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<本文から> 龍馬は、丸亀で剣術修行をする間に稽古の期間を延期する願書を藩庁へ差し出し、許されて長州萩に向かい、長州尊王派の幹部久坂義助に会った。そののち大坂に向かい、さらに京都に出て天下の形勢を視察したのち、土佐に帰った。文久二年(一八六二)二月二十九日のことである。
龍馬は四カ月に及ぶ外遊ののち、いったん高知に戻ったが、三月二十四日、従兄弟の沢村惣之丞とともに脱藩した。土佐にいては勤王発と吉田元吉との対立に巻き込まれると見たためである。
龍馬と沢村惣之丞は脱藩したのち長州三田尻に着き、さらに下関に至った。下関には豪商白石正一郎の屋敷がある。龍馬はそこでしばらく足をとどめたのち沢村と別れ、九州へ向かった。その後の龍馬の消息が史実に表れるのは六月十一日のことである。
二カ月半ほどの間、龍馬がどこにいたのかはっきりとはわからない。鹿児島に向かい入国を断られ、大坂に戻ってきたといわれている。
大坂では沢村惣之丞が公家に仕えていて、いったんそこで足をとどめていた。
龍馬が脱藩したあと、高知では吉田元吉の暗殺事件が起こった。四月八日夜、土佐勤王党・那須真吾らが、藩庁から戻る元吉を襲撃し首を取ったのである。このため山内容堂は勤王党を憎むようになる。
龍馬は下関を離れ、四国の宇和島から豊後の臼杵に渡り、鹿児島に入ろうとしたようである。
友達の今井純正が、長崎の蘭法医の学塾で知り合った薩摩藩士・市来四郎の紹介状をくれたので、それを持って宿場口の関所を通ろうとした。
鹿児島には大砲鋳造の反射炉、溶鉱炉、錐通し台、西洋型軍艦の造船所、ビードロ(ガラス)、紡績の工場があるという。龍馬はそれらの新設備を目にしたかったが、関所に勤めている下役人にまるで相手にされず追い払われた。
彼らは市来四郎の紹介状を信用せず、わざと理解できない薩摩訛りで喚きたて棒を振り回して追い払おうとした。
「つてを求めざったら、なんちゃあできん」
龍馬は熊本から長崎、豊後へと回り歩く間に、失望を重ねるばかりであった。 |
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