津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          武田信玄 上

■勝頼は戦闘では信玄を上回るが時代を見抜く先見カに欠けていた

<本文から>
  謙信は永禄四年の川中島合戦ののち、身命を捧げて戦った家来たちに有名な血染めの感状を与えた。
 信玄は功績に応じて所領を与えるのみであった。実利を重んじる性格があらわれていておもしろい。
 謙信、信玄はともに神仏の存在を信じていた。謙信は自らを昆沙門天の化身と思いこんでいたし、信玄は神仏に合戦の勝利をみちびかせようとした。
 勝利を祈願して、実際に勝てば社殿仏閣を造営し、寺社領を寄進するが、敗北すれば社殿などを焼きはらうと神仏を威嚇するのである。
 中世の花といわれた二人の精神内容が超現代人ともいうべき信長の明晰な現実認識といささかくいちがう点が、興味をひく。
 私は信玄とその子勝頼の事蹟を調べてみて、彼らの時代における武田の戦力が想像以上に戦国群雄のうえに屹立した存在であったのを知り、おどろくばかりであった。
 武田勝頼は実際の戦闘では信玄をはるかにうわまわる勇敢な行動をあらわしたが、時代の推移を見抜く先見カに欠けていた。
 やはり信玄とは器がちがったといわざるをえない。
 兵員二万五千人、軍馬一万頭を擁し、四倍の敵を撃破しうる戦力があるといわれた武田軍団も、長篠設楽原合戦ではその戦法が時代に遅れていた弱点を露呈した。
 いったん時代の進歩にとりのこされた者のうえには、陽は二度とあたらないのが政治経済の原則である。
 勝頼は勇猛な侍大喝軍兵の聯刀を発揮しうる手段を開発しなかったために、新横軸をひらいた信長長に倒されたのである。
 甲斐武田の最期のだまされたような脆さは、生存競争の縮図を見るようで、いまもかわらない人生のさまをあらわしているといえよう。 
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■信虎追放

