津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          修羅の剣(上)

■弥助は斉藤三九郎から剣術を教わる

<本文から>
 その日から弥助の頭は常に剣術の工夫ばかりを考えるようになる。彼は夜の浜辺でお里に熱をこめて剣術の妙味を語った。
「お里、儂のような文字も読めん情ない阿呆が、剣術では余人にすぐれた腕をもてるようになると、三九郎様がおっしゃって下さるんじゃ。なぜじゃろうかいね。儂は剣術がおもしろうてたまらんようになったちゃ」
 お里はいつくしみをこめた声音で、つぶやく。
 「あんたは剣術がそんなに好きけ。そんなら三九郎様の家来になって、みっちりと教えていただけばいいっちゃ」
 「ほう、お里はそれでもいいのかや。儂がござ屋にならずに、若党になってもええのか」
 お里は楽しげに笑声を洩らした。
 「ええがに、私はそうなりや若党どんの女房になるんじゃもの」
 「ほんまかお里、お前は、ええ女子じゃなあ。儂の気持を、よう分ってくれるっちゃ」
 弥助は砂浜に立ちはだかり、木切れをひろって左上段に構え、打ちこみをしてみせる。
 「三九郎様は、儂の面打ちはことのほか早いというて下さる。こう青眼に構えたまままっすぐつっこんでゆく追いこみ面も、伸びがええので、稽古してもっと上達するよう心掛けよと、いうておいでじゃね。儂のような愚者でも能はあるものだちゃ」
 弥助は棒を青眼にとり、右足で踏みきって追いこみ面をとる技をも、お里にみせた。 
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■弥助は江戸行きを決意する

<本文から>
「若旦那に手を出したな。奉行所のお役人にいうて、捕えてもらうぞ。覚悟はよいな」
 弥助が咆哮した。
「うるさい、おのれも殺してやるっちゃ」
 彼はいいつつ男衆たちに表の道路へひきだされた。
 金造が耳もとで告げた。
「弥助、逃げよ。いまのうちじゃ、どこへでも走れ。ここにいたっちゃ、だちかん。罪人にされるぞ」
 われにかえると、弥助は濡れ鼠で仏生寺村にむかう街道を走っていた。うしろをふりかえると、塗りつぶされたような闇があるだけであった。
 弥助の眠から涙が噴きでた。彼は走りながら声を放って泣きむせぶ。
 「お里、お別れじゃが。成仏してくれえ。儂や、いまから江戸へゆく。乞食してでも江戸へいくつちゃ。三九郎様、許して下されっちゃ。儂は氷見で二年は待てませんちゃ。江戸へ生きてたどりつけたら、斎藤道場へいきますっちゃ」
 涙と洟をあふれるままにさせた弥助は、江戸へゆこうと思い決めていた。そうするほかに、彼にはゆくところがなかった。
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■弥助は斉藤道場で才能を認められる

<本文から>
 弥九郎は攻めに出て、得意の面をつづけさまに三度決める。知らぬ間に、彼は本気になっていた。
 弥助は打たれてもひるまず、長身の弥九郎の眼下で、めまぐるしく独楽のように旋回するいきおいで、多様な攻め技をくりだしてきた。
 「これは三九郎め、わずかの間に数多い技を教えこんだものだな」
 弥九郎は弥助の緩急自在の攻撃をあつかいかね、打ちこまれるのを防ぐために打って出ないわけにはいかない。
 ひととおり手のうちを観察すると、弥九郎は手をあげ弥助を制する。
 「これまでじゃ。なるほどご隠居のいわれた通り、お前の剣は筋がいいぞ。こののちたゆむことなく励めば、ひとかどの使い手になれよう。明日から道場での稽古を差し許すぞ。防具、竹刀は儂の使いふるしたものを貸してやる」
 「ありがとう存じます。うれしゅうございますっちゃ」
 弥助は板間に手をつき、平伏する。
 儂は無学で乞食同然の身のうえだが、剣術では誰にも負けんようになってやる。死んでもええけ、荒稽古をやりぬいて練兵館随一の腕になってやるんじゃと、彼は自分に誓った。
 弥助が道場を出ていったあと、ご隠居は門弟たちの前もはばかることなく、弥九郎に話しかける。
「弥助の筋はたいしたものだぞ。儂やお主でも気をゆるめれば打ちこまれeからのう。三九郎も氷見あたりを流れ歩くうちに、またとない大器を見つけたものよのう。あいつは磨けば剣術の世界で天下がとれるぞ」
 弥九郎はうなずく。
「たしかにご隠居のおっしゃる通りでしょう。しかし、弥助はまだ十六歳ゆえ、慢心させてはいけません」
「いや、そんなことはない」
 ご隠居は言下に否定した。
「なまじな代物なら、ほめそやせば慢心して潰れることにもなろうが、あれほどの大器になれば、褒めあげてやればそれだけ力を得て伸びるものだ。押えつけるよりも自信をつけさせ、おおきく花咲かせてやるほうがいい。まあ俺に任せておけ。いいように育ててやるよ。あいつはきっと練兵館の一枚看板になるさ」
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■弥助は強豪と試合をおこなっても気怯れしない

<本文から>
 斉藤弥九郎から氷見靴をつつしむよう命ぜられたので、弥助は聞きおぼえの侍言葉でぎこちなく答えた。
 笑われると思っていたのが案に相違して、ご隠居は手をうって褒めてくれた。
 「弥助、お前はいつのまにか剣術の極意を身につけたな。昔、小太刀半七という剣術の達者が、二代将軍秀忠殿に試合の心得を聞かれ、なんとのう面白う思うてうちかかるのが、至極の心得じゃと申した。お前の思うところと、おなじじゃな」
 ご隠居は、弥助の日頃の動作を見ていて、彼の言葉が真実であると覚った。
 どのような強豪と試合をおこなうときも、彼には気怯れの様子がみえない。相手の動きをうわまわる迅速な竹刀さばきが、平生よりも冴えるのみである。
 練兵館にきてまだ二年あまりしか経っていないのに、四十数年の剣歴を誇るご隠居が稽古の際に、気怯れを感じることがあった。
「もしかすると、こやつの腕はすでに儂を凌いでいるのかもしれぬ」
 弥助はご隠居と竹刀を交えても、萎縮しなかった。
 刀中に身を蔵する堅固なご隠居の構えにむかえば、藤田、百合本らの師範代でさえも、身がちぢむといわれていた。
 打ちこめば合せ技をかけられるし、守りの体勢をとればたちまち攻めこまれる。剣の天才といわれるご隠居とは、格がちがうのである。
 だが弥助はご隠居が打ちこもうとしても、しなやかな足どりで体の位置を敏捷に変え、押されるところがなかった。「仏生寺一流」とかけ声をかけての、必殺の蹴り技もひそめたままである。
 同門の弟子たちを相手の稽古にも、彼はおだやかな進退をみせるのみであった。大力を誇る門弟が、組みうちで一本とろうとしても、弥助はやわらかい身ごなしで攻守ところを変え、相手の面をすばやくはずしてしまう。
 あの身ごなしは天与の才というほかはないと、ご隠居も嘆息するほかはなかった。
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