津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          過ぎてきた日々

■化学肥料の会社に入社

<本文から>
 会社へ入ったとき、私は仕事に精をだしてはたらこうと思った。勤勉努力の習慣が身についていたからである。誰がそんな習慣をつけてくれたのか。母であった。
 母は戦後、預金封鎖、農地改革、財産税によって傾いた家運をたてなおすのは、私の義務であると、常にいいつづけた。
 そのため私は心の余裕がなくなり、なけなしの能力をふりしぼって、いつもあくせくと努力してきた。努力の結実はたいしてなかったが、何事にも真剣に、目の色を変えて立ちむかう習慣に支配される、気のちいさい青年になった。
 だが、会社の上司の気にいられ、引きたててもらい出世しようという気はなかった。入社したとき、まったく無縁の世界に入りこんだと感じた。
 毎日出勤するのは、月給をもらうためであった。家では滞納している税金を清算するため、毎年貸家を一軒ずつ物納しているような状態である。私が給料をもらってくれば、物納のスピードがいくらか遅くなる。
 会社は化学肥料を製造していて、時流に乗っていた。私が入社したとき、初任給が日本一であるという新聞記事が出た。経営者は、そんなことを喧伝されたいのであろう。
 給料のいいわりあいには、ボーナスがすくなかった。しかし、よほど儲かっていたのであろう。大入袋のような紅く縁を染めた祝儀袋に五百円とか千円を入れて、毎週くれる。
 私の遠縁の人が重役であったが、瀬戸内海にある工場の製造部長をしているので、大阪本社へはめったにあらわれなかった。
 その人は本社の総務部長と仲がよかったが、私の配属された購買課の課長は副社長の腹心である。社内にいくつかの派閥があり、私は親戚の人の属する派閥とは縁のないポストに配属された。
 学校を出て、はじめてのぞいた社会が購買課であった。会社の資本金は一億二千万円であった。いまの貨幣価値にすれば、百数十億円といったところであろうか。
 本社購買課で扱う資材、建設工事の総額は、年間一億円前後、大工事のあるときは二億あるいは三億円になることもある。
 私が入社した翌年の昭和二十七年、課長は資本金にひとしい金額である一億二千万円で、自家発電装置を購入した。
 建設ブームの時代で、設備を拡張し増産すれば、製品の売り先には困らない。そんな時期の購買課にほ、毎朝資材納入業者がつめかけてくる。
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■小説は未経験だが、会社を辞める決意して志す

<本文から>
 会社を辞めて小説を書くといっても、小説家として生活している人は、広い日本の中でどれだけいるのか。ほんのひとつまみの才能ある人達だけの社会ではないか。私は小説家の社会が真夏の遥か遠方の空に聳え立つ積乱雲の塔のように掴みがたいむなしい幻影だと思っていた。
 私は小説を書いたことがない。習作一枚すら書いた経験がなかった。社内で稟議書の案文を書けば、その文章をうるさい重役たちが無条件で通すことが、自分の文章の力であるとひそかに恃むほどのことで、自分に衆に優れた文才があるなどとは思うことができない。
 購買課での私の地位は次第に上がり、誰にも遠慮をしないですごすことができた。
 私の担当する業務の窓口に集まる業者は、一流企業から中小企業まで約百五十社である。各社の営業担当者から頭を下げられる立場にあり、サラリーマンとしては滅多にない恵まれた職場であるといえた。
 だが、私の胸のうちには、こうしてはいられないという呼びかけが絶え間なく湧き起こってくる。
 叔父さんは事業であれだけ成功しても、満六十歳をむかえる前に逝ってしまった。義兄の司もおなじだ。五十二歳で亡くなるとは、思いがけない災難のようなものだ。人の一生はいずれにしても夢のように儚い。
 いつかは消え去っていかねばならない人生であれば、毎日同じことのくり返しでぬるま湯に浸かっているような生活をやめ、自分の力を思う存分に発揮してみたい。いまのうちだ。やめるなら三十五歳までだ。
 私は自分を叱咤する。
 やめてどうするか。父弥六は病床についていた。
 和歌山には、戦後の財産税、預金封鎖、農地改革などさまざまの経済変動の風波を受け、ほとんど売り払った不動産の一部がなお残されていた。
 それらの土地家屋はすべて賃貸されていて、借地人借家人は戦後の状況の変化を背景に、四重五重のまた貸しをするなど傍若無人の違法行為をくり返していた。
 日本は法治国や。法律で解決できないことはない。あの不法行為をやっている連中を法によって追い出して、その空き地に新しい賃貸物件をこしらえれば生活ができる。
 法学部出身の私はおおよその方向を考えていた。
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■初めての小説

