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<本文から> 会社へ入ったとき、私は仕事に精をだしてはたらこうと思った。勤勉努力の習慣が身についていたからである。誰がそんな習慣をつけてくれたのか。母であった。
母は戦後、預金封鎖、農地改革、財産税によって傾いた家運をたてなおすのは、私の義務であると、常にいいつづけた。
そのため私は心の余裕がなくなり、なけなしの能力をふりしぼって、いつもあくせくと努力してきた。努力の結実はたいしてなかったが、何事にも真剣に、目の色を変えて立ちむかう習慣に支配される、気のちいさい青年になった。
だが、会社の上司の気にいられ、引きたててもらい出世しようという気はなかった。入社したとき、まったく無縁の世界に入りこんだと感じた。
毎日出勤するのは、月給をもらうためであった。家では滞納している税金を清算するため、毎年貸家を一軒ずつ物納しているような状態である。私が給料をもらってくれば、物納のスピードがいくらか遅くなる。
会社は化学肥料を製造していて、時流に乗っていた。私が入社したとき、初任給が日本一であるという新聞記事が出た。経営者は、そんなことを喧伝されたいのであろう。
給料のいいわりあいには、ボーナスがすくなかった。しかし、よほど儲かっていたのであろう。大入袋のような紅く縁を染めた祝儀袋に五百円とか千円を入れて、毎週くれる。
私の遠縁の人が重役であったが、瀬戸内海にある工場の製造部長をしているので、大阪本社へはめったにあらわれなかった。
その人は本社の総務部長と仲がよかったが、私の配属された購買課の課長は副社長の腹心である。社内にいくつかの派閥があり、私は親戚の人の属する派閥とは縁のないポストに配属された。
学校を出て、はじめてのぞいた社会が購買課であった。会社の資本金は一億二千万円であった。いまの貨幣価値にすれば、百数十億円といったところであろうか。
本社購買課で扱う資材、建設工事の総額は、年間一億円前後、大工事のあるときは二億あるいは三億円になることもある。
私が入社した翌年の昭和二十七年、課長は資本金にひとしい金額である一億二千万円で、自家発電装置を購入した。
建設ブームの時代で、設備を拡張し増産すれば、製品の売り先には困らない。そんな時期の購買課にほ、毎朝資材納入業者がつめかけてくる。 |
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