津本陽著書
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          武田信玄 中

■信玄と謙信の一騎打ち

<本文から>
「信玄の周囲を御中間衆頭、二十人衆頭たち大豪の者二十人ほどが取りかこみ、襲いかかる者どもを斬りはらう。中間頭原大隅守虎吉が信玄を助けるため必死に青貝柄の槍をふるった。
 原は信玄に太刀を打ちおろす政虎の乗馬に槍をつけたが、槍先ははずれ馬の尻を叩く。
 政虎の馬はおどろき、竿立ちになって走り去った。
 信玄は肩先を二カ所傷つけられた。
「川中島五箇度合戦之次第」には、つぎのように記している。
「武田方勝ちに乗って追い討ちにつかまつり候。信玄勇みよろこびて旗を進められ候ところに、大塚村に備えを立て申し候越後勢宇佐美駿河守走行二千ばかり、横槍に突きかかり、信玄旗本を御幣川へ追い込れ候ところへ、越後の渡部越中守五百余駆けつけ、(中略)武田の人馬河水に流るる輩、また討たるる者数を知らず候。謙信旗本勢もとって戻し、信玄旗本を討ちとり申し候。
 信玄も三十騎ばかりにて川を渡し、引退き候ところを謙信川中へ乗りこみ、信玄を二太刀切りつけ申し候。
 信玄も太刀をあわせ、戦いに申され候を、近習の武田の侍ども謙信をなかに取りこめ候えども、謙信切打払い、なかなか坂付くべきようこれなく候。
そのけ均に信玄と謙信と間切れいたし、押しへだてられ候。
 その刻、謙信へ懸り候武田近習の侍十九人、切りつけられ候。そのみぎりは謙信とは知らず、甲州方にては越後侍荒川伊豆守にて候と取り沙汰つかまつり候。
のち政虎(謙信)と承り、討ちとむべきものを残り多しと皆々申し候由。
 信玄も御幣川を渡り、生萱山土口をこころざし、先陣後陣ひとつになりて敗軍にて候」
武田側の資料には、このように政虎が信玄に一騎討ちを挑んだと記されているが、上杉側の資料には、この件についての記載はすくない。
「越佐資料」のうち、「澹白斎日記」には、つぎのように述べられている。
「同(天文)廿三年八月十八日、川中島二三日ノウチ十八度ノム最、十一度ハ謙信勝利、六度ハ信玄勝利(一度分不足ナリ)、信玄旗本ヲ御幣川へ追イコミ、川中ニテ馬上ニテ謙信、信玄卜渡り合イ、太刀ウチナリ。
 サレドモ水深キタメ勝負ナシ」
 ここには天文二十三年とされているが、内容は永禄四年の大合戦についての記述である。政虎と信玄はやはり河中で斬りあったことになっている。
 「上杉年譜」の記録は永禄四年秋九月十日に信玄が雨宮の渡しを越えようとするとき、襲撃されたとする。
 「荒川伊豆守馳セ来り、信玄卜見スマシ、三太刀マデ討ツトモ徹ラズ。信玄太刀ヌキ合スル間モナク、団ヲ以テ受ケハズス。
 スデニ危ウカリシトコロニ、従兵原大隅守卜云ウ者、槍サシノバシ、進ミ出ル。
 伊豆守ガ馬ヲ丁卜打テバ、馬オドロキ飛ブウチニ、信玄忽チ運ヲ開ク。
 サレドモ薄手ヲ負ウテ進退安カラズ。ナオサラ大将討タサジト従兵集リ来、身ヲ以テ隔テヌレバ、武威モ強カリケン、危急ノ命ヲ免レ(略)」
 「上杉年譜」は上杉家の正式な記録であり、ここにいつわりを記載するはずはない。
 これを信じるならば、信玄に斬りかけたのは政虎の家来荒川伊豆守である。
 上杉側では総大将の政虎が信玄に三太刀斬りつけ、手癖を負わせたのであれば、武勇の誉れとなるため事実を隠しはしないであろう。やはり荒川伊豆守の手柄であったとみるほうが正しいように思える。
 信玄が故に斬りつけられ負傷したのは事実である。彼は政虎自身に斬りつけられれたとするほうが、政虎配下に斬られたとするよりも面目がたつと考え、そのように吹聴したのかも知れない。
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■信玄の軍法

