|
<本文から> 弥助はゆっくりとひろがってくる酔いに、身を任せつつ、暮れがたの空を眺めた。
「こんないなかで、おまきと百姓でもしておれば、ほかに望むことはないよ」
おまきが笑声をひびかせる。
「江戸で名うての剣術遣いが、いなかに引きこもろうと思ったって、望むがままにさせてはくれないさ。あんたはどうせ、練兵館が放さないよ」
「じゃ、俺は練兵館に飼い殺しにされるというわけか」
「まあそっだろうね。強い道場破りがきたときは、あんたでなきや、荒ごなしにやっつけることが、できないものねえ」
弥助も、鼻を鳴らし冷たい笑みをみせる。
練兵館で、彼に敵う者はひとりもいなくなっていた。
歓之助と稽古試合をするとき、弥助はわざと敗けるのだが、弥九郎の長男新太郎に対するときも、同様の気遣いをしなければならなくなっていた。
新太郎は弥助の内心を見抜いて、彼が道場に出ているときは、稽古を見あわせる。ご隠居先生に遠慮しているため、弥助を遠ざけるふるまいを目立つほど見せないが、嫌っているのはたしかであった。
「大先生とご隠居先生がいらっしゃる間は、俺も練兵館にいられるが、新太郎旦那が二代目を継いだら、外へ出ることになるだろうな」
「でも、あんたは練兵館をやめたって、ゆくところがないじゃないか」
「まあそうだな、しかし嫌がられるところに、いることもできなかろう。そのときは、在方の道場を出稽古にまわることにしよう。お前を連れての二人旅で、流れ歩こうじゃないか」
「いいねえ、お前さんとならどこで野垂れ死にしたって、かまわないよ」
麦畑を渡る風が、あおくさいにおいを運んでくる。 |
|