津本陽著書
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          則天武后(下)

■太后は告密奨励

<本文から>
 太后はさらに告密奨励のため、由中に布令を発した。
「告密をする者があれば、役人はその内容の如何を問わず、駅馬を与え、五品の役人相当の食事を提供し、上洛させよ。農夫、樵夫のような身分の者でも、すべて召見し、客館で接待する。
 いうところが太后の旨にかなえば、ただちに役人にとりたてる。また、告密が事実に反していても、処罰しない」
 太后は、政治体制の外にいる庶民が、もっとも告密を好むのを知っていた。
 匹夫匹婦は失うべきものを持たず、社会の上層にいる者を嫉視することが、はなはだしい。
 太后の狙いは的中し、告密する者がむらがりあらわれた。彼らは地方の役所に告密を申し出て、馬車に乗って、宿駅ごとに鯨飲馬食、放歌高吟し、洛陽に至った。
 太后の全土から陸続と洛陽をめざしてくる密告者たちは、宮中の行在所で太后の召見をうけた。
 関内道(陳西省、甘粛省東部)、河南道(河南省、山東省、安徽、江蘇二省の北部)、河東遣(山西省)、河北道(河北省)、山南道(湖北省、四川省東北部)、隴右道(甘粛省隴山以西)、准南道(漸江省、福建省、江西省、湖南省、貴州省、湖北省南部)、剣南道(四川省)、嶺南道(広東、広西、ベトナム)から上洛した民衆は、役人、地主、富商らに抑圧されてきた鬱憤を、告密によって吐露しょうとした。
 彼らをしいたげてきた有力者たちは、自らの悪行を密告されるかも知れないと、戦々恐々として夜も睡れない有様であった。
 太后は密告者のうちから、索元礼という胡人を抜擢して、遊撃将軍〈従五品下)に任じ、制獄を司らせることにした。
 元礼は、中央アジア系のペルシャ人であった。制獄は、武后が直接に支配する監獄で、政治犯を収容していた。
 太后は元礼の残忍な性格を見抜き、政敵を根絶やしにするため、彼を利用しようとした。
 元礼はひとりの容疑者を訊問するとき、その周辺の者を数十人から百人に及ぶまで捕え、拷問して自白を強要する。
 容疑者が無実であっても、偽りの証拠をこしらえて、罪におとすのはたやすい。元礼によって、おびただしい無実の人々が死に追いやられた。
 太后は元礼を重用し、しばしば賞賜を与えたので、宰相といえども彼の威権をおそれはばかるようになった。
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■粛清の目的で重用した酷吏も粛清される道具

<本文から>
 酷吏を重用するのは、道具として使うためで、粛清の目的を達したのちに、彼らを生かしておく必要はない。酷吏たちもまたいずれは粛清されるのである。
 太后は抹殺すべき者と、登用すべき者を鋭敏に見分けていた。無実の罪に問われ、殺されるのは、彼女の反対勢力に何らかの形でかかわっている人々であった。
 太后の冷酷きわまりない粛清の方針は、旺盛な権力欲から導きだされるものである。中国人は現世の繁栄しか信じない。キリスト教徒、仏教徒のような現実の生活の苦難が来世で救われるといった信仰はなかった。
 太后の政権に対するすさまじい欲望も、このような現世への執着に根ざすものであったといえよう。
 中国でつくられた唯一の民間宗教は、道教である。そして道教のゆきつく目標は、不老不死の仙人になることである。
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■太后は人民の信望を失うような暴政は行わなかった

<本文から>
 農民たちは農繁期のほかは、冬には日向、夏には木蔭で、大勢群れ集まって長時間談笑する。現代中国農村でも、道端に盲人、あるいは二百人ほどの人々がたたずみ、しきりに語りあっているのを見かけるのは、この習慣の名残りであろう。祭礼か、集合が催されているのかと思うが、ただ語りあっているだけである。
 農民たちは談笑するあいだに、多くのニュースを交換する。彼らは単調な生活によく耐え、贅沢を望まない。支配者の圧制にも天災に耐えるように忍従する。
 だが、忍従の限度をこえた暴政をうけるといっせいに蜂起して大暴動をおこす。そのいきおいは奔流のようで、誰もせきとめることができない。
 太后は、人民の信望を失うような暴政はおこなうべきではないと知っている。彼女は仁傑の密奏をうけいれ、叛徒らを処刑することなく、嶺南の豊州(福建省)へ流罪とした。
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■反対する勢力の一掃をするが、有能の人材は温存した

