津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          勝者の極意

■龍馬暗殺の再現でわかったこと

<本文から>  この検証をビデオと写真で撮影していただいたんです。日本刀はその前一年半ほど全然使っていなかったんですが本物の巻藁を作ってくれてまして、五本を五秒で斬りました。斬る瞬間は八〇分の一秒ですが、向きを変える時間が要りますから計五秒です。それだけの速さがないと斬れません。
 そういう感覚を持っていますと、人を斬るときにどれだけ接近しなければいけないとか、どの程度手の内を締めなければいけないとか、ある程度想像できるわけです。そういう経験が、書くときの想像を逞しくしてくれるのだと思いますね。
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■剣道というものは江戸文化の最高傑作

<本文から>  
二木 流派の数が増えていったことにはさまざまな意味がありますね。金儲けのためですとか、師弟の派閥争いから破れた者が一門を興したりですとか、あるいは浪人が食うために流派を増やしたりですとか。ただ、この時代に武士たちは竹刀と防具を用い、一年中道場でやれる剣術の面白さというのを知るわけです。それも間合いの駆け引きや相手の心を読み、攻めて動かし、一足一刀のもとに相手を斬ることを学ぶ。江戸時代の剣術は小兵が妙技により大力剛者を倒すことも可能なものに発達しております。
 これまで剣道史では戦国乱世と幕末こそが剣の時代であって、江戸時代というのは型ばかりの衰退期の剣術であったというふうに言うんですが、私は剣道というものは江戸文化の最高傑作であろうと思っているんです。
津本 江戸の町道場主で一流と言われる人たちの勝負の歩留まりは七十%だそうですね。十回試合して三回負けても一流の道場主だと言われる。千葉周作は全然負けなかったそうですが。
二木 勝負師の凄さがあったわけですね。千葉周作は必ず相手をほめたといいますね。私が一つ剣道で学んだことは、終わったあとに相手をほめることです。礼に始まり礼に終わるということは遺恨を避けるためのひとつの知恵だと思うんです。「お願いします」と始まり、叩き合って「ありがとうございました」「まいりました」と挨拶をするわけですが別にまいったと思ってないわけですよ、内心は(笑)。それでも「まいりました」「いいとこ頂戴しました」という挨拶をするわけです。
 幕末に幕府講武所の師範となった男谷精一郎信友は、三本のうち一本を相手に打たせたという。相手に勝ちを譲るということですね。完全に勝つんじゃなくて、どこかで相手に花を持たせる。私が剣道を習った鈴木幾雄先生(範士八段・故人)は誰とやっても合気なんです。相手は「今日は俺も調子がよかった」と思う。竹刀も相手によって重くしたり軽くしたり、女子学生とやるときには袋竹刀を使ったりするわけです。そしてとにかく本気にさせる。これが男谷信友に通じるような、師匠としての面を持った名人じゃないかと思んです。
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■信長は征夷大将軍を望んでいた?

