津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          春風無刀流

■剣術稽古をはじめた頃は狂気のごとく励んだ

<本文から>
 剣術稽古をはじめて間のない頃は、ほとんど狂気のごとくになったと、自伝に書いている。
 常にどこで真剣勝負を挑まれてもかまわないという気構えで、終日を過ごす。道を歩いていて竹刀の音が聞えれば、ただちに案内を求めて試合を所望した。
 剣術稽古は奥がふかい。凝りはじめればきりがなくなるものである。試合に勝てばそれだけにはげみがつき、負ければなぜ打ち込まれたかを考え、対抗する手段をみつけだそうと案を練るのに、つきない興味がでてくる。
 打ち技、突き技にも、わずかな身構え、タイミングの差異によって、さまざまな新手が生れてくる。
 ひとりでも多く、未知の相手と試合をするのが、非常に楽しいものである。日頃ともに稽古を重ねている者に対するよりも、はるかに緊張感がある。
 鉄舟は、武士の表芸としての剣術稽古に、こまやかな妙味を見出していたようである。
 彼は家へたずねてきた客をみると、試合を挑むようになる。常時試合でわが技を磨きたくて、見境いがなくなっているのであった。
 御用聞きにくる店屋の若者にも、祥ひとつの裸になっていう。
「俺の体のどこでもいいから、打ち込んでみな。もし打たれたら褒美をやるよ」
 若者たちは竹刀で打ちかかるが、まったく打てないのでやめてしまう。
「好きこそものの上手なれ」という諺の通り、鉄舟には剣術修行が無上の娯楽であったのであろう。
 一芸に秀でるためには、その道に対する絶えざる好奇心とともに、他人の思惑など気にしない、強烈な個性が必要である。
 水野忠邦の天保の改革以後、武芸が奨励されてはきたが、幕府旗本の猟官運動が依然として盛んな時代に、鉄舟は生れ育った。
 人はその生活する環境に順応しがちである。香川善治郎も一時は欧化の風潮に押され、竹刀をながらく持たない年月を送っている。
 鉄舟が思うがままの道を歩むことができたのは、やはり非凡の人であったからである。皆が右をむくなかで、ひとり左をむくような行いがいかに苦痛であるか、試みてみなければ分ることではない。
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■防具を稽古がおわるまで外さず、寝るときも真剣勝負の心の態勢をととのえていた

<本文から>
 「鉄舟は道場ではいったん身につけた防具を、稽古がおわるまで外さないので知られていた。面や胴がゆるみ、頭を包んだ手拭いが眼のまえに垂れさがり、あるいは汗がしたたって防具を外すものは多い。
 稽古が一刻(二時間)にもわたると、おおかたがそうして一息いれる。五、六分から十分ほどの稽古を数回くりかえすと手足が鈍り、技が思うように打ちだせなくなったような気がして、いったん休みたくなる。
 防具を外し坐っておれば、稽古の荒い先輩に相手をさせられ、眼から青火のでるような痛撃をくらわなくてもすむ。
 鉄舟は腕達者な先輩から荒稽古を望まれて、おそれいるようなことはない。よろこんで立ちむかい、どれほど打たれても退くことなく攻めかかるので、先輩のほうが辟易してひきさがる。
 高山で修行した時分から冴えていた突きの技がさらに威力を加え、かなりの腕前の剣客との試合でも、見事にきまるようになっていた。
 鉄舟と立ちあい、打ちかかろうと足を踏みこんだ矢先に、巨躯からくりだす猛烈な突きをうけた者は、足を天井に蹴あげ、鞠のようにはねとばされる。
「鬼鉄と試合をすれば、喉の骨を砕かれるぞ。あのような野暮天との試合は願いさげだ」
 柔弱な馴れあい稽古をもっぱらとする者は、鉄舟の姿を見ると眼があわないようにそっぽをむいた。
 鉄舟が青眼からの突きを得意とするのは、それが実戦にはもっとも適していると考えていたからであった。面、小手もときには打つが、横面と胴は打たない。
 横面は正道ではないとするのが、鉄舟の持論であった。また、胴は打つときにまえに身をかがめるので、実戦では相手を斬ると同時に自らも頭と手を相討ちにされるおそれがあると、考えていた。
 鉄舟は日常、路上にいるとき、廟のなか、布団によこたわっているときも、常に真剣勝負を挑まれても応じうる、心の態勢をととのえていた。
 往来を通行していて、竹刀を打ちあわせる音を聞くと、ただちにその場におもむき、相手が誰であろうと構うことなく、手あわせを申しこむ。
 屋敷にたずねてくる客がいると防具をもちだし、試合を挑んだ。ついにはご用聞きにくる八百屋、魚屋の若衆に竹刀を渡して頼んだ。
「俺の体のどこでもいいから、打ちこんでみてくれ」
 鉄舟は素手で、乱打してくる竹刀を避ける稽古につとめた。
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■浅井義明に敗れる

