津本陽著書
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          商人龍馬

■外国との通商を

<本文から>
 龍馬は、外国と通商することがなぜいけないのかと考えていた。彼の本家である才谷屋、親戚のヨーロッパと呼ばれる下田屋は土佐の物産を長崎へ運び売って、鉄材を買い入れてきて収益を得ている。隔たった土地を船を持ち往来して商えば、物価の相場が各地によって違うので、収益が大きくなることを彼は知っていた。
 アメリカ人がどんな考え方をしているか知らないが、どっちも喧嘩をしないで商売をすればお互いに利益が濁られると龍馬は思う。
 そういう思考が、侍たちの攘夷の考えと違うところであった。 
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■脱藩後、薩摩に入れず

<本文から>
 龍馬は、丸亀で剣術修行をする間に稽古の期間を延期する願書を藩庁へ差し出し、許されて長州萩に向かい、長州尊王派の幹部久坂義助に会った。そののち大坂に向かい、さらに京都に出て天下の形勢を視察したのち、土佐に帰った。文久二年(一八六二)二月二十九日のことである。
 龍馬は四カ月に及ぶ外遊ののち、いったん高知に戻ったが、三月二十四日、従兄弟の沢村惣之丞とともに脱藩した。土佐にいては勤王発と吉田元吉との対立に巻き込まれると見たためである。
 龍馬と沢村惣之丞は脱藩したのち長州三田尻に着き、さらに下関に至った。下関には豪商白石正一郎の屋敷がある。龍馬はそこでしばらく足をとどめたのち沢村と別れ、九州へ向かった。その後の龍馬の消息が史実に表れるのは六月十一日のことである。
 二カ月半ほどの間、龍馬がどこにいたのかはっきりとはわからない。鹿児島に向かい入国を断られ、大坂に戻ってきたといわれている。
 大坂では沢村惣之丞が公家に仕えていて、いったんそこで足をとどめていた。
 龍馬が脱藩したあと、高知では吉田元吉の暗殺事件が起こった。四月八日夜、土佐勤王党・那須真吾らが、藩庁から戻る元吉を襲撃し首を取ったのである。このため山内容堂は勤王党を憎むようになる。
 龍馬は下関を離れ、四国の宇和島から豊後の臼杵に渡り、鹿児島に入ろうとしたようである。
 友達の今井純正が、長崎の蘭法医の学塾で知り合った薩摩藩士・市来四郎の紹介状をくれたので、それを持って宿場口の関所を通ろうとした。
 鹿児島には大砲鋳造の反射炉、溶鉱炉、錐通し台、西洋型軍艦の造船所、ビードロ(ガラス)、紡績の工場があるという。龍馬はそれらの新設備を目にしたかったが、関所に勤めている下役人にまるで相手にされず追い払われた。
 彼らは市来四郎の紹介状を信用せず、わざと理解できない薩摩訛りで喚きたて棒を振り回して追い払おうとした。
 「つてを求めざったら、なんちゃあできん」
 龍馬は熊本から長崎、豊後へと回り歩く間に、失望を重ねるばかりであった。
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■自由闊達で争いをせず、富を得て日本を変えようとした

<本文から>
 京都では毎日のように、天誅と称して幕府の犬と見られる人々を暗殺する傾向が強まっていた。なにしろ京都町奉行所の与力、同心たちを、幕府が江戸へ呼び戻そうとしているほどである。「安政の大獄」で多数の志士を捕縛、殺害した彼らが、京都に充満する尊攘派に殺害されかねない情勢であった。
 龍馬は、尊王攘夷のうち、攘夷は現実には実行できないことを知っている。尊王には特に反対ではない。現在の腐りきった上土階級をくつがえし、軽格の侍たちのなかから能力に優れた者が出現してくるのは喜ぶべきである。龍馬も土佐藩の坂本権平の弟として、社会に何の足がかりもない立場で世を終えることに甘んじるつもりはなかった。
 今、世の中は大変動を起こしている。武市半平太のように一藩尊王を唱え、上土に代わって下士が藩政を動かすという計画は、龍馬にはどうしても絵空事としか思えない。確かに何の身分もなく、後ろ盾とする藩も持たない一介の浪人龍馬が、世渡りをするには様々の苦労を重ねねばならない。
 半平太は土佐藩の藩政を裏面で動かす実力者として、薩長の二大雄藩と提携し、国政の檜舞台へ乗り出していくつもりである。本当にそれができれば、半平太は龍馬には及ぶことのできない高い地位に上がれる。
 しかし、龍馬は山内容堂を信用していない。容堂は、自分が土佐藩を掌握しなければ承知しない。半平太のような軽輩が藩政に口を出せば、最後は殺されるに決まっていた。
 それよりも、これから避けられない海外諸国との交易の中心に乗り込み、巨大な富をつかみたいと龍馬は考えていた。富は政治に使うのである。政治を動かす人物たちは金によって動く。
 龍馬は、普通の侍とは違う自由闊達で争いを好まないのびやかな性格であった。
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■勝麟太郎との出会い