<本文から>
津本 『下天は夢か』の中で、正親町天皇の息子である誠仁親王の側室が安土城まで行ったことを書きました。武田征伐が終わって帰ってきた後ですから、本能寺の変の直前になります。
 征夷大将軍になれという話を信長に伝えるために誠仁親王の側室は遣わされました。ところが信長は答えないで、そのまま京都へ帰してしまった。結局その返事をしなかったわけです。それで朝廷は征夷大将軍と、太政大臣、関白の座を空けて待っておったということですよね。ところが信長はあまり食指を動かさないままで死んでしまった。
 信長は官位自体の価値をまったく認めない。金銭にしても国にしても、名誉にしても、客観的というんですか、その価値は認めないんです。要するに利用価値だけですね。時として百パーセント認めるときもあれば、ゼロ、まったく認めないときもある。利用価値のあるときはそれを大事にして、なくなったらもうスパッと切ってしまう。ちょっと普通の人間では考えられないような動き方をするんですよ。不気味な人ですね。ですから官位にはあまりこだわっていなかったんではないかと思います。ひょっとしたら将軍になっていたかもわかりません。ただ日本の国内だけで自分が将軍になって、あるヒエラルキーの一番先頭に立てればいいとは、あまり考えてなかったんではないかと思うんです。
 信長の跡を継いだ秀吉は、官位のことばかり頭にありました。二人を比べてみると、戦争の天才であるところは信長も秀吉も一緒ですが、人生観や社会観において秀吉と信長は、はっきり違うところがありますね。
今谷 なかなか面白いご意見で、敬服しました。先生の『下天は夢か』が出た後でしたか、ある女性の学者が興味深い学説を発表しました。『勧修寺晴豊日記』の今までの解釈を読み直したら、今までの学者の解釈が違っているんじゃないかというんです。
 その人の結論は、村井貞勝と朝廷の伝奏・晴豊が談合して、天皇が信長に三職を推任するようもっていった。信長のほうは内々は将軍が本命だった。まあ征夷大将軍か関白か太政大臣か、それを推薦なさるには天皇の側から早く働きかけられたほうがいい、という村井貞勝の意思で推任が行われたというふうに読めるという一つの解釈です。今まで朝廷側が信長に官位を提示したと言われてきましたが、実は信長側、村井貞勝側が要求していたのではないか。信長の意思は将軍だったという説ですが、結局結論は出ていません。何も回答せずに本能寺で死んでいますので、どうだったかわからない。
津本 朝廷が、「これは危ない」と危機感を募らせて、光秀をそそのかしたという話を『下天は夢か』で書いたわけです。
今谷 可能性は確かにありますね。当時の光秀は、手を伸ばしたら天下が手に入るという位置にいたわけですから、誰でも誘惑にかられるかもしれません。
 ただ僕も一つ推測しているのは、信長は子供の信忠のことも考えていたのではないかということです。自分が早く、後の家康がしたように大御所になって、目の黒いうちに子供を将軍にしたいというふうなことは、あるいは考えていたのかもしれない。そうなるとやっぱり保守的になりますね。
 さっき先生がおっしゃった信長の資質とはちょっと違うことになりますが……。まあ何にしても日本の最高権力者になって、子供をその跡目につけて、子孫継承的な体制に持っていきたいとあるいは考えていたかもしれない。
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■天皇制は一つの安定装置としては一種の英知

<本文から>
津本 日本だったらとても考えられないですよ。いま私『水瀞伝』を書いてるんですが(注=後に単行本化)、人肉を食べる詰もいっぱい出てきますね。
今谷 昔から、刑場で政府高官などを処刑すると、恨みを持った遺族が全部寄ってきて肉を持って帰って食べるんですね。だからもうほんと骨だけになってしまう。何万という規模で人民を処罰してますので、その恨みを持った家族もまた多い。肉を市場へさらすんですが、寄ってきてみな持って帰る。
 人の肉、肝を食べる話は史実で、五代のとき北方民族の遼、契丹族にあったようですね。契丹人の節度使が人の肝を腰にぶら下げてるという記述が『資治通鑑』の中にあったと思います。
津本 それに比べたら日本はほんとに穏やかですねえ。
今谷 確かに穏やかですね(笑)。
 一九八九年の中国・天安門事件のとき、鄧小平が二十万人殺してでもと言ったのは、歴代の皇帝の気性をそのまま継いでいますね。共産主義になっても変わらない。イデオロギーというか、何万人殺しても安定させるんだという伝統を強く感じます。でも殺さなくても安定している日本のほうがいいと言えばいい(笑)。
津本 いや、いいですよ。
今昔 だけど、戦後の歴史家というのはだいたい中国式の革命のほうがいいと主張しています。ですから天皇制を毛嫌いしていた面がなきにしもあらずです。天皇制は一つの安定装置としては一種の英知というか、もう少し諸外国にもこういう理由で続いてきたんだというふうにちゃんと説明してもいいと思います。
津本 西南の役で明治天皇が、西郷は逆賊であるとバッと裁断したんで、戦争があんまり広がらなかったというような側面もありますね。
今谷 いわば金の卵を生むニワトリですよね。権力はないけれども、いざというときに大事な決定ができる存在であると。
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■長篠合戦は世界の陸戦史に新しい一頁