<本文から>
「到頭頂戴いたしました。もちろん拙者の勝ちでござろう」
 義明は面のうちで答えた。
「いやいや、たしかに私の勝利でござる」
 鉄舟は道場に立ちはだかったままで答える。
「それはおおまちがいでござろう。しかと拙者の勝ちじゃ」
 義明は笑いつつ、鉄舟を指した。
「山岡様、いちど胴をおあらため下され。私が倒れるまえに打ったこの胴は、しかと手のうちに覚えがござる」
 胴は倒れたときに斬るもので、真剣勝負で立ち胴は斬れないというのが、武士の常識であった。
 鉄舟はいきりたっていいかえした。
「それは先生、思いもよらぬことを仰せられる。胴を打たれた覚えは、まったくござらぬ」
 二人は押し問答をくりかえす。
 義明は小首をかしげ、鉄舟の革胴をみる。
「なにか痕跡が残っているはずと存じますが、それでは貴殿の胴をはずされ、おあらため下され」
 鉄舟はやむなく胴をはずし、裏をみると、右側の竹が三本折れていた。
 鉄舟ははっとしたが、負けぬ気の性格なのでいいかえした。
 「なにこれは拙者が貧乏で、虫が喰っていて自然に折れたもの。いま折れたのではござらぬよ」
 たがいに笑いあい、試合は終った。
 鉄舟は帰る途中、義明との試合運びを思いだそうと懸命であった。長い試合のあいだ、義明の攻めをうまく凌いできたつもりであったが、いつのまに胴を打たれたのであろうか。
 革胴の裏に張った竹は、たやすく折れるようなものではなかった。それが三本も折れている。着替えの際脇腹をたしかめると、肌の色が蒼く打たれた痕をのこしていた。
 (おそろしい男もいるものだ。これだけ打たれたのでは、俺もかたなしだ)
 鉄舟は義兄の高橋精一の屋敷に立ち寄った。
 「精さん、今日は浅利道場へいってきたが、どうにもやられてしまったようだ」
 講武所槍術師範をつとめる精一は、鉄舟の語る義明との立ちあいの様子を、黙って聞いていた。
 鉄舟が語りおえると、精一はいった。
 「鉄つぁん、そいつは本物だぜ」
 鉄舟もおうむがえしに答えた。
(俺はまだ未熟だ。あれほどの遣い手のつよさもわからず、かさにかかって試合を乞い、知らなんだとはいえ、胴を打たれたのを認めなかった。思ってみればはずかしい。よし、明日は浅利殿の弟子にしていただこう)
 鬼鉄と異名をとり、幕府旗本、御家人のうち随一の腕っぶしを誇る鉄舟であったが、おのれの非を知れば面目を失うことなど、意に介さない。
 翌朝、浅利道場に出向き義明に会って、前日の非礼を詫び、入門を懇願した。
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■慶喜から官軍への使者に任じられる

