津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          修羅の剣(下)

■練兵館に飼い殺しにされた弥助

<本文から>
 弥助はゆっくりとひろがってくる酔いに、身を任せつつ、暮れがたの空を眺めた。
「こんないなかで、おまきと百姓でもしておれば、ほかに望むことはないよ」
 おまきが笑声をひびかせる。
「江戸で名うての剣術遣いが、いなかに引きこもろうと思ったって、望むがままにさせてはくれないさ。あんたはどうせ、練兵館が放さないよ」
「じゃ、俺は練兵館に飼い殺しにされるというわけか」
「まあそっだろうね。強い道場破りがきたときは、あんたでなきや、荒ごなしにやっつけることが、できないものねえ」
 弥助も、鼻を鳴らし冷たい笑みをみせる。
 練兵館で、彼に敵う者はひとりもいなくなっていた。
 歓之助と稽古試合をするとき、弥助はわざと敗けるのだが、弥九郎の長男新太郎に対するときも、同様の気遣いをしなければならなくなっていた。
 新太郎は弥助の内心を見抜いて、彼が道場に出ているときは、稽古を見あわせる。ご隠居先生に遠慮しているため、弥助を遠ざけるふるまいを目立つほど見せないが、嫌っているのはたしかであった。
 「大先生とご隠居先生がいらっしゃる間は、俺も練兵館にいられるが、新太郎旦那が二代目を継いだら、外へ出ることになるだろうな」
 「でも、あんたは練兵館をやめたって、ゆくところがないじゃないか」
 「まあそうだな、しかし嫌がられるところに、いることもできなかろう。そのときは、在方の道場を出稽古にまわることにしよう。お前を連れての二人旅で、流れ歩こうじゃないか」
 「いいねえ、お前さんとならどこで野垂れ死にしたって、かまわないよ」
 麦畑を渡る風が、あおくさいにおいを運んでくる。
▲UP

■大試合でわざと一本を敗けたことを若道場主に責められる

<本文から>
 練兵舘にもどると、新太郎の不興げな批評を聞かねばならなかった。
「お主が、あの道場で松沢に勝ったのはよいが、一本とられ、相打ちというのは、日頃の腕前にも似合わぬ無様なものだな。もし五本勝負で三本をたてつづけにとれば、容堂公はお主を指南役にとりたてて下さったかも知れぬのに、惜しいことをしたものだ。あのお方はご自分でも毎朝スッパ抜きを三千回もなされるほどの武芸好きだから、かわいがってくれたであろうに」
 新太郎の冷えた眼差しは、わざと一本を敗けてみせたのであろうと、弥助の胸のうちを見すかしているようであった。
 「いつもながら未熟な手のうちをお見せして、はずかしいかぎりでございます」
 弥助は頭に手をやり、恐れいってみせる。
 新太郎は、師範代たちのまえで弥助をやりこめようと、しつこく責めた。
 「お主はたしかに稽古ではつよい。他流試合にきた者をあしらうのも、上乗の竹刀さばきだ。それにもかかわらず、大試合ではよく失策をくりかえすが、まさかわざとしていることでもなかろうが」
 「さようなことはございません。私の腕がいたらぬためで、恥ずかしいことです」
 弥助には大名家の師範を望む気はなかった。
 彼は、道場での朝稽古を終えたあと、塾生たちと語りあうことさえ、すくなくなっていた。剣術の手さばきについて、彼らに聞かれれば、弥助は相手が納得のゆくまでていねいに教えるが、心中では、醒めていた。
 「侍どもは無学な百姓あがりの俺は、つまるところ剣術職人だと思っている。道場では師範代だが、彼らに親しみをみせたところで、無駄なことだ」
▲UP