<本文から>
津本 五月下旬ですから梅雨の最中で、合戦の日がたまたま晴れていました。気温が上がれば水蒸気がもうもうとしてきますよ。ご存知のように火薬は硫黄、硝石、木炭の粉から成っています。みな吸湿性の高いものです。うまく発火するかどうか。これもひとつの賭けでした。連合軍は火縄銑を三千数百挺ほど用意しています。一挺に三人ずつ付いたんですね。掃除、弾込め、射撃役。この鉄砲隊を三段に配し、第一段が発射すると、瞬時に第二段が出
る。この鉄砲隊の前方に騎馬よけの馬防柵を挺々と設けました。武田勢にも工兵隊が付いてきてますから、普段なら木の柵くらいは縄をばっと掛けて引き倒しますよ。甲州流軍学はまず、敵を包み込む鶴翼の陣を敷き、工兵隊が障害物を除いた後に、長槍隊を入れて敵軍をかき乱し、仕上げに騎馬武者が一団となって突撃する、当時最強と称された戦法です。これがハナから狂わされたんですね。
 しかし、連合軍側も大きなリスクを負っていました。前に述べましたように、発火するかどうか。もうひとつは、命令がうまく届くかどうか。いまの鉄砲とは違って、壮絶な音響です。指揮官の号令が聞こえない。雷鳴以上でしょう。煙はまっ黒にたちこめ、煙幕と化して、敵が見えない。しかも撃った瞬間、火薬の淳が一間近く飛び散る。兵は大火傷しますから、なかなか密集陣型をとれません。それを信長は無理にやってしまいました。一説によると馬防柵の用材も岐阜から持参したといいますから、相当な準備で臨んだんですね。
- 関ケ原では東西両軍あわせて六千人の戦死と言われています。関ケ原の合戦よりも、多数の戦死者が出たそうですね。
津本 双方一万人近い戟死者を出したという説もあります。しかし、さすがに武田勢ですね。馬場信春隊、山県昌景隊と精鋭が次々に馬防柵に立ち向かい、ときに三段まで突破する。しかし、その度に指揮官が狙い撃ちされてしまう。山県など、その危険を熟知しながら突撃する。天正元年に亡くなった信玄に殉死するかの如く討ち果てた。早朝の開戦でしたが、午後二時には武田側の統制が乱れて、退却。こうなると、もう駄目ですね。追い討ちをかけられ、皆殺しです。武田の騎馬侍は薙刀で味方の雑兵の首を斬り飛ばしながら逃げた。全軍万五千のうち、甲府まで逃げ帰ったのは千二百。潰滅状態といえます。
 この戦いは世界の陸戦史に新しい一頁を加えます。だいたい近世ヨーロッパと較べても規模が格段に大きい。彼の地では、ほぼ百人単位の戦闘ですね。長篠の合戦の六十年後のようやく三十年戦争後期に、長篠と同じ程度の銃撃戦がおこなわれています。このような大作戦を立案し、成功させた信長というのは恐ろしく明哲な頭脳の持ち主ですよ。
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■家康の魅力

<本文から>
津本 しかし家康が魅力に乏しいかというと、そうではありません。実に面白みに富み、晩年に至るにつれ、燻銀のように滋味が底光りして見えます。桑田忠親さんによると、家康の敗けるが勝ちの戦法のルーツは松平家まで遡るようです。ナンバーワンになったら風当たりが強いでしょ。マラソンと同じですよ。二位以下につけて、ナンバーワンに自分を高く売りつける。これが松平家のどうも家訓であったらしい。祖父の清廉の代には、かなりの勢力を誇っていましたね。三河を制圧して、遠江をうかがう勢いでした。
津本 ところが不慮の死を遂げたでしょう。父親の広忠も若くして、二十四歳かそこらでやはり家臣に殺され、三河が今川の属国になってしまった。家康は義元の人質に。幼児期から苛酷な日々でした。長じて信長・秀吉という大天才、中天才に膝を屈して接すること二十年。屈折が家康に憎らしいほどの陰影を与えます。長い間、頭を低くして我慢を重ね、最後に、周囲も知らないうちに頂点に登りつめた巧妙さ。秀吉は信長の弟子ですよ。先人の天才性を見事に自家薬寵中のものにしている。しかし家康は違います。徹底した策士であり、終生、政治家、治世家であり続けました。秀吉が天下を取るや、急速に政治手腕が鈍り、我が子秀頼かわいやの凡人になり下がってしまったのと対照的かもしれません。
 家康は難局に直面すると、動きません。危機が訪れると、他の者ならば逃げ出すのに、その場に根が生えたように坐り込んでしまう性分です。桶狭間の合戦でも、今川義元の死を自分で確認するまで、現場にじっとしている。一見、消極的だけれども、なんとか生き延びようと、懸命に手だてを考えています。
- 秀吉と家康の覇権争奪の争いである小牧・長久手の合戦(天正十二年=一五八四)でも、ナンバーツーにいることで、命脈を保つことができたわけですね。
津本 家康は秀吉と闘う前に着々と事前交渉をすすめます。まず、土佐の長宗我部元親や越中富山の佐々成政と意を通じます。次に紀州の雑賀衆、根来衆、畿内の門徒衆を味方につけ、秀吉を包囲。これだけでは不安なので信長の次男信雄を誘い、自陣につけます。表面上は、信雄がナンバーワンのかたちですね。この合戦は長びき、信雄が秀吉と単独講和をむすび、戦闘の大義名分を失った家康も遅れて講和を。ここで家康は男を売りました。秀吉は、信孝を自害させるために信雄を利用しましたが、利用価値がなくなると、今度は信雄排斥の策に出ます。窮地に陥った信雄を扶けたのが家康という図式ですね。家康は計算したように、天下をとるまで長生きしますね。前田利家のように六十歳前後で寿命が尽きるのが普通の時代に。
津本 利家があと五年ほど存命していれば、戦国の様相はがらっと変わっていますね。豊臣政権の長老・利家は秀吉薨去の翌年、あとを追うように亡くなっていますが、そのあと、五大老五奉行による集団合議制が急変し、武断派の幹部は文吏派の頭目、三成の命を狙うようになりました。文吏派と武断派の対立は朝鮮出兵以来ずっとあったんですね。三成は驚くことに家康の伏見屋敷に逃げ込み、家康は武断派を懐柔するとともに三成に佐和山への蟄居を命令。自分は伏見城に入城、実権をにぎります。えらいことですよ。家康は関ケ原の合戦で五十九歳。現代でいうと八十歳ぐらいの感じでしょうか。ご承知のとおり、このあと十六年間も元気なんですからね。
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■希代の治世家に家康は変身

