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<本文から>
謙信は永禄四年の川中島合戦ののち、身命を捧げて戦った家来たちに有名な血染めの感状を与えた。
信玄は功績に応じて所領を与えるのみであった。実利を重んじる性格があらわれていておもしろい。
謙信、信玄はともに神仏の存在を信じていた。謙信は自らを昆沙門天の化身と思いこんでいたし、信玄は神仏に合戦の勝利をみちびかせようとした。
勝利を祈願して、実際に勝てば社殿仏閣を造営し、寺社領を寄進するが、敗北すれば社殿などを焼きはらうと神仏を威嚇するのである。
中世の花といわれた二人の精神内容が超現代人ともいうべき信長の明晰な現実認識といささかくいちがう点が、興味をひく。
私は信玄とその子勝頼の事蹟を調べてみて、彼らの時代における武田の戦力が想像以上に戦国群雄のうえに屹立した存在であったのを知り、おどろくばかりであった。
武田勝頼は実際の戦闘では信玄をはるかにうわまわる勇敢な行動をあらわしたが、時代の推移を見抜く先見カに欠けていた。
やはり信玄とは器がちがったといわざるをえない。
兵員二万五千人、軍馬一万頭を擁し、四倍の敵を撃破しうる戦力があるといわれた武田軍団も、長篠設楽原合戦ではその戦法が時代に遅れていた弱点を露呈した。
いったん時代の進歩にとりのこされた者のうえには、陽は二度とあたらないのが政治経済の原則である。
勝頼は勇猛な侍大喝軍兵の聯刀を発揮しうる手段を開発しなかったために、新横軸をひらいた信長長に倒されたのである。
甲斐武田の最期のだまされたような脆さは、生存競争の縮図を見るようで、いまもかわらない人生のさまをあらわしているといえよう。 |
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