■大名家指南役より、知らぬ他国をうろつきまわる生きかたを好む弥助

<本文から>
 弥助は自分の将来に何の希望をも抱いてはいなかった。ひとは皆、いつかは死ぬ。お里、おまきもいってしまった。どうせ朝露のような一生ではないか。
 ご隠居先生が、いつか弥助に教えてくれた。
「生があるといい、死があるというが、人間の魂は死生にかかわらずあるのだ。それが仏性というものだよ。人は本来仏なのだ。それに気づかず、生に執着して五欲の海に浮きつ沈みつしておるのが、煩悩にとらわれた俺たちの一生だよ」
 弥助には、その言葉が忘れられない。
 (人間の魂が死生にかかわらず不滅であるのなら、お里、おまきの魂もどこかにいる。俺は現世には未練はない。一時もはやく魂のすむ永劫の大海とやらへいきたいものだ。おつたも望むなら、連れていってやりたい)
 弥助は酒を呑みつつ、この世を去る楽しい夢想に身をまかす。
 「お前さんのような人が、私をたすけにきてくれるなんて、ほんとに考えもできなかったよ。運というのは分らないものだね」
 つた吉が、盃を幾つかかさねただけで眼もとを染め、つぶやくようにいう。
 「なぜ、そう思うんだ」
 「まあ考えてもごらんな。江戸でいちばんの撃剣の名人で、あちこちの宿場をまわって剣術を教えれば大金が手にはいるお前さんが、なぜ私を女房にしたいんだろう。ふしぎじゃないか」
 弥助は肩をゆすって笑う。
 「そんなことがあるものか。俺はお前に惚れたんだ。だからいっしょにいるだけさ」
 「だってさ、私は飯盛女だったのに、こんな女といっしょになれば、お前さんの出世のさまたげになるだろう」
 「俺が出世か、笑わせるんじゃない。出世したいなら、こんな事深いいなかを回ってはいないぜ。死ぬ気になれば、読み書きも覚えられるだろう。そうなれば百石、二百石の扶持をもらい、奥方と呼ばれる女房をめとって広い屋敷で暮らせるんだ。
 大名家撃剣指南役の肩書きつきだから、立派なものだ。だが、俺にはそんな暮らしはむかないよ。おえらがたに追従をし、大名重役の息子たちを手加減しながら教えるような、息のつまる暮らしはまっぴらごめんだ。それより、旅をかさね、知らぬ他国をうろつきまわるいまの生きかたのほうが、俺にむいているよ」
 弥助は旅先の街道で、蒼然と暮れてゆく夕空を眺め、漂泊のおもいにうたれるのを、好んだ。
 彼は人づきあいが、嫌いであった。練兵館で、二代目弥九郎の新太郎から疎んぜられるのも承知のうえで、権門の子弟に稽古をつけるのを拒んでいる。
▲UP

■塾生たちには好意を寄せていたが、彼らと異なることも気付いていた

<本文から>
 彼は練兵館では新太郎をはじめ、古参の師範代に嫌われていたが、塾生たちには好意を寄せられている。
 塾生の総勢は三十人をこえていた。藩から諸費用を賄ってもらい、剣技の習熟にはげんでいる連中であったが、一足の下駄を幾人もで履くような、貧乏暮らしをつづけていた。
 万延元年三月三日、桜田門外の変のおこった朝、塾頭渡辺昇と塾生の長州藩士大田市之進が現場を見物に出かけた。
 二人とも下駄がなく、雪のなかをはだしで歩いていった。現場では乱闘は終っていたが、雪は鮮血に染まり、腕、指、耳果などが刀槍、諸道具にまじって打ちすてられている。渡辺たちは、死人、怪我人が吊台にのせられ、運ばれてゆくさまをしばらく見ていたが、そのうち、二人はすぐ傍に下駄が山のようにころがっているのに気づいた。
 それは現場の様子を検分にきた諸家中の家来が、帰途をいそぎ下駄をぬぎすて、はだしで雪中を駆けもどっていったためであった。
 渡辺たちは、りっぱな黒塗り下駄を拾ってはき、さらに五、六足ずつ拾いあつめ塾へのみやげにした。
 このように金銭には窮していたが、いずれも時勢に通じた有為の士であった。
 「これからは、世のなかがしだいにおもしろくなってくるぞ」
 と、彼らが話しあうのを聞くと、弥助はわが体内に流れる血が、彼らとはちがうことに気づかぬわけにはいかなかった。
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■勇士組に加わったが脱退する

