津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          獅子の系譜

■初陣でしのみ2人を討つ

<本文から>
  直政は灯台の明りの及ばない土間のなかに、いつのまにか眼ばかり頭巾をつけた黒ずんだ装束の人影が五つ、綿入れ刺子の足袋をはいているのであろう、ひそかな足音もなく、滑るようにあらわれたのを見た。
 彼らは直政の眼のまえを横切り、家康の寝所のほうへ動いてゆく。直政が刀を抜き、右肩に担いで滑るように前に出て、先頭の人影の首筋に斬りこんだのは、一挙動であった。
 真綿に包んだ波形鎖装束をつけた忍者を一撃で倒すためには、装束と鎖頭巾のあわせ目に刀身を打ちこまねばならない。刀術の手練者であろう相手は、腰の大協羞の柄に手をかけたまま、血の棒を噴きあげ土間に体を叩きつけた。
 忍者たちはたちまち逃げ散ろうとしたが、直政はいま一人の腰をめがけ、双手突きに突きこむ。鎖装束のうえから突かれた忍者は、骨が砕けたのかうつ伏せに倒れこんだ。他の小姓が刀を抜き放ち、土間に飛び下りてきたとき、すべては終っていた。
 家康は直政の手柄を褒め、おおいによろこぶ。
 「初陣にてしのびを二人討ちとめしは、尋常ならざるはたらきでや。さすがは井伊の血をひきし者だで」
 『龍渾寺記』(『井伊軍志』収録)によれば、家康は感悦のあまり、三百石の知行を十倍に加増し、三千石を与えた。
 家康は栗毛の肩高五尺三寸四分の名馬を秘蔵していた。乗馬の名人として知られていた彼は、あるとき直政が所望したのでその馬を与えた。
 徳川家中で「鬼作左」として異名をとった本多作左衛門重次が、直政のまえで毒舌を吐いた。
 「あのようなる名馬を万千代ごとき青二才に賜わるとは、殿も眠が暗うなられしか」
 直政は、逆らえばどのような反応をあらわすか分らない怖ろしい作左の暴言を聞き流した。 
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■北条との和議成立の実績を積み赤備えを許される

<本文から>
『兵法にては、たしかに人は斬れまするが、甲冑武者一人か二人がせいぜいであろうと存ずる。一軍の采配を承わるそれがしが兵法は、一度に千、二千はおろか五千、一万なりとも斬るべしと、日頃より心にかけておりまする』
 氏政は納得した」
 氏政は勇猛な武人であったが、北条氏と交流のある諸大名のあいだでは、氏規のほうが兄民政よりも大局を見通せる器量の持主であると見る者が多かった。
 家康が氏規との交渉相手に直政を選んだのは、氏規が格違いといえる直政と会っても、決して軽んじる態度をあらわさないと知っていたためである。
 なぜ直政のような若者をよこしたのであるかという、家康の心中を的確に読むだけの器量が、氏規にはそなわっていた。
 家康は今度の和議交渉は、北条方から持ちだしたものであるため、未経験の直政に重任を托しても、めったにやり損じはないと読んでいる。
 家康は天正七年(一五七九)に無念の最期を遂げた信康のかわりに、直政を徳川家を支える重職として育てるつもりでいた。そのためには戦場でのはたらきとならび、政治面での力量をつけさせねばならない。
 それで、氏規のような老巧な人物との交渉で、経歴を飾らせようとするのである。
 直政が北条方に提示した家康の要請は、つぎの五項目であった。
 一、北条氏政が和議承諾の誓書を出すこと。
 二、北条氏照が八王子城附近の兵を後退させ、家康が佐竹義重、結城晴朝に連絡するための、飛脚の通行を許すこと。
 三、家康に協力し、若神子の戦場にあった下野長沼城主皆川広照と、常陸下館城主水谷正村が帰国するとき、北条領内の通行を許すこと。
 四、武田家旧臣の城織部が北条家に人質として差しだしていた妻子を返すこと。
 五、信濃国小県郡依田の豪族依田常陸介信蕃へ、家康からの飛脚の通行を許すこと。(信蕃は家康の要請に応じ、真田昌幸など有力武士を多数集め、佐久郡を制圧していた)
 このほかに、もっとも重要なつぎの二項目があった。
一、甲州都留郡と信州佐久郡を家康の所領とし、上州沼田を北条の所領とする。
二、家康の次女督姫を北条氏直に嫁がせる。
(井伊達夫氏所蔵文書)
 この二つの案件については、北条氏規が徳川の老臣酒井忠次に和議を申しいれてきたとき、家康が提示したもので、北条氏はすでに了承していた。
 新興企業の課長ほどの立場にある直政が、巨大企業の副社長格である氏規と交渉する五件の内容は、最重要事項ではなかったが、話しあいが順調にまとまらなければ、難問題として後日にしこりを残すものばかりである。
 直政は氏規に十分の敬意を払いつつも、会談を手際よく進め、つけいられる隙を見せなかった。
 氏規は家康の要請をすべてうけいれたあげく、氏直からの要請としてつぎの二項目を示した。
一、今度の和議について、家康から小田原城へ承諾の文書を飛脚に届けさせてほしい。
二、家康の老臣大久保忠世を、和議成立の使者として小田原城へ出向かせてもらい、然るべき挨拶をしてほしい。
 大久保忠世を小田原城へ出向かせてもらえば、北条家の面目が立つので、ぜひお願いしたいという氏規の内心が、直政の記した交渉経過の文章にあらわれている。
 「一、七郎右(大久保忠世)の儀、あわれ小田原までさしこされ候わば、濃州(美濃守氏規)一代御恩に可被請候由仰せちれ候こと」
 和議が双方の意向通り成立したのは、天正十年(一五八二)十月二十九日であった。
 家康、氏直は双方の軍勢を戦場から引きとらせ、氏直から十種十荷の納采(結納)を進上する使者がきたので、十二月十九日、朝比奈弥太郎を小田原へ派遣し、答礼をした。民政、氏直父子はおおいによろこび、弥太郎にも銘刀、駿馬を与えた。
 家康は十二月二十一日、浜松へ凱旋した。直政は徳川家に帰服した甲州、信濃の諸侍に対する宣撫、今後の情勢に対する不安の一掃に、若年とも思えない縦横の活躍をした。直政は幼時から敵に命を狙われ、父は今川家に誅殺されて頼る親族もわずかな危険きわまりない年月を送り、逃亡につぐ逃亡をかさね、ようやく生きながらえた。
 そのような苦難の経験が、彼の身内に独得の判断力と慈悲心を育てることになった。直政は主人武田勝頼を失い、寄る辺もない身のうえとなった甲信の諸侍を、家康に帰伏させるため奔走し、大きな成果をあげた。
 『井伊軍志』によれば、帰伏した諸侍に、家康が与えた所領宛行、本領安堵の書状は、天正十年後半の数カ月のうちに、百七十七通に達し、そのうち、直政が奉行人として署名しているものは、全件の四分の一に近い四十一通であった。
 甲信諸侍を帰伏させた奉行人十八人のうち、もっとも多い実績である。第二位の本多正信の署名した書状は三十通であった。
 家康は酒井忠次に内心を洩らした。
 「万千代は年齢こそ若けれども、抜群の才器だわなん。あやつに甲斐の赤備えをゆるしてやろうかのん。はじめはそのほうに預くべしと思いおりしが、いかがなものであろうかや」
 忠次は答えた。
 「仰せらるるごとく、万千代は戦の場数もさほど踏んではおらぬに、いつとてもまっさきに立ち、物怖じいたす様子もごぎりませぬだわ。あれに赤備えをお許しなさるならば、自然に格があがり、武田の辞々たる侍どもより合戦のかけひきを学びとり、よき将器となるにちがいござりませぬ」
 家康は忠次の返答に満足した。
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■長久手合戦で「井伊の赤鬼」と呼ばれる

