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<本文から> 剣術稽古をはじめて間のない頃は、ほとんど狂気のごとくになったと、自伝に書いている。
常にどこで真剣勝負を挑まれてもかまわないという気構えで、終日を過ごす。道を歩いていて竹刀の音が聞えれば、ただちに案内を求めて試合を所望した。
剣術稽古は奥がふかい。凝りはじめればきりがなくなるものである。試合に勝てばそれだけにはげみがつき、負ければなぜ打ち込まれたかを考え、対抗する手段をみつけだそうと案を練るのに、つきない興味がでてくる。
打ち技、突き技にも、わずかな身構え、タイミングの差異によって、さまざまな新手が生れてくる。
ひとりでも多く、未知の相手と試合をするのが、非常に楽しいものである。日頃ともに稽古を重ねている者に対するよりも、はるかに緊張感がある。
鉄舟は、武士の表芸としての剣術稽古に、こまやかな妙味を見出していたようである。
彼は家へたずねてきた客をみると、試合を挑むようになる。常時試合でわが技を磨きたくて、見境いがなくなっているのであった。
御用聞きにくる店屋の若者にも、祥ひとつの裸になっていう。
「俺の体のどこでもいいから、打ち込んでみな。もし打たれたら褒美をやるよ」
若者たちは竹刀で打ちかかるが、まったく打てないのでやめてしまう。
「好きこそものの上手なれ」という諺の通り、鉄舟には剣術修行が無上の娯楽であったのであろう。
一芸に秀でるためには、その道に対する絶えざる好奇心とともに、他人の思惑など気にしない、強烈な個性が必要である。
水野忠邦の天保の改革以後、武芸が奨励されてはきたが、幕府旗本の猟官運動が依然として盛んな時代に、鉄舟は生れ育った。
人はその生活する環境に順応しがちである。香川善治郎も一時は欧化の風潮に押され、竹刀をながらく持たない年月を送っている。
鉄舟が思うがままの道を歩むことができたのは、やはり非凡の人であったからである。皆が右をむくなかで、ひとり左をむくような行いがいかに苦痛であるか、試みてみなければ分ることではない。 |
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