<本文から>
 龍馬が万次郎の紹介状を持って長次郎に連れられ勝麟太郎に会いに行ったのは、八月半ばの朝であった。赤坂秀氷川下の屋敷で、隣が盛徳寺という大きな寺である。
 麟太郎は長次郎が連れてきた龍馬に会って、一度面識のある彼が鍋墨をぬったように真っ黒に日焼けしているのを見て驚いた。口をあけると歯が白く、座敷に座っているとうす暗がりの中で目玉が光るだけである。
 麟太郎は龍馬に言った。
「用向きは中浜万次郎からおよそ聞いているが、俺の弟子になりたいか」
 龍馬は手をついた。
「是非にもおたの申します」
「大きな男じゃなあ。六尺はあるか」
「ちくと足りませぬ」
「お前さんは俺の弟子になって何をしたいかね」
「蒸気船の扱いを覚えたいがです」
「ほう。なぜ覚えたいのかね」
「これからは蒸気船がなけらにゃいかんと思っちょります。土佐にいても世間の変わりようがさっぱりわからんがです」
「そうだろうよ。お前さんは尊王と攘夷についてどう考えているのかね」
「攘夷はとても無理ですろう」
「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをするのかね」
 龍馬は声を大きくして言う。
「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりますろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいかんですろう」
 麟太郎は笑った。
「お前さんは土佐にいながら天下の形勢をよく知ってるじゃないか。そのとおりだよ。それで俺の門人になって航海術を身につけるかね」
「はい。というても俺はオランダ語や算術を勉強するには頭がようないき、先生のそばにいてその脳みそのえいところばあ頂戴したいと思っちょります。先生の足代わりになって何でも働きますきに使うてくだされ」
 麟太郎は大笑した。
「お前さんはなかなか正直だ。その年になって航海術を学ぼうとしても年数がかかるからのう。それでやめさせようと思っていたが、俺の手足になるか」
「はい。命を投げ出しますろう」
「そうか。お前さんは俺に命を預けるか」
「もちろんです。向でも教えてつかあさい。世の中で何がいっち大事なことか教えてもうたら、その方へ走りますき」
「それじゃあ俺の塾へ長次郎と一緒に通うがいい」
 龍馬は平伏して礼を述べ、早速言い出した。
「俺は今日のご登城からお供して参りますきに」
「何だ、気の早いやつだなあ」
 麟太郎は聞く。
「お前さんはどこで剣術を習ったんだい」
「今は京橋桶町の千葉道場で、師範代として弟子らあに教えちょります」
「柔はどうだ」
「国元で小乗流をやりました」
「よし、わかった。今日から供をしろ」
 勝麟太郎は幕府に、西洋諸国と対抗できるほどの陸海軍を日本で組織するための意見書を提出していた。その内容は、江戸湾、大坂湾の海防要塞を設置するほか、日本全国を東海、東北海、北海、西北海、西海、西南海の六つの地方に分けて、艦隊を置く案を示したものである。
 海軍を作るためには、大名に毎年石高に応じた経費を出させる。その財源として海外貿易を許す。支出する金は十万石について蒸気軍艦一隻、五万石について洋式帆船一隻。一万石の大名は三、四藩集まって、帆船一隻の費用を出す。この方式によれば、六つの艦隊三百隻を組織するのは至難のわざではなかった。
 龍馬が麟太郎の門人になってまもなく、江戸城大広間において将軍家茂出座の上で大評定が開かれた。その場で麟太郎は、幕府老中奉行らの質問を受けた。
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■土佐の一浪士から、天下の諸侯に名を知られる