<本文から>
 長久手合戦で、井伊勢のはたらきが抜群であったという評判が、敵味方の陣中でひろまった。
 羽柴勢の将士は、「井伊の赤鬼」「先登の井伊」と呼び、直政の赤備えのすさまじい攻撃を恐怖した。『武家名目抄』という本に、小牧長久手の陣で、味方の軍勢の行列が乱れたときも、赤備えは静粛であったと記している。
 「井伊万千代ばかり、赤備え三千ばかりにて、押し太鼓をおこないて、いかにもしずしずと行列正しく押しきたる」
 長久手の激戦で、徳川諸隊のうちでは、井伊隊の得た首級がもっとも多かった。
 秀吉は楽田に在陣するあいだに、訪れる地侍たちに放言した。以下、『井伊軍志』によると、
「儂はこれまで鶴千代(蒲生氏郷)、虎之助(加藤清正)、市松(福島正則)をそれぞれ無双の武辺者と思うておりしだわ。
 然るにこのたびの合戦にて、家康の三将のはたらきを見るに、皆絶倫だがや。井伊直政が三好孫七郎(のちの関白秀次)に追い討ちをしかけし鬼神のふるまい、本多平八(忠勝)がわれらの大軍勢を知らぬげに、五百ほどの人数で、行手をさえぎらんといたせし大胆なる仕業、榊原康政がわれらの陣所に撒文を撒いたる不敵のおこない。
 いずれも他に比するものなきあっぱれなる武者握りでやあらあず」
 秀吉の言葉は、たちまち家康の耳に届いた。
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■内部に根づいている死への恐怖心は勇猛心に置きかえられた