<本文から>
 私は、初めてみる同人誌集団の自由な空気に居心地の良さを覚えた。後輩が先撃に譲るわけでもなく、挨拶をするわけでもない。自由に話し合って小説を語ればいい。
 「やっぱり小説家の集団というのは雰囲気が違うものやなあ」
 家に帰った私は温子に感想をいった。
 私は編集者の西川という人から何か文章を書けといわれた。
 「何でもいい。名刺代わりや」
 家に帰ってどんなものを書けば良いんだろうと考えあぐねた。
 小説というのは一体なんだろう。今まで面白おかしく読んできたものが小説であるが、厳密に小説とはどのような形をとればいいのだろう。実際に文章を書く段になれば、様々の疑問が湧いてくる。何を書けばいいのか。
 私は頭をひねった。
 結局、六十歳で若死にした叔父の最期の有り様を書くことにした。
 自分と血のつながっている叔父の最期に当たって、悩み悲しんだ姿は身にしみてよくわかる。人生のはかなさを教えてくれた叔父の死のすがたを作文すればいいと思って書き始めた。
 その頃は、明渡された土地の一部にトタン張りのシャッター付きガレージを二十戸ほど建て、そこから得られる収入は会社にいた頃の給料の二倍ほどになっていた。表を走るトラックの振動を聞きながら、奥の座敷で懸命に原稿を書いた。
 四十枚ほどが出来上がった。短篇小説として何とか仕上げたいとがんばったが、仕上がりは作文に過ぎない。事業で成功して、思いがけない癌による死を迎えた無念極まりない最期の様子を描いた四十枚の原稿を持っていくと、編集者の西川は無造作に受け取った。たしか、それを渡したのは阪急電車の改札の手前にある小さなスタンドバーであった。
 西川は芥川賞、直木賞候補に四回なっている経歴の持ち主で、ビールを飲みながらいろいろと小説の呼吸について語ってくれた。その作品が意外に早く翌月の「VIKING」に掲載された。そして、ある大新聞の同人雑誌評で誉められた。
 西川はいった。
「もうひとつ書きませんか。今度は小説や。本格的なのを百枚くらい書いでください」
 初めて書いた小説は「丘の家」という作品であった。枚数は約九十枚である。
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■直木賞の受賞後

<本文から>
 直木賞を受賞したとき、銓衡委員のどなたかが、私を励まして下さった。
「君は登竜門へ入る鍵を手にしたんだよ」
 その通りだと、私は感動した。
 いままでは、書いた原稿をそのまま稚誌に掲載してくれる出版社などは、もちろんなかった。
 だが、これからほどの社でもうけつけてくれる。内容が悪いときは、つぎの依頼がこないだけである。
 この男は見込みがないと思われると、自分に力量がないのだから、世間から忘れられていって当然である。
 とにかく、一旦は腕試しをさせてくれる。こんなありがたいことはない。無名のときと比べると、夢のような恩恵を与えられたわけである。
 受賞第一作の依頼を、「別冊文藝春秋」からうけると、中学生のときB29の爆弾攻撃を経験した記憶を辿り、「昭和二十年一月十九日」という短篇を書いた。
 受賞した年も月間執筆量は、四百字詰原稿用紙で、六十枚から百枚ぐらいであった。和歌山で生活の基盤が固まっていたので、とりわけ物怯じすることもない。
 各出版社から短篇の注文がよくくる。編集者の人々と相談して、思いついた材料をなんとか小説に仕上げる。
 はじめのうちは、郷里和歌山を題材にする作品が多かった。土地の雰囲気がよく分っているので、なんとなく書きやすい。
 ひとりの編集者がいった。
 「津本さんは、二本の刀だけでなく、七本も八本も刀を持っているんですね」
 どんな材料でもがむしゃらに書き、ひとつの傾向に的を絞らないため、そのようにいわれたのであるが、職業作家となって間のない私は、どういう小説を書きたいのか、自分でも分らない。
 −俺は、何にも書きたくない。直木賞を貰ったのだから、これで消えてしまってもかまわない−
 とはなはだ無責任なことを考える。そうすると、プロとしての経験などまるでないのに、かえって大胆になって、幾つも短篇を書きちらした。
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■剣豪小説に取り組み