<本文から>
 弥助は篤信斎のすすめに従い、勇士組に加わった。砂村別壁での鉄砲調練ののち、練兵館門下生の歓送をうけ、江戸を出てきたのである。
 京都の小川亭に宿泊するうち、弥助は勇士組を脱退することにきめた。中山道をとっての半月の旅のあいだに、このうえ新太郎の指図を受けたくないと、考えたためであった。
 隊士のうちに、弥助に同調する者が二人いた。三戸谷一馬と高部弥三雄である。いずれも剣の力量はたしかなものであった。三人はともに、上司に媚びへつらうのをいさぎよしとしない、独立独歩の行動を好む性格であった。
 三条縄手の小川亭奥座敷で、昼寝から醒めて風呂にはいった弥助と三戸谷は、湯につかって今後の身のふりかたを、話しあう。
 七つ半(午後五時)に長州藩河原町屋敷へ出向けば、長州へむけ出立する日時などのとりきめがおこなわれる。
 その場で勇士組脱退を申し出なければならなかった。弥助と三戸谷、高部の三人は、いずれも新太郎に疎まれていたが、京都まできて突然訣別をいいだせば、ただでは納まりそうもない。
 話しあいがこじれたときは、刃傷沙汰になるかも知れない。すべては成りゆきに任せようと、弥助は心にきめている。
 他の隊士たちは、所労を口実に昼寝をしている二人を残し、すでに河原町屋敷にでかけていた。
 勇士組を脱退すれば、当然斎藤門下から破門される。ながらく頼ってきた大樹の蔭ではあったが、絶縁するのに未練はない。
▲UP

■弥助は斬殺される

<本文から>
 両手が思うようにあがらない。そのうえ、足も鉛のように重く感覚が失せていた。
 (しまった、さっきの酒に痺れ薬々仕込んでいやがったな)
 彼はいちはやく気づいた。
 「ほう、さすがは弥助だな。いつのまにかこんなところへ逃げておったか」
 久保の声が、近づいてきた。
 「引導を渡してやるゆえ、おとなしく成仏せい」
 久保が刀を人相にとり、正面に立った。
 「仏生寺一流」
 弥助は叫んだつもりであったが、言葉にはならなかった。
 だが、彼の痺れた右足はたかくあがり、久保の顎を見事にとらえていた。久保は弥助の死力をふりしぼった蹴りをくらい、あおむけにひつくりかえる。
 たちまち、四方から乱刃が襲ってきた。
 「お里、おまき、おつた」
 弥助は叫びわ乃、眼をとじた。
 弥助たちの最期について、勇士組隊士であった原保太郎が、後年錦鶏間伺候となってから述懐している。
 「勇士組の長州に送られたときは、自分は十七、八歳であった。そのうちで仏生寺弥助、高部弥三雄、三戸谷一馬の三人は京坂で悪事をはたらいたので、斬り殺さんとしたが、三人共武術が優れて居って中々むつかしい。それで京都の遊女屋へ連れこんで、酒に酔わせて仏生寺弥助は縛したが、高部と三戸谷とはそれと知って加茂河原へ逃げだした。北村北辰斎が追いかけて斬りあったが、小手を斬られて大刀を取りおとし、ただちに太刀を抜いて受太刀となり危うき所を、新太郎ようやくかけつけて、後より抜き討ちに斬って、ひるむところを斬殺したと聞きました」
 弥助たちは謀殺されたのであった。
 弥助は痺れ薬を酒にいれられ、身動きできないままに、成敗されたともいわれる。彼の悩み多かった三十三年の生涯は、人なみはずれた剣の才能を生かすこともないままに、あっけなく閉じた。
▲UP

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