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<本文から> 「信玄の周囲を御中間衆頭、二十人衆頭たち大豪の者二十人ほどが取りかこみ、襲いかかる者どもを斬りはらう。中間頭原大隅守虎吉が信玄を助けるため必死に青貝柄の槍をふるった。
原は信玄に太刀を打ちおろす政虎の乗馬に槍をつけたが、槍先ははずれ馬の尻を叩く。
政虎の馬はおどろき、竿立ちになって走り去った。
信玄は肩先を二カ所傷つけられた。
「川中島五箇度合戦之次第」には、つぎのように記している。
「武田方勝ちに乗って追い討ちにつかまつり候。信玄勇みよろこびて旗を進められ候ところに、大塚村に備えを立て申し候越後勢宇佐美駿河守走行二千ばかり、横槍に突きかかり、信玄旗本を御幣川へ追い込れ候ところへ、越後の渡部越中守五百余駆けつけ、(中略)武田の人馬河水に流るる輩、また討たるる者数を知らず候。謙信旗本勢もとって戻し、信玄旗本を討ちとり申し候。
信玄も三十騎ばかりにて川を渡し、引退き候ところを謙信川中へ乗りこみ、信玄を二太刀切りつけ申し候。
信玄も太刀をあわせ、戦いに申され候を、近習の武田の侍ども謙信をなかに取りこめ候えども、謙信切打払い、なかなか坂付くべきようこれなく候。
そのけ均に信玄と謙信と間切れいたし、押しへだてられ候。
その刻、謙信へ懸り候武田近習の侍十九人、切りつけられ候。そのみぎりは謙信とは知らず、甲州方にては越後侍荒川伊豆守にて候と取り沙汰つかまつり候。
のち政虎(謙信)と承り、討ちとむべきものを残り多しと皆々申し候由。
信玄も御幣川を渡り、生萱山土口をこころざし、先陣後陣ひとつになりて敗軍にて候」
武田側の資料には、このように政虎が信玄に一騎討ちを挑んだと記されているが、上杉側の資料には、この件についての記載はすくない。
「越佐資料」のうち、「澹白斎日記」には、つぎのように述べられている。
「同(天文)廿三年八月十八日、川中島二三日ノウチ十八度ノム最、十一度ハ謙信勝利、六度ハ信玄勝利(一度分不足ナリ)、信玄旗本ヲ御幣川へ追イコミ、川中ニテ馬上ニテ謙信、信玄卜渡り合イ、太刀ウチナリ。
サレドモ水深キタメ勝負ナシ」
ここには天文二十三年とされているが、内容は永禄四年の大合戦についての記述である。政虎と信玄はやはり河中で斬りあったことになっている。
「上杉年譜」の記録は永禄四年秋九月十日に信玄が雨宮の渡しを越えようとするとき、襲撃されたとする。
「荒川伊豆守馳セ来り、信玄卜見スマシ、三太刀マデ討ツトモ徹ラズ。信玄太刀ヌキ合スル間モナク、団ヲ以テ受ケハズス。
スデニ危ウカリシトコロニ、従兵原大隅守卜云ウ者、槍サシノバシ、進ミ出ル。
伊豆守ガ馬ヲ丁卜打テバ、馬オドロキ飛ブウチニ、信玄忽チ運ヲ開ク。
サレドモ薄手ヲ負ウテ進退安カラズ。ナオサラ大将討タサジト従兵集リ来、身ヲ以テ隔テヌレバ、武威モ強カリケン、危急ノ命ヲ免レ(略)」
「上杉年譜」は上杉家の正式な記録であり、ここにいつわりを記載するはずはない。
これを信じるならば、信玄に斬りかけたのは政虎の家来荒川伊豆守である。
上杉側では総大将の政虎が信玄に三太刀斬りつけ、手癖を負わせたのであれば、武勇の誉れとなるため事実を隠しはしないであろう。やはり荒川伊豆守の手柄であったとみるほうが正しいように思える。
信玄が故に斬りつけられ負傷したのは事実である。彼は政虎自身に斬りつけられれたとするほうが、政虎配下に斬られたとするよりも面目がたつと考え、そのように吹聴したのかも知れない。 |
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