<本文から>
 はじめの子供は成人いたせしのちも、心がまえに劣っておるゆえ、どれほど戦場往来をいたすとも、物事の見分けができず、行儀も乱れがちにて進退を誤ること多き者となるぞ。
 かようの者はよき家来も、忠言を受くべき朋友も持てぬのだぞ。
 これにひきかえ、頭を垂れ、耳をすましおる小童も、武勇すぐれし侍になるのじゃ。またすこし笑いなどして話を聞きおる小童も、のちには武勇すぐれし侍になるであろうが、あまりに才知にすぎて傲りたかぶり、人より憎まるるほどの者になるぞ。
 また、座を立ちて去ぬる小童は、のちに十中八、九は臆病者となるに違いなし」
 信玄は日頃から大将の機略について語ることが多かった。
 大将は軍陣に出たとき、弱敵、小敵、強敵、破敵(撃破すべき敵)、随敵(服従させるべき敵)など、さまざまの敵に応じて、武略、智略、計略を巧みに用い、勝利を獲得しなければならないという。
「武略とはおのれが領分の城々をよく構え、陣を正しく張ることを申すぞ。智略とは相手によりてさまざまに攻めくちを変えることを申す。
 よき大将がおらぬまま、策を用いてこなたの隙をつかんといたす敵には、こなたよりも策を用うべし。
 よき大将が正面より挑みかかるときは、こなたは策を用ゆる様子を見せつつ正面より応ずべし。
 よき大将もおらぬに正面より仕懸けてくる敵には、一気に取り懸け突き崩すのだぞ。
 智略と申すは、敵に仕懸けてみて動きを探り、兵を進める中途を攻め、伏奸を使うて殺し、敵中に忍びを入れ、内応する敵の侍によるなどして敵の陣営を乱し亡ぼすことだぞ。
 また計略と申すは、知恵のすぐれし出家、町人、百姓などを敵の領分につかわし、敵の弱点を調べて攻めることじゃ。
 敵の家来のうち邪欲つよき者を寝返らせるのも計略だ。
 武略、智略、計略を十分にわきまえこれを用い勝つことがすぐれし軍法と申すぞ」
 信玄は大将たる者が守らねばならないつぎの五つの条件があるという。
一、大将は家来の能力を正しく判定し、家来の得意とするところを知ったうえで、はたらかせねばならない。
一、侍はもとより、諸奉公人をも含め、手柄の上中下をよく見分け、鏡に映るがごとく公平に評価し、えこひいきなく賞罰をおこなわねばならない。
一、手柄をたてた武士には、ふさわしい恩賞を与えねばならない。
一、大将は家来のすべてに慈悲をかけねばならない。
一、大将が事にあたり、あまりに怒ることがすくないときは、家来は油断をする。
  油断があらわれると自然に思慮ある家来も法度軍律にそむくようになり、上下ともにその害を受けることになる。
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■長男の太郎義信の自害

<本文から>
 その年の春、太郎義信は自害した。「甲陽軍鑑」にはこのように記述しており、義信が子の年(永禄七年)から座敷牢に入れられたとしている。
 だが、磯貝正義氏の研究によれば、永禄八年六月の「甲州二宮造立帳」の冒頭に、「参千疋 義信(花押)」の寄進高が記されており、このときまで幽閉されていなかったことが立証されるという。
 義信が謀叛を企てたのが真実であったか否かは不明である。
 永禄十年(一五六七)十月十九日、義信は三十歳を一期として死ぬ。遺骸は東光寺(甲府市東光寺町)に葬った。法号は東光寺殿青山良公大禅門である。
 死因は自害であるとも、病死であるともいわれる。
 「東光寺三和尚法語」という住職の記録によれば、義信は久しい幽閉のあいだに病いを得て、武人の暮らしを棄てた。時は至り、父子親ありの情にたがわず、死の直前に多年の謹慎をゆるされ、事理もおのずからあきらかとなった。
 義信は臨終に先立ち、その夕、長禅寺福恵老師に生死の因縁を問い、大悟して死んだという。
 信玄は義信が死ぬ二カ月前、家中将士の動揺を防ぐため、甲斐、信濃、上野の将士二百三十七人から起請文を受けとり、それを信濃小県郡下之郷大明神(上田市塩田町生島足島神社)に納めた。
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■合戦の勝敗は六、七分ほど勝てばよい

