けし罠のうちへ、おのれより陥りにいでしというではないか。武田の運もそろそろと尽きかけてきたようじゃ」
 このような評価が近国の侍たちのあいだでささやかれる。
「長旅で負けしは、親戚の者どもが勝頼の下知を聞かざりしゆえと申すぞ。勝頼は四男ゆえ、崇められておらぬのであろう。家中の者どもが派をたてしは滅亡の兆しじゃ。勝頼も荒武者にて知られし男だが、国を治むる器量はないわ。命知らずにて聞えし名和無理之介宗安、飯尾弥四右衛門助友、薙刀の名人にて世に知らぬ者なき波合備前も、鉄砲にあたり世を去りしとか。いずれも張子の虎のごとき哀れなることにてありしよ」
 甲州流軍学に従った騎馬攻撃は、もはや時代に遅れた戦法で、畏怖すべき威力をそなえてはいないとの噂がひろまるばかりである。
 勝頼は親戚衆の圧力にも屈服せざるをえなくなっていた。信玄は生前、能力のある外様の侍大将たちを重用していた。
 「戦は賢こき大将がやるものだぞ。血筋大事にては合戦取りあいができぬだわ。誰なりとも才あれば一軍を任して仕損じはねえら」
 信玄は家柄血統に固執したがる親戚衆を戦力の中核としていなかった。
 実力のある侍大将たちを側近に置き、軍評定をひらいて戦術、戦略を立案した。
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■勝頼の統率力が弱いために家臣団内部の暗闘が明るみへ噴き出て滅亡

<本文から>
 傍らに仕える上揩ヘ短刀でわが喉を突き通し、北の方の足にとりすがって死ぬ。
勝頼は生き残った侍たちとともに湧き出るように数をふやす地下人どもを相手に戦っていたが、織田勢が到着すると力尽きた。
滝川一益の部隊が押し寄せたとき、勝頼は具足櫃に腰をおろしていた。伊藤伊右衛門永光という侍が勝頼に斬りかかると、勝頼は立ちあがり刀を構えようとしたが、疲労困憊しており何のはたらきも見せずに斬られた。
 兵粮にも窮し、飢えていたといわれる。
 織田信長は三月五日に安土城を進発し、十四日に浪合(長野県下伊那郡浪合村)で田野から届けられた勝頼父子の首級を実検し、翌日飯田の町で梟首した。
 彼は十三日に柴田勝家あてに、甲斐の戦闘が終了したと書状で知らせている。
 「武田四郎勝頼、武田太郎信勝、長坂釣閑、典厩(武田信豊)、小山田はじめとして、家老の者ことごとく討ち果し、駿、甲、信とどこおりなく一篇に申しつけられ候あいだ、気遣いあるべからず候」
 勝頼の従兄弟信豊は虚病をつかい参戦することなく、信州小諸城の城代下曽根某を頼って落ちのびたが、殺された。
 小山田信茂も降伏したが斬られた。
 信長は四月二日に上諏訪を立ち甲府躑躅ケ崎館に入り七日間滞在ののち、十日に甲府を出立し駿河へむかった。
 信長は甲府滞在中に恵林寺を焼き、武田家重臣たちを斬った。「甲陽軍鑑」にはつぎのように記されている。
 「信長甲府へ御著あり。春中より計策の廻文題し給う。武田の家の侍大将衆皆御礼を申せとありてふれらるる。
 その二月末、三月始時分に、むたと信長父子の文を越し給うに、あるいは甲州一国をくれべき、信濃半国をくれ候わん、あるいは駿河をくれべきなンどとの書状をまことに思い、勝頼公御親類衆をはじめ皆引き籠り給うが、この触れを実と思い御礼に罷りいで、武田方の出頭人の跡部大炊、諏訪にて殺さるる。
 遭遥軒は府中立石にて殺さるる。小山田兵衛、武田左衛門佐、小山田八左衛門、小菅五郎兵衝この四人は甲府善光寺にて殺さるる。
一条殿は甲州市川にて家康に仰せつけられ殺さるる。出頭人秋山内記は高遠にて殺さるる。長坂釣閑父子は一条殿御館にて殺さるる。典鹿父子は小室にて殺さるる。大熊も伊奈にて殺さるる。(中略)高坂源五郎も川中島にて殺さるる。山県源四郎も殺さるる。駿河先方衆も勝頼公御ためを一筋に存じたるをば成敗なり。甲信駿河侍大将いずれも家老衆おおかた殺さるる」
 信長は二月末から三月初旬にかけ、信忠と連名の書状を武田の重臣たちに送り、内応すれぼ過大な恩賞を与えると調略をおこなっていたのである。
 武田の諸侍は信長の甘言を信じこみ、勝頼に背いて破滅させたが、自らもあとを追うこととなった。
 扶桑随一といわれる戦力を誇った武田騎馬兵団を率いる勝頼は、織田、徳川、北条を甲信の山岳に迎え撃ち、激戦を展開してしかるべき条件のもとに和睦する機会をえらぶことができたのに、なすところもなく家中が四分五裂して自壊の道を辿るよりほかはなかった。
 勝頼の統率力が弱かったために、信虎、信玄以来の家臣団内部の暗闘が、一挙に明るみへ噴き出たための滅亡であった。
 勝頼とともに死をえらんだ家来は、「景徳院牌子」によれば僧二人、士三十三人、女子十六人、計五十一人である。
「甲斐国志」では士四十六人、侍婦二十三人等、主従合計七十二人となっており、実数は分らない。
 大廈の崩壊はあまりにも脆かったといわざるをえない、武田家の終末であった。
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