<本文から>
 有功は険悪な様子をおそれることなく、神色自若として、酷吏たちと事実をあらそい、一歩も退かなかった。
 太后は有功を殺してやりたいが、彼の剛直な性格を高く評価していたため、不快をおさえるのみであった。
 彼女は手足に使っている酷吏たちが、鬼畜にひとしい者どもであることを知っている。唐朝を廃し、周朝をあらたに立て、自ら女帝となるために、革命に反対する勢力となりうる者を、ことごとく殺しつくさねばならない。酷吏たちはそのための道具である。太后は女帝となったのちは、彼らをすべて抹殺するつもりでいた。
 そのためにも、有功のような清廉、有能の人材は、温存しておかねばならない。
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■六十七歳で皇帝の座にのぼる

<本文から>
 ついに周王朝をひらく時期が到来した。太后は文武百官が、変容する時代の動きに遅れないよう、周囲の情勢を見守るうち、ついに心の制御を失い、余人にさきがけ太后に忠誠心をあらわそうと狂捜するのを見て、ひそかに満足した。
 −彼らは、唐宗室にかわって、私が新王朝を樹立しても、反感を抱かない。私の声威のまえに風になびく草のようにひれ伏している。民意はもはや、動揺することがないだろう。人民の団結にひびわれをおこすほどの者は残らず処断してしまったのだ−
 睿宗は九月五日、七日とくりかえし太后に譲位を申し出た。すべては、太后の立てた筋書き通りに運ばれた。
 太后は七日に睿宗から皇帝の命令として、制勅をうけた。
「三十余年にわたり天下を治められた太后が、いま万民の懇請をうけ、帝位の座にのぼられることを、朕は下命する」
 太后は、容宗と臣民の願いをうけいれた。実力によって大唐帝国を率いてきた太后の立場は易姓革命をまえに磐石のように不動であった。
 九月九日朝、太后は照りわたる秋陽のなか、宮城正門の則天門楼上に臨御した。黄砂を運んでくる西風は絶え、碧玉のように澄みわたった空には、雲の影もなかった。
 長安感業寺の尼として、生涯を終えるはずであった女性が、六十七歳で皇帝の座にのぼるのである。
 太后の、老いを知らぬ凄然とした声音が、則天門広場を埋める数も知れない官民の頭上に流れた。
「朕は皇帝、群臣及び百姓の帝を可とし、天命をうけ、天下に赦し、改元して唐をもって周となすことを宣するものである」
 群衆の歓呼が、地鳴りのように湧きおこった。
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■則天皇帝を支持するのは、万余の宦官、宮婢、下級役人

<本文から>
 彼女は政権を掌握する障げとなる者、あるいは将来障げになる可能性のある者のすべてを、容赦なく粛清し、弱肉強食の世を生き残ってきた。
 夫高宗の一族はもとよりわが一族、実子までもためらうことなく殺す、乾ききった非情の足跡は、凄惨をきわめている。
 則天皇帝が立てた周王朝は、古代の西周、東周のあとを継ぐものである。古代周王朝創建にはたらいた政治家は、周公、召公で、二人は天意を奉召する聖職者であったといわれる。
 天子という呼称は、古代周からはじまった。民衆のうえに立つ為政者は、天意にかなう徳をそなえた人物であるべきだとされた。
 衆人を威圧しうる呪力を持ち、それが天意にかなっているとき、徳性がなりたつ。
 則天皇帝が、徳において欠けるところはなかったかといえば、彼女ほど徳を無視した女性はいないと思える。
 だが彼女は、徳をそなえた者でなければ天子になれないとされた古代周のあとをうけ、周朝を立て、天下の反対をうけなかった。民衆の反対の声は、どれほど酷吏をはたらかせ、恐怖政治を敷いてもおさえることができない。
 弾圧すれば、それだけ激しく反撥してくる。中国の百姓は続治者が暴政をふるってもよく耐え忍ぶが、耐えきれない状況になると蜂起して大坂乱をおこす。暴君がかならず倒されるのは、隋の場帝の例によってあきらかである。
 則天皇帝は対立勢力をことごとく抹殺し、その一族をも掃蕩しつくした。彼女を支持する者がいなければ、その間に暗殺されていたにちがいない。
 則天皇帝を支持するのは、万余の宦官、宮婢、下級役人であった。
 彼らは、宗室諸王、高官たちの鬼のような半面を知っていた。現世の支配者たちは、その権力のもとに押し伏せている弱者たちを、家畜のようにはたらかせ、なぶった。
 則天皇帝は、彼らをいためつける上層社会の男女を、残酷なまでに粛清してくれた。民衆もまた、下情を知って苛斂誅求をおこなわない皇帝に柔順であった。
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■則天皇帝の施政は、契丹、突蕨の叛乱で行き詰まる