<本文から>
 信玄は家来の大身、小身によらず、手柄次第で褒美を与えたので、家中諸臣に不満、うしろめたさを持つ侍はいなかったといわれる。
 信玄は大身と小身の家来の手柄がおなじである場合は、小身者を優先して貯めた。そうしたのは大身の者は日頃優遇されているからであるとした。
 「勝負の事、十分を六分七分の勝ちは、十分の勝ちなり」
 信玄の慎重堅実な性格を示す言葉である。
 合戦の勝敗は十分のところを六、七分ほど勝てばよい。とりわけ大合戦のときはこの心掛けでとりかからねばならない。
 八分の勝ちでさえ勝ち過ぎである。九分、十分の勝ちはやがて味方大敗のもとになると信玄はいう。
 リアリストの信玄はわが生涯の起伏をも見通していたようである。
「弓矢の嘩取り様の事、四十歳より内は勝つように、四十歳より後は負けざるように」
 合戦において、四十歳まではひたすら勝つように心掛け、四十を過ぎてのちは負けないよう心掛けるべきであるというのである。
 敵を押しつめつつも、思案工夫をめぐらし位語にしてゆくほどの、二心の余裕を持たねばやり損じると、信玄は着実な前進を心がけていた。
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■信玄は家来どもの心情を理解し、長所短所を見きわめようとする

<本文から>
 信玄は自らの領国を見廻りに出かけたとき、諸村の住民の暮らしぶり、山の竹木の茂りようなどを詳しく見覚えておき、知らぬふりをして家来たちにその様子をたずねる。
 詳しく返答する者がいると、かさねて聞く。
 「そのほうは、儂の申すところへは再々参りしか。それとも俵の供をいたせしときに見覚えしか」
 信玄はいつ何事を聞いても詳細に返答する者を取りたて、他国へつかわす使者として用い先方の様子をうかがわせ、国境の状況をも調べさせた。
 また家来どもの心情を理解し、長所短所を見きわめようとするのも、日頃から常に心がけることであった。
 近侍する者の親が病床に就くと、その様子を詳しくたずねる。孝心の篤い者は内心がおのずと言葉にあらわれる。親に冷淡であれば、病状について詳しく知らない。
 信玄は日頃からいっていた。
 「金は火をもって試み、人は言をもって試みると申す。いろいろと問ううちに、言葉によって本性を探ることができるものでねえらか」
 信玄は傍に仕える奥近習と言葉を交すうちに六人を撲り分け、「耳聞き役」に定めた。
 彼らの役目は家中の侍。他国からきて奉公する新参者の手柄の真偽を聞きだすことである。
 手柄はたしかに立ててはいるが、しばしば偽りを口にする考またよき友人を持ちながら無頼の性格である者。
 大身の侍あるいは出頭衆といわれる歴々の者ばかりに礼を尽していても、朋輩のあいだでは平気で無礼をはたらく者。酒をすごしたとき酒乱となる者。
 諸事について、人に立腹させるふるまいをする者。武具の手入れを怠る考内福で諸道具をしきりにもてあそぶが、武芸には心をいれず熱心でない者。
 このようなさまざまの家来どもの行状について耳聞き役に調べあげさせ、その善し悪しを述べさせるのである。
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■信玄に敗れた家康

<本文から>
  家康は風雪のなか、闇にまぎれ後退するうち、しばしば危地に立たされた。
 信長の甥大橋与右衛門は十二月二古に家康への使者として岐阜を出立した。
 二十二日の日没後に三方原に到着する。西北の風がはげしく吹きつのり、雪霧交り飛びかい眼もあけられない有様で、東西の見分けもつかない有様であった。
 このとき与右衛門の馬が流れ矢に当り倒れた。与右衛門はやむなく徒立ちで合戦の物音のする辺りへむかう。
途中犀ケ崖の傍に甲冑をつけた武者がひとり立っている。敵かと身構えたが仕懸けてくる様子もないので徳川の侍であろうとその前を通り過ぎかけた。
「待て、そのほうは織田の手の者か」
「いかにもさようじゃ。御辺はいずれの仁かのん」
 与右衛門は足をとめ、油断なく刀の柄に手をかける。
「儂は家康じゃ」
 与右衛門は驚く。徳川方の総大将がひとりでいるのである。
 「これはお見それいたし、ご無礼の段恐れいってござりまする」
 彼が信長の口上を伝えようとしたとき、家康が叫んだ。
 「敵がきたぞ。母衣をはずせ」
 与右衛門は母衣布をはずし、籠をおろし踏みやぶるうち、武田勢が襲いかかってきた。
 薄闇のなかで乱闘がはじまった。
 与右衛門の従者吉田市蔵、妻木彦八は敵刃を受け討死をした。
 与右衛門が家康とともに斬りたてられ危ういところへ、家康旗本の松平蔵人が数騎の従者を従えあらわれ、かろうじて命をつないだ。
 地形にうとい武田の騎馬武者は、犀ケ崖の地際になだれ落ち、与右衛門は家康を奉じ浜松をめざし逃れた。
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