<本文から>
  海野平の海野棟網と支族の真田幸隆は、上野国平井(群馬県藤岡市)に逃れ、南洋元直、矢沢綱頼ら滋野一族はおおかたが降伏した。
 信虎は六月に甲府へ凱旋した。
 彼は六月十四日、駿河の今川義元をたずねた。帰陣ののち、ひさびさに娘と婿に会おうという、保養かたがたの忍びの旅であった。
 晴信の家来鞠井青白斎政武の記した「高白斎記」に、つぎのように記されている。
「六月小丙辰十四日己巳、信虎公御立チ駿府へ御越シ。甲府ニオイテ十六日各々存ジ候」
信虎の近臣でさえ、二日後に主君の駿河行きを知ったほどであった。
 信虎は重臣板垣信方、飯富兵部(虎昌)にすすめられ、駿河府中へ出向いたが、そのまま二度と甲府へ戻らなかった。
 晴信がただちに足軽勢を駿遠国境の河内境へつかわし、街道を封鎖したからである。
「甲陽軍鑑」によれば、晴信は信虎の供をして駿河へ出向いた侍たちの妻子をことごとく捕え、人質とした。
 このため信虎のもとに踏みとどまる家来は一人もおらず、すべて甲斐に逃げ帰ってきた。
 信虎は晴信が板垣信方らの重臣たちと仕組んだ無血クーデターの計略に乗せられ、駿河へ追放されたのである。
 信方、兵部らは、今川方の重臣太原雪斉、岡部常憲らとあらかじめ連絡をとり、信虎を駿河に留めおく手筈をととのえていたといわれる。
「塩山向岳禅庵小年代記」に、信虎追放につき記されている。
「信虎平生悪逆無道なり。
国中の人民牛馬畜類ともに愁悩せり。
 然るに駿州大守義元、信虎の女を娶り、これに依り辛丑六月中旬、駿府にゆく。
 晴信、万民の愁を済わんと欲し、足軽を河内境に出しその帰道を断ち、位に就き国々を保つ。
人民ことごとく快楽の咲いをふくむ」
「王代記」も簡単に触れている。
「武田信虎六月十四日駿州へ御出。十七日巳刻晴信屋形へ御移。一国平均になる」
諸記録には信虎追放を惜しむ声がなく、晴信のクーデターを褒めたたえるのみである。
 二十一歳の晴信は四十八歳の信虎を追放し、甲斐の国主大名となった。
 信虎追放の真相は分らないが、およそ三つの理由が推測されている。
第一は信虎が晴信を廃嫡し、信繋に相続させようとしたためであるとする。
第二は信虎が残虐の行い多く、民衆の怨みを買っており、飢饉あいついで餓死者続出する領国経営の失敗が覆いがたくなったため、家臣からの反揆を回避するにはクーデターをとらざるをえなくなったとする。
信虎はそれまで武力で制圧し従属させてきた甲斐の国人勢力に疎まれ、孤立の状態に追いこまれていたのである。
第三は、「甲陽軍鑑」人物伝にあり、今川義元の謀略によるものとする説である。
 義元はかねて甲斐併呑の機をうかがっていたが、信虎は舅にあたり、道義のうえからも討つことができないうえに、武勇すぐれた豪傑である。
 そのため晴信を甲斐国主に取りたてれば、野望実現の機もあると考え、晴信に謀叛をすすめ、信虎を駿府へ引きとった。
真相はいずれであるか分らないが、信虎追放のもっとも重要な理由である「悪行」悪逆「無道」のふるまいについて、信虎在世当時の文書には、具体的な例がまったく述べられていない。
 近世はじめになって、「甲陽軍鑑」で乱行について語られる。
信州伊那で八十過ぎの信虎が孫勝頼と会い、伝家の宝刀左文字を抜きはなち、振りまわした。
「この刀では五十人に余る者を手討ちにいたせしが、そのうちには、ここに侍る内藤修理(昌豊)と名乗る者の兄もおりしことであった。儂は袈裟がけに斬って棄てたのじゃ」
 信虎が自ら過去の乱行を口にしているが、これはフィクションであろう。
江戸期正徳、享保年間に出された「武田三代軍記」のなかではじめて信虎が妊婦の腹を裂いたとか、愛猿を誤殺した家来を切腹させたという行状が語られる。
 このような事情をいろいろ考えてみると、信虎が追放された最大の原因は、やはり領国経営の失敗であったといえる。
 彼の治政は国内統一につぐ領土拡大の合戦がつづくなかで、家来、領民に苛酷な負担をかけざるをえなかった。
 農民たちは合戦がはじまれば雑兵として駆りだされ、死傷者も続出した。
 甲斐の国内に敵が侵入してくれば、田畑は踏み荒され、荒廃してしまう。
 大軍の移動、情報収集に必要な、伝鳥制度、狼火台の強化にも、大勢の百姓が従事しなければならない。
 戦費を調達するための、各種の税金も課されるうえ、毎年天災、疫病、飢饉がつづく。このような国内の不満を爆発させないための唯一の手段が、信虎追放であった。
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■晴信は景虎とはちがい、実利を重んじる性格

<本文から>
 晴信は景虎とはちがい、実利を重んじる性格であった。
彼は他国への侵略をはじめるまえに、謀略をかさね、敵の重臣を寝返らせる。家中の士には勝利の暁に手厚い恩賞を与えると約する。
 勝ちを得たときには約束を実行する。
晴信は家来に実利を与えることによって、士気を振起した。彼は戦略に熟達し、合戦に際し、再起を望めないほどの打撃を与えることはなかった。
信濃経略にあたっても、降伏した小領主は許して先手衆として用いる。戦功をたてた場合は征服した相手の所領を分け与えた。
 大勢力である小笠原、村上らは討滅する方針を変えない。
 彼は孫子の兵法を実戦に活用した。
長尾景虎との戦いに及んでも、その鋭鋒をいったんは避けて退却し、機を見てふたたび進出する硬軟両様の作戦を用いていた。
景虎上洛の留守中、晴信は信濃の占領地域の地侍を懐柔し、調略を用いて北信濃征服の手筈をととのえている。
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