<本文から>
 ところが、慶喜は、ふたたび泥舟を呼んだ。
 「そのほうに駿府へ参らせたいが、儂の身辺から去られたならば、あとに頼れる者がおらぬ。ついてはだれかそのほうに代って駿府へいってくれる者はおらぬか」
 泥舟は慶喜にいわれ、自分の代役を誰にすればよかろうと考え悩むうち、鉄舟のほかにはいないと思いつく。死出の旅路となりかねない駿府行きを、ほかに依頼できる者はいない。
 「恐れながら申しあげまする。私の義弟山岡鉄太郎が、その任にふさわしかろうと存じまするが」
 慶喜は鉄舟を知らなかったが、ただちに承知した。
 「では山岡に使いを申しつけ、ただちに駿府へむかうよう、取計らってくれ」
 泥舟はいう。
 「かほどの大事をお申しつけになられるからには、上様ご自身にて鉄太郎をお召しになられ、じきじきにお指図下されたく存じまする」
 鉄舟に一命を賭した大任を命ずるには、慶喜から直接にその旨を告げさせねばならない。そのうえで鉄舟が承知すれば、死地に赴かせても悔いはないと、泥舟は考えていた。
 鉄舟は慶喜に召された事情を、次のように記している。
 「奇なる哉、二月下旬たまたま急便予がもとに来りて日く、将軍の命なり。すみやかに寛永寺の御座所に出頭これあるべしと。余は一言よしと答え、勿々寛永寺に至る。至ればすなわち人あり。日く、すみやかに将軍の御前に進めと。直ちに伺候すれば、義兄高橋伊勢守(泥舟)座側に控えらる」
 鉄舟は慶喜に目通りして、胸をうたれた。
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■西郷との盟約に成功

<本文から>
 彼は額に朱をそそぎ、声をほげまして説いた。
 「さように仰せられるなら、先生と拙者とその位置をかえてお考え下さるがよろしかろう。先生の主人島津侯が、もし誤って朝敵の汚名をうけ、官軍に征討せらるることになったとして、ご主君が恭順謹慎されるに及び、先生が拙者の立場に立たれたとお考え下されよ。主家のために尽力するにあたって、主人慶喜に下されたごときご措置が朝命として下らば、先生はその命を奉戴して、ご主君を配所に差しだし、安閑として傍観しておられましょうか。君臣の情は、先生のご胸中ではいかようなるものでござろうか。拙者は、かような主君の窮境を、決して座視できぬと存じます」
 西郷は、またしても鉄舟に急所をつかれた。武士として当然の理を説かれたならば、ひきさがるよりほかはない。
 鉄舟は情の人である。西郷は推新の大業を推進する策謀の士であるが、やはり情にもろい性格であった。
 機敏に舌鋒を変えての鉄舟の説得に、西郷はついに心をひらいた。
 「先生の仰せらるるところは、たしかにその通りです。しからば徳川慶喜殿のことについては、吉之助がかならず先生のお望みのとおりに取計らいましょう。先生はこの件につき決してご心痛召されるな」
 西郷の誓約は盤石のように重く、信ずるに足るものだと鉄舟は感得した。
 用談をおえ、座がくつろいでのち、西郷は鉄舟にいった。
 「先生はここへこられるまでに、官軍の陣営を破られた。わが軍律に照らせば、当燃捕縛しなければなりませぬが、まあ今日は見過ごしておきましょう」
 鉄舟は悠然と答えた。
 「縛に就くのは拙者の望むところです。用を終えたいまは、何の思いのこすところもありません。どうか早く捕縛して下されたい」
 西郷は大笑した。
 「ならばまず酒を呑みましょう。酔わせてかからねば、先生は手ごわい」
 冗談をいいつつ数盃の酒を酌みかわしたのち、鉄舟ははやくもいとまごいを告げた。
 彼は江戸の慶喜に、一刻もはやく朗報を伝えたい。
 西郷は大総督府陣営通行の手形を鉄舟に与えた。
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■西郷と肝胆相照らす仲