<本文から>
津本 しかし、ここに至るまで家康は水面下で懸命の努力を重ねています。九月一日、江戸城をたつまでの四十日間に、百八十通もの親書を諸将に書き送っています。彼の生涯にこんな時期はありません。ほとんどが不渡り。空手形に終わるのですが(笑)。とにかく俺に味方してくれれば加封と新領地は固く約束すると。こんな甘言と同時に桐喝もして、三成方の諸将を切り崩し、じわじわと自分に有利な態勢をこしらえていく。これは戦国の世では常套手段。本能寺の変でも秀吉は備中高松から畿内の大名に向けて使者を出し、信長が生きているかのような話をさせています。高槻の高山右近や筒井順慶なんか、見事に騙されちゃつて。当時はテレビも、パソコン通信もありません。ひょつとしたら本当かな。そう思わせたら、しめたもの。でも、家康の密書をもらった方も、計算をしています、しっかりと。調略を受けていた南宮山の毛利、吉川にしろ寝返った小早川にしろ、西軍有利とあれば、密約など軽々と反故にして、東軍陣地に突撃したはずで、おそらく西軍は圧勝を収めたでしょうね。
- 家康が措いた青写真どおりに、ことは運ばれたのですか。
津本 いや、そうじやありません。実に微妙な戦いで、家康にすれば地獄の淵に立たされ続けるような、勝つ可能性のかなり低い合戦だったでしょう。「週刊文春」に連載中も、関ケ原の合戦に場面がすすむと、自分でも興がのり、夢中になりました。予定回数もここで大幅に延びて(笑)。何が面白いかというと、東軍不利の戦況をさまざまな手口で逆転させていくプロセス。そして最後に半日の戦いに西軍を誘い出す巧智。雌伏しつつ雄飛のときを待つ姿勢。その手際の鮮やかさ、思いきりの良さ……。勝敗の帰趨は賽の目の如きであったでしょう。土壇場までどちらに転ぶか見当がつかなかった。本当に不思議な大合戦です。明治のお雇い軍事顧問のドイツ人メッケルは、関ケ原の布陣図を手にして「ああ、これは東軍の大敗だ」と断言。勝敗を事前に知らされていなかったからですが、専門家が診ても、こうなのです。やはり、最後は家康のカリスマ性に帰結するんだなあ。家康のカリスマ性が西軍の不安感を煽り、結束を阻止し、疑心を生じさせています。指導者がしっかりしないと我々が困る。思慮ある武将は悟っていたことでしょう。三成では駄目だ。官僚としては優秀だが、家康とは器量が違いすぎる。西国の盟主・毛利も当主輝元は戦国三代目で、凡庸の風評が絶えない。この合戦は日本史の分水嶺になろう。早晩、日本は新しい時代を迎える。乱世から平安の世へ。そのとき誰が指導者に最もふさわしいか。思うに家康は江戸城に拠点を移した段階、天正十八年(一五九〇)で、治世への準備をすすめていたんじゃないですか。応仁の乱から乱世は百二十年続いた。国の民はうんざりしている。民衆が切望する安定した世の中をつくり、安土桃山のような華麗さには欠けるが、我慢と協調、努力と克己を基調にしたおだやかな国に転換していくべきであろう。そう設計図を心の奥底に秘めていたんじゃないですか。
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■秀忠が死ぬ頃には江戸幕府の地盤は磐石