<本文から>
 則天皇帝の施政は、契丹、突蕨の叛乱によって、ゆきづまっていた。
 契丹薮乱鎮圧ののち、来俊臣が処刑されたのは、酷吏を用いての恐怖政治により、内政をかためることにもっぱら力を用い、対外政策をなおざりにしていた皇帝が、現状に気づいたためである。
 契丹、突蕨の蜂起に際し、周軍将兵の対応は遅かった。国威をさかんにするためには、軍制改革をおこなわねばならない。皇帝はそのために人材登用を急いだ。
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■則天皇帝は辛酸を味わいつくした前半生の経験で庶民の苦悩をよく感知した

<本文から>
 三陽宮に藩在するあいだに、かねて胡起という僧に調製を命じていた長生薬ができあがったので、皇帝はそれを服用した。
 長生薬は、三年がかりで巨万の富をついやしできあがったものであった。則天皇帝はそれを服用し、体調がいくらか回復した。
 彼女は五月五日、端午の節句に年号を久視と改元し、大赦をおこない、自らの尊号「天冊金輪大聖」を廃した。
 七十八歳の皇帝は、わが地位を飾るための修飾がわずらわしくなったのである。
 −私は長命薬を服したところで、こののちどれほど生きられるか知れたものではない。思えば自分でも信じられないような波潤のなかを乗りきってきたものだ。あとしばらくのあいだ、周帝国天子の座を守りつづけねばならない。私は息をひきとるまで、誰にも負けないのだ−
 皇帝が生きてきた時代は、貧困な人民のうえに富裕な権力者が君臨していた。経済活動は活発ではなく、権力者の懐にのみ金銭が集まり、諸人は権力にあこがれた。
 皇帝は、高宗後宮の妃から身をおこし、王皇后と権力をあらそい、倒した。そのときから、彼女は一歩もあとへ引けない権力闘争を、かさねてゆくよりほかはなくなった。
 当時の社食では輿論の力が弱かった。対立する相手と話しあい、たがいの立場を認め共存することができない。そのような柔軟な態度をとれば、相手につけいられ、たちまちわが墓穴を掘ることになる。
 政敵とひたすら戦い、相手を破滅させれば、わが立場が強まるばかりである。世人は権力をひたすら崇拝し、彼らの生活が脅やかされないかぎり、専制君主に柔順に従う。
 皇帝は長年月にわたり、無数の対立者を倒し権力闘争をつづけてきた。その結果、思いもかけなかった女帝の座をかちえた。
 流れる水は腐らないというが、彼女がうちたてた大周帝国の国威は隆盛にむかっている。皇帝の政務のうち、もっとも重要なものは、国家の各棟関ではたらく役人の横暴な行為をおさえ、百姓の立場を守ってやることである。
 則天皇帝は、辛酸を味わいつくした前半生の経験によって、庶民の苦悩をよく感知するはたらきに、欠けるところがなかった。
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■則天皇帝は太子顕に譲位

<本文から>
 一月二十四日、則天皇帝は太子顕に譲位した。すべて彼女の意思によらず、おこなわれたものである。二十五日、顕は通天宮において即位した。五十歳で中宗となったのである。
 中宗は改元して神竜元年とし、大赦令を発したが、張兄弟の党派だけは赦さなかった。かつて周興らの酷吏によって罪に落された者は、すべて無罪となった。その子女で、配所に歿した者もまた赦免された。
 相王旦は安国相王、大尉、風間鸞台三品に叙せられた。太平公主は、鎖国太平公主の号を与えられた。
 正月二十六日、上皇となった則天皇帝は、迎仙宮から皇城西方の、上陽宮仙居殿に移された。李湛が兵を率い、警衛にあたった。
 上皇が上陽宮へ移るとき、宰相桃元始が号泣した。桓彦範、張東之は彼をたしなめた。
 「今日は公が泣くときではありません。そのようなふるまいをすれば、禍いを招くでしょう」
 元始はいった。
 「私は長く則天皇帝に仕えてきた。いま皇帝とお別れする悲哀は耐えがたい。私があなたがたに同調して二張を課したのは、人臣の義によったためである。今日、先帝とお別れするのもまた、人臣の義である。罪を得ても後悔するところはない」
 元始はこの日、宰相の座を追われ、竜州(安徽省阜陽鼎)の刺史となった。
 一月二十七日、中宗は上陽宮に上皇を見舞い、則天大聖皇帝の尊号を奉った。
 神竜元年(七〇五)二月四日、中宗は国号を唐に復し、天授元年(六九〇)九月から十五年の歳月を経た大周帝国は消滅した。
 上皇はその後なお命脈をつなぎ、十一月二十六日に崩御した。中宗は上皇に則天大聖皇后の諡をおくった。
 則天武后の遺骸は神竜二年(七〇六)五月十八日、夫高宗の埋葬された乾陵に合葬された。
 中国唯一の女帝は、黄砂の吹き荒れる丘陵で、永遠の刻を過ごしている。
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