<本文から>
 龍馬は五月も末近くなって、福井へ向かった。松平春嶽に面会し、海軍塾の資金援助を頼むためである。
 今、龍馬は土佐の一浪士から、天下の諸侯に名を知られるほどの立場に置かれていた。大久保越中守は龍馬を、真の大丈夫と評価し、それが諸侯に伝わっていて、京坂の地にいても龍馬は志士たちから重視されていた。
 龍馬は松平春嶽に謁見し、神戸海軍塾の運営資金千両の出資に応じてもらったあと、横井小楠と三岡八郎(のちの由利公正)に会い、歓談した。横井、三岡の経済政策、京都上洛計画は、実に慎重で学ぶべきところが多かった。
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■龍馬は薩摩の五代に自分の将来の理想像を見る

<本文から>
 グラバーは龍馬より三歳年下であるが、長崎の貿易量の八割を一手に引き受けているといわれる男であった。
 五代才助は文久三年(一八六三)薩英戦争のとき薩藩汽船に搭乗していて、イギリス艦隊の捕虜となった。そのあと、故郷へ帰れば捕虜となった罪を追及されるため、家老小松帯刀らの計らいでグラバーのもとにかくまわれていた。
 五代は、今では薩摩藩の長崎貿易主任者ともいえる立場についていた。
 龍馬は五代から色々の情報を聞いた。薩摩藩が上海に輸出する国産品は様々あるが、そのうち砂糖は天下無双の産物だ。白砂糖の精製機械を買い込めば、たちまち年に数万両の利を得ることができるという。龍馬は五代と話が尽きなかった。
 五代は、日本から輸出する貿易品については、小型蒸気船で日本の沿岸を一周させ、地元の産物の仕入れ価格を調べさせる。その上で蒸気船五、六隻を使い各地の商品を集荷、輸出するのである。
 龍馬は、五代に自分の将来の理想像を見た。
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■技術者でもないのに彼らの棟梁としての貫禄を備えていた

<本文から>
 西郷吉之助は、大坂屋敷に預かった蒸気船運航の専門家である龍馬たちを用いる方法を既に決めていた。薩摩藩士であれば幕府に追及されかねない貿易をさせるのである。
 西郷は、勝麟太郎が龍馬を身辺から離さなかった事情をよく知っている。龍馬には、政治について斡旋する才能があった。土佐藩郷士の弟という軽い身分で、武家社会では信の置けない立場にある人物であった。
 だが麟太郎は、その龍馬を幕府の開明派として名高い大久保越中守(忠寛)に会わせ、越中守は龍馬に惚れ込んでいる。
 越前老公・松平春嶽も、またその懐刀と知られている横井小楠も龍馬の才幹を認めていた。
 龍馬には、明るい性格で人をひきつける徳と、時代の闇を切り開いてゆく才能がある。吉之助も龍馬と話をするうち、いつのまにか弟を見るような和やかな気分になっていた。
 龍馬は、航海に必要な算術、代数、幾何、三角関数、平面三角法、球面三角法、対数の計算などにはまったく関心がない。
 太陽を観測して船の位置を割り出す、六分儀の使い方も知らない。帆を張ることや蒸気缶の缶焚きのような体力のいる仕事だけをこなす。だが、彼は技術者でもないのに、技術者たちを使いこなす棟梁としての貫禄を備えていた。
 龍馬に従う五人の同志は、航海術の専門家であるが、彼らだけでは何ごともできない。
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■薩長連合

