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<本文から>
直政は灯台の明りの及ばない土間のなかに、いつのまにか眼ばかり頭巾をつけた黒ずんだ装束の人影が五つ、綿入れ刺子の足袋をはいているのであろう、ひそかな足音もなく、滑るようにあらわれたのを見た。
彼らは直政の眼のまえを横切り、家康の寝所のほうへ動いてゆく。直政が刀を抜き、右肩に担いで滑るように前に出て、先頭の人影の首筋に斬りこんだのは、一挙動であった。
真綿に包んだ波形鎖装束をつけた忍者を一撃で倒すためには、装束と鎖頭巾のあわせ目に刀身を打ちこまねばならない。刀術の手練者であろう相手は、腰の大協羞の柄に手をかけたまま、血の棒を噴きあげ土間に体を叩きつけた。
忍者たちはたちまち逃げ散ろうとしたが、直政はいま一人の腰をめがけ、双手突きに突きこむ。鎖装束のうえから突かれた忍者は、骨が砕けたのかうつ伏せに倒れこんだ。他の小姓が刀を抜き放ち、土間に飛び下りてきたとき、すべては終っていた。
家康は直政の手柄を褒め、おおいによろこぶ。
「初陣にてしのびを二人討ちとめしは、尋常ならざるはたらきでや。さすがは井伊の血をひきし者だで」
『龍渾寺記』(『井伊軍志』収録)によれば、家康は感悦のあまり、三百石の知行を十倍に加増し、三千石を与えた。
家康は栗毛の肩高五尺三寸四分の名馬を秘蔵していた。乗馬の名人として知られていた彼は、あるとき直政が所望したのでその馬を与えた。
徳川家中で「鬼作左」として異名をとった本多作左衛門重次が、直政のまえで毒舌を吐いた。
「あのようなる名馬を万千代ごとき青二才に賜わるとは、殿も眠が暗うなられしか」
直政は、逆らえばどのような反応をあらわすか分らない怖ろしい作左の暴言を聞き流した。 |
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