<本文から>
二木 徳川二百六十年の基盤は家光のときにつくられたとよく言われるんですけど、その前に家康と秀忠がいたからこそです。秀忠は四十五歳で将軍職を二十歳の家光に譲りますが、その後十年ぐらいは大御所として家光を補佐していて、秀忠が死ぬ頃には、もう江戸幕府の地盤は磐石になりつつあったんです。秀忠は家康が立派すぎるため、小粒だとか、律儀、真面目とかいった評価ばかりされるけれど、私はかなり元気のある人だったと思うんですが。
津本 それを証明するのが取り潰しが多かったことで、それで睨みを利かせていたんです。私が『風流武辺』という小説で書いた上田宗箇という茶人がいます。秀忠ともお茶の友達であったわけですが、浅野家のお家騒動に巻き込まれて、宗箇もその娘も殺されてもおかしくない状況になったときに助かったというエピソードがあるんです。それは、秀忠が藩主の浅野長尾に、「手を出すな」と手紙で指示を出していたからで、藩主が自分の家来やその娘を成敗できないぐらい秀忠が怖がられていた証拠だと言えます。
二木 家康は、昔からの付き合いで義理人情もあるから、外様大名にはどうしても遠慮がある。その点、秀忠は二代目だから、平気で汚れ役もできるんです。福島正則、田中忠政、最上義俊の改易などはまさにそれで、なかでも典型的なのは、加藤清正の養子の忠広の改易です。これは家光の時代ですけど、やっているのは大御所の秀忠です。こういうバサッと切れるところは、秀忠のきつい性格ゆえで、人情家の家康とは大きな違いがありますね。
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■いちばん豊かだったのは家光の時代

<本文から>
二木 家康はずっと貯蓄、貯えできて、秀忠も使わなかった金を、家光はどんどん使ったという格好です。しかしそんな黒字減らしは、江戸の商人階層の興隆にも繋がったわけで、寛永時代ということでは、その点も見逃せないところです。
津本 それだけ浪費しても、家光から家綱への遺金は、秀忠から貰った二倍強になっていたというんですね。
二木 使うだけ使っても、まだ増えているところがすごいですよね。
津本 それが、家綱の時代になって、空っけつになってしまうんです。金は佐渡でわずかに掘り出されるだけで、銀も家康の時代の十分の一です。そこに明暦三年(一六五七)の振袖火事が起こって、何もなくなっちゃうんです。
 加えて、外様大名の取り潰し政策で、年貢も減ってきました。百姓一挟を起こせば取り潰しですから、百姓に甘くなって、吉宗の時代には、三公七民にまでなっています。
二木 元禄の時代になると金貨の質も悪くしなければいけなくなりますし、その後、江戸幕府の財政は破綻したままです。結局、いちばん豊かだったのは家光の時代だったということで、家光が金をどんどん使って商人階層を勃興させたということは、金はあるけど使われていないという現代に対しての警鐘にもなるのではないかと思います。
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■体制が出来上がると思考停止になる日本

<本文から>
津本 徳川三代から、現代において学ぶべき点はと言えば、家康の政権が出来る過程で、戦国武将の二世、三世があっと言う間に、思考停止、体制順応になってしまったということが挙げられます。
二木 天下統一までの戦国武将は槍一筋で、潰されないように、自分の考えで頑張っていたんだけど、天下統一されると途端に駄目になってしまう。
津本 そうなんです。秀吉政権が出来て、わずか二十年で、二世、三世は思考停止状態になって、二世三世は自分の判断をしなくなる。だから、家康の手紙にもコロコロ騙されて家康の天下になってしまった。
二木 家康にとっては幸いだったけれど、日本人の体質としては問題だと……。
津本 そういうことです。いったん、体制が出来上がってしまうと、すぐに観念して、それに慣れちゃうということですね。日本の歴史を振り返ると、江戸時代、日露戦争に勝ってから第二次大戦の敗戦まで、そして戦後の経済成長から現代までと、ある体制が出来上がると、皆思考停止して、何かが起きるまで目が覚めないんですよ。
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