<本文から>
 木戸は、龍馬がただの浪士ではないことを知っている。勝麟太郎の側近として天下の名士と交流した人物である。しかも、長州の軍備増強に非常の働きをしていた。
 木戸は、龍馬に本心を打ち明けるべきだと判断し、内心のすべてを告白した。
「あなたの言うところはもとより正しい。しかし今日の薩長の間柄には、一朝一夕にはできないしこりがある。今、わが長州藩は天下に孤立し、今日の災厄を招くに至ったが、天朝の臣子として当然であるから何の不足もない。薩州は公然として朝廷に出入りし、公然として幕府と会合し、公然として諸侯と交わっている。おのずから天下に公然と尽くしてしかるべきだ。
 わが長州は天下みな敵、征伐の軍勢は四境に迫った。藩内の武士、民衆も死ぬ覚悟でこれに当たろうとしている。危険のきわみである。この有り様で長州が今薩州と軍事盟約をともにすれば、彼を危険の地へ誘うことになる。これは援助を請うことに他ならない。私は恥辱と思う。薩州がこののち皇室に尽くすなら、長州が滅亡しても天下の幸いである。私は連合のために決して薩州に頼みはしない」
 龍馬は木戸の言葉を聞いて、手を打った。
「さすがにお前んは侍ぜよ。そげなことなら、お前さんのほうから連合を頼むことはできんろう。わかった。ここはまかしとうせ」
 龍馬は直ちに西郷に会い、火花の散るような勢いで木戸の心中を告げ、薩藩側から連合を申し出るべきだと説いた。
 西郷は、実は龍馬の到着を待っていた。彼は自分からは言えない本心を龍馬が代弁してくれたことを喜び、その場で小松帯刀ら要人を説得して木戸を引きとめ、薩藩側から連合の相談を持ち出すことにした。
 会合が始まると木戸は、これまで薩州と長州はかようかようの間柄であったが、長州の意思はこのとおりであると、従来の行きがかりを詳しく語った。
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■陸奥宗光の龍馬評

<本文から>
 陸奥源二郎(宗光)は神戸海軍操練所以来、龍馬のそばを離れず、海援隊に加わり、様々の商社・貿易事業について欧米の商法を研究し、龍馬の高い評価を受けていた人物である。
 彼は後年、龍馬の才能について評している。
 「坂本は経世史上の一大傑物で、その融通変化の才に富めること、その識見・理論が高く、他人を納得させ、感銘させる能力は当時の人材のなかで右に出る者はなかった」
 陸奥は、龍馬と後藤の功績について、次のように論じた。
 「坂本は、薩、長、土の間にわだかまっていた旧来の因縁を解き放ち、幕府に対する一大勢力を興そうとした。幕府に対しては平和、無事の間に政権を京都に奉還させ、諸侯を率いて朝廷に従い、事実において将軍を太政大臣となし、名目においては諸侯と平等の朝臣とする。それによって無血の革命を遂げようとした。
 坂本は土佐藩の一浪士で、幕府を働かす立場にはなかった。そのため、彼はことを行うにあたり、後藤が最も適当の人物であると判断したのである。山内容堂侯の信頼を受け、会議にあたっては他を圧する気迫、爽快な弁舌、重大事件をも軽々と扱う大胆な長所によって難事を成し遂げると思ったのであった」
 龍馬は、海援隊士に多くの秀才を抱えていた。衆議に諮り、万機を公論によって決めるという方針は、『万国公法』、あるいは福沢諭吉の『西洋事情』などを読んだ若い隊士たちに聞かされ、深く理解したのである。
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■大政奉還の感想

<本文から>
 慶喜は答えた。
「もっともなる次第なり」
「かしこみてありがたく存じ奉る」
 後藤象二郎も、小松に続き短く礼を述べて退いた。将軍慶喜は何のためらいもなく大政奉還を受け入れたのである。
 象二郎は藩邸に帰ると直ちに、龍馬に送る手紙を長岡謙吉に渡した。
「ただいま下城、とりあえず今日の様子を申し上げる。大樹公(慶喜)は政権を朝廷に返すとの号令を示した。このことを明日奏聞し明後日に参内、勅許を得てすぐさま議事堂を仮に設け、これに上院、下院を創業することに運べり。実に千載の一遇、大慶至極である」
 龍馬は象二郎の書状を読んだのち、傍にいた海援隊士・中島作太郎に言った。
 「将軍家の今日のご心中深く察し奉る。よく決断を下されたものだ。俺は誓って慶喜公のために命を捨てよう」
 龍馬の感想には、いまひとつの記録がある。
「これでまず序幕を開いたぜよ。これよりせにゃあならんのは中幕の幕組みじゃ」
 どちらが龍馬の本音であったか。後者であろう。
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