<本文から>
 剣豪小説を書くとすれば、ちょんまげをつけ、刀を振り回す主人公が出てくる。剣豪小説をそれまでまったく書いたことがない。時代小説も書いたことがない。まげをつけて刀を振り回す情景を描くのは、なんとなく気にそぐわなかったからだ。
 しかも当時の時代小説、剣豪小説は衰退期にあった。
 寒風が吹きすさんでいるといった状況である。しかし好奇心があった。まあいいか、一度書いてみるか。何から書き出すか考えてみる。
 私は、あたらしい仕事にとりかかるとき、あまりためらわない。
 なんとかなるだろうと思った。とにかく、やったことのない仕事を手がけるには好奇心がある。そこでまず「オール讃物」に短篇を隔月に一本ずつ連載することにした。
 話を取り決めてみると、いよいよ取り掛からなければならない。そのとき頭に浮かんだのは薩摩の示現流である。示現流、示し、現すという流儀は、攻めがあって受けがない。
 私は以前から示現流について興味があった。普通の道場剣法ではなく、戦場で実戦に使う殺人剣である。
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■信長への挑戦

<本文から>
 戦国期の様相が眼前にうかび、人物が動く姿が目に見えてくるまでに、時間がかかった。三十回、五十回と進んでゆくうちに、これはもうだめだと、進退きわまったような気分に幾度もなる。
 史料から史料へつなぐ部分が、どうしても頭に浮かんでこない。信長はこのとき、なぜこんなことをしたのだろうと、原因をあれこれ探しまわるが、まったく分らない。
 史料も、研究書も、私の問いかけに答えないでそっぽをむいているのである。
 「うーむ、これはだめだ」
 冬の夜中、外には雪が降っているというのに、脂汗が流れてくる。
 「どうしてもあかん。絶望やな」
 史料の山のなかに坐りこみ、もうどうにもならないとゆきづまったときが、あとになって考えてみると、転機がおとずれているときであった。
 天の啓示のように、力になってくれる書物が、あらわれてくるのである。私は救われ、生き返ったようになり、また書き進みはじめた。
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■小説家について

<本文から>
 私は、まえにも書いたが、小説家という職業で生涯を送るだろうとはまったく考えていなかった。
 いまでは、あとどれだけ生きるのか知らないが、寿命のあるかぎり、机にむかっての労作はつづくだろう。
 それはまさしく労作で、忍耐を重ねなければ送れない月日であるが、身内に湧き出てくる考えを、言葉につむぐ習慣は、自然に身についている。いつか現世から去ってゆくまで、延々とおなじ作業をつづけるわけだ。
 ときどき、生きているということは、笊で水を汲むような徒労に耐えていることだと、思うことがある。
 それでは、青年の頃は希望に満ちていたかというと、そんなことはまったくなかった。
 いまよりも好奇心がつよく、世間の物事が新鮮に見え、体がよく動き、行動範囲もひろかった。
 しかし、他人におくれをとっているようだという被害者の意識は、いまよりも激しく持っていた。
 いつも誰かに見られ、軽蔑されているような、軽い恐怖感のようなものが、身につきまとっていた。
 自分よりも財力があり、地位の高い男が眩しい存在に思え、自分は一生かかっても彼らのようにはなれないという劣等感が、薄い衣服のように身につきまとっていた。
 金も地位もない若者が、時として侮辱されたり、無視されたり、あるいは明日の食うものもなくなる環境に置かれたとき、野獣のように凶暴、剰惇になり、命がけで前途を切りひらいてゆくだろうことを、たやすく想像できたのは、その頃である。
 私ほその頃、自滅せねばならない状況に置かれたときは、おとなしく運命に従い亡びてはゆかないという覚悟を、身内に持っていた。
 そのときは、力のかぎりあばれまわり、思考の及ぶかぎりの活路を考えだし、なりふりかまわず生きてやる。
 不逞な塊を抱いていた青年は、会社員になると、同僚に倣慢にふるまい、上司に噛みついてゆき、そのような生活のなかで、我慢ならない退屈の作業をくりかえしつつ、胸のうちに血涙を流しつづけた。
 毎日会社で忙しくはたらきながら思い出として残すもののなにひとつない年月を送る無意味さのいたみを、いつか文章に書きつづらねば気が収まらないと考えていた。
 だから同人誌に参加したときは、自分の過去ばかりを書いていた。
 みじめな過去をそのまま書けば、なんとなく胸中のいたみがいやされるのである。
 小説の手法など、どうでもよかった。身内にうずもれた過去のいたみを、ひたすらなぞっていったのである。
 小説家となってのち、自分のことを書かなくなった。
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