<本文から>
「正宗鍛刀記」には、岩倉が鉄舟より直接に聞きとった真実が記載されているという。
 鉄舟覚え書によれば、西郷は駿府より江戸に出たのち、高輪薩摩屋敷で鉄舟と海舟に面会した。海舟は幕府軍事総裁として、鉄舟が駿府で誓約した四箇条について、かならず実行する旨を正式に応答し、西郷はそれを承諾して江戸攻めを中止したとある。
 海舟は、鉄舟が大総督官から受けた幕府降伏の条件をうけいれる、具体的な交渉をおこない、その過程において卓抜な政治的手腕を発揮したといわれる。
 幕府代表者として、官軍との購和を成立せしめたという意味で、勝海舟は江戸攻撃を中止させた当事者である。しかし、鉄舟のはたらきがなければ、危機を回避することができなかったのは、あきらかである。
 鉄舟は高輪藩邸で西郷と対談中、幕府脱走人らしい軍装の男たちが、小舟七、八艘におよそ五十人ほども乗り組み、庭前の海に迫ってくるのをみたと、覚え書に記している。
 西郷の護衛兵たちはこれをみて驚愕し、銃を手に狂奔して防禦の態勢をとる。屋敷の内にいる人数が寡勢であったのであろう。
 鉄舟はどうなることかと息を呑んだ。血迷って脱走人たちが斬りこんでくれば、西郷がまっさきに狙われよう。
 だが、西郷は神色自若として、鉄舟にむかい笑って告げた。
「私が殺されると、兵隊が奮います」
 鉄舟は西郷の死生を超越した、確固不動の態度に感動した。
 鉄舟は往時を回顧していう。
「今、氏は国賊の名を受けて地下に葬られたりといえども、余ほのかに往時を挽回して知己の念に堪えず。此の人かならず死する人にあらず。鳴呼」
 西郷は笑って危機にのぞんだが、脱走兵の群れはいったんは襲いかかる様子をみせたまま、いずれかへ去った。
 江戸市中は、徳川家の士卒が和戦いずれに就くべきかを論じ、意見百出し、いつ暴発するかもしれない一触即発の殺気が、みなぎっていた。
 そのような状勢のもとでは、西郷がどこで殺害されてもふしぎではない。もし西郷が他出の途中に殺されるようなことがあれば、駿府の盟約に違背することになる。
 鉄舟は万一不慮の変事がおこったときは、西郷とともに死のうと決意し、西郷が他出の際には常に身辺に同行し、護衛役をひきうけた。
 鉄舟の廉直な性格は、薩摩隼人の心に通じるものがあった。彼は西郷と肝胆相照らす仲となるとともに、薩藩の豪傑たちにも親しみを寄せられるようになる。
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■天皇の側近に奉仕するが、欲がなく貧乏であった

<本文から>
 廃藩置県ののち、鉄舟は明治四年七月に新政府出仕となり、十盲、茨城県参事、十二月には九州伊万里県権令となった。
 伊万里はかつて幕府直轄の地であったため、新政府に反抗の気運がつよく、鉄舟の在職中に暴動が起ったが、鎮撫に万全の策をたてていたため、たちまち暴徒は一掃された。
 明治五年六月より、鉄舟は侍従番長となり、天皇の側近に奉仕するようになった。彼が宮中に入ったことは、旧幕臣たちの誤解と嫉妬を招いた。
 徳川の遺臣が、薩長政府に媚び見苦しいふるまいをあえてしている、という噂が、鉄舟のもとへ聞えてきた。
 鉄舟は彼らにいいわけがましいことはせず一首の歌にわが心境を託した。
 「晴れてよし曇りてもよし富士の山、もとの姿は変らざりけり」
 鉄舟は侍従番長になってからは、中野区小淀町に屋敷を構えるようになった。
 地積が一万千七百五十余坪で、旧幕時代に、江戸の十二商の一に数えられた麹町の豪商加太八兵衛の別荘であったものである。
 立派な屋敷には住んだが、鉄舟はあいかわらず貧乏であった。
 「馬車ならでわが乗るものは火の車、懸とる人の絶える間もなし」
 彼には蓄財の才がまったくなく、他人に借金の保証人を頼まれるとひきうけ、直接借金を申しいれてくる者にも、融通のつくかぎり貸し与える。
 旧幕臣のうち、食いつめた者が転がりこんでくれば居候をさせる有様で、俸給はたちまち消え、いつのまにか思いもかけない借財を背負いこむことになった。
 鉄舟は武士道に生きる人間である。金銭財宝の価値を知ってはいるが、生命をつなぐに必要なもの以外は欲しない。
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■無刀流という一派を創始

<本文から>
 四月になって、鉄舟はいささか感ずるところあって、あらたに無刀流という一派を創始した。
 無刀の意を鉄舟心説く。
 「心の外に刀無しということにして、三界ただ一心なり。一心は内外本来無一物なるが故に、敵にむかうとき、前に敵なく後に我なくして妙応無方、朕跡をとどめず」
 絶対無の境地、まったくものに滞らない境地を、無刀の極意としたわけである。
 相手の動きに従い、自在に変化するのが、剣の究極の姿であると、鉄舟は認識したのである。
 鉄舟は無刀流をひらいてのち、満水和尚の印可をうけた。六月、天皇の山梨、三重、京都巡幸に先発した。
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