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<本文から> 太后はさらに告密奨励のため、由中に布令を発した。
「告密をする者があれば、役人はその内容の如何を問わず、駅馬を与え、五品の役人相当の食事を提供し、上洛させよ。農夫、樵夫のような身分の者でも、すべて召見し、客館で接待する。
いうところが太后の旨にかなえば、ただちに役人にとりたてる。また、告密が事実に反していても、処罰しない」
太后は、政治体制の外にいる庶民が、もっとも告密を好むのを知っていた。
匹夫匹婦は失うべきものを持たず、社会の上層にいる者を嫉視することが、はなはだしい。
太后の狙いは的中し、告密する者がむらがりあらわれた。彼らは地方の役所に告密を申し出て、馬車に乗って、宿駅ごとに鯨飲馬食、放歌高吟し、洛陽に至った。
太后の全土から陸続と洛陽をめざしてくる密告者たちは、宮中の行在所で太后の召見をうけた。
関内道(陳西省、甘粛省東部)、河南道(河南省、山東省、安徽、江蘇二省の北部)、河東遣(山西省)、河北道(河北省)、山南道(湖北省、四川省東北部)、隴右道(甘粛省隴山以西)、准南道(漸江省、福建省、江西省、湖南省、貴州省、湖北省南部)、剣南道(四川省)、嶺南道(広東、広西、ベトナム)から上洛した民衆は、役人、地主、富商らに抑圧されてきた鬱憤を、告密によって吐露しょうとした。
彼らをしいたげてきた有力者たちは、自らの悪行を密告されるかも知れないと、戦々恐々として夜も睡れない有様であった。
太后は密告者のうちから、索元礼という胡人を抜擢して、遊撃将軍〈従五品下)に任じ、制獄を司らせることにした。
元礼は、中央アジア系のペルシャ人であった。制獄は、武后が直接に支配する監獄で、政治犯を収容していた。
太后は元礼の残忍な性格を見抜き、政敵を根絶やしにするため、彼を利用しようとした。
元礼はひとりの容疑者を訊問するとき、その周辺の者を数十人から百人に及ぶまで捕え、拷問して自白を強要する。
容疑者が無実であっても、偽りの証拠をこしらえて、罪におとすのはたやすい。元礼によって、おびただしい無実の人々が死に追いやられた。
太后は元礼を重用し、しばしば賞賜を与えたので、宰相といえども彼の威権をおそれはばかるようになった。 |
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