<本文から>
 直政は敵弾が革もとをかすめるなか、馬を躍らせ、下知してまわる。城中から敵勢が出てくると、長槍をふるって突撃し、血戦を挑んだ。
 戦場に出ると、直政は全身の血が沸き立ってきて、足軽たちを追い越し先頭に出て、敵を槍先にかけ、荒れ狂う。直政の勇猛のふるまいを見る者は、さすがに家康より破格の抜擢を受けるにふさわしい、大剛の士であると感じいった。
 だが直政の身内には、死への恐怖がわだかまっていた。今川義元、氏真によって井伊一族の男子はすべて討死するか殺害され、根絶やしにされてきた。直政も虎松と称した二歳のとき父直親が懸川城下で氏真の家来に討たれるとただちに所領を没収され、殺害されることになった。このとき親戚の新野左馬助の助言で命を救われたが、そののちも井伊谷籠渾寺住職南渓ら親族に庇われ、諸所を流浪して刺客の手を逃れた。天正三年(一五七五)家康の小姓として奉公するまで、直政は安穏な生活とはほど遠く、乱世の波涛のなかにいつのみこまれるかも知れない暗澹たる運命のなかにいた。
 精神の形成期である幼少年期を、死とむかいあって生きてきた直政は、恐怖を克服して生きようとつとめ、勉学、武芸にひたすらうちこんできた。それでも暗鬱な想念は去らない。
 彼が家康のもとで敵と戦うとき、抜群のはたらきをあらわし、狩猛であったのは、胸のうちから追い払おうとしても去らない死の恐怖を押し伏せるためであった。
 戦場で敵と渡りあい、首級をあげる手柄をかさねるうち、直政の体にわだかまっていた恐怖心はしだいに薄れてきた。
 侍は戦場で力のかぎり闘い、その結果討死を遂げてもやむをえないのだという諦念が、敵味方の首のない屍体を見なれるうちに、いつのまにか心に根づいたのである。
 直政が常人ではとても着用できない重い具足をつけているのは、先頭に出て戦うとき、敵の矢玉でたやすく死ぬわけにはゆかないと思っているからである。
 具足の下に平常の衣服をつけているのは、万一敗戦のとき、具足をぬぎすてると附近の住民にまぎれこむことができるためであった。また敗軍のなかで百姓に化けて敵将に近づき、刺殺して死出の道連れとすることもできる。
 彼の内部に根づいている死への恐怖心は、このようにして勇猛心に置きかえられていった。
 直政勢は大野城、蟹江城の戦いでめざましい手柄をたて、味方の大軍が駆けつけるまで、海上の敵肌町を近づけなかった。
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■目立つ行装、人斬りと呼ばれていた

<本文から>
 直政はそのなかでもひときわ目立つ行装である。金色大夫衝の脇立をつけた兜に、白熊の毛を肩まで垂らし、まっさきに敵にむかい馬を駆けさせる。一発で撃ち落してくれといわんばかりである。
 大将が先陣に出るときは、目立たない具足をつけ、日頃は乗らない馬にまたがり、他の将兵と見分けがつかないようにするのが心得である。
 族旗、馬標を立てた本陣には、大将の具足をつけた影武者を置けばよい。
 「先手御乗廻しの時、馬標までも持たせられるのは、厳禁されたい。また諸侍一統ねんごろにお言葉おかけなさるべき事」
 馬標は常に主将のいる位置を、率いる全軍の将士に知らせ、士気をふるいたたせるもので、かるがるしく移動させては兵威を損じるおそれがある。
 また馬標のもとには大将がいるのだから、それがわずかな供廻りとともに前線をあちこち動きまわれば、大手柄をあてこんだ敵兵の好個の目標になった。
 戦場では目立つ行動をして、敵味方から金の蝿取りの馬標を注目されるのが生甲斐の直政は、幾度意見を受けても、馬標とともに前線に馬を躍らせるのをやめなかった。
 また、直政はふだんから口数がすくない。戦場に出ても、組頭、物頭、使番に声をかけるだけである。家康の姻戚であることを鼻にかけていては、家来から思わぬ恨みを買うことにもなりかねず、うしろから鉄砲玉をくらいかねない。
 一言、声をかけてやれば、侍たちは奮いたって敵にむかうものである。このような人情の機微が、直政には分らなかったのは、徳川家随一の大将として、取りたてられてきたためであろう。
「近頃申しにくきことながら、世上では人をお斬りなされるとの評判が立っています。人斬りと名の立つ大将は、いい家来を持てないものです」
 直政は、世間で人斬りと呼ばれていた。外交、軍事には家康が評価するだけの、抜群の才があったが、家来に対しては虫けらとも思わない非情な性格を、むきだしにした。家来たちは家康の命により、やむなく直政のもとにとどまっているが、本心では離れることを望んでいる。
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■関ケ原で島津の鉄砲に被弾して後に死す

<本文から>
 島津隊の将兵は、あいついで討ちとられていった。島津豊久は伊勢街道へわずかに入った牧田烏頭坂の辺りで、本多忠勝の軍勢に前後左右から突きかけられ、槍七、八本で六、七度も刺し貫かれ、首をとられた。
 島津惟新は牧田川にさしかかったとき、東軍の軍兵が叫ぶ声を聞いた。
 「島津豊久の首をうちとったり」
 惟新のうしろに、松平忠青、井伊直政の軍勢が追った。
 「いまはこれまでじゃ。斬りいって命を捨つっ」
 惟新が太刀を抜き、追手のなかへ斬りこもうとしたが、阿多盛淳はその前に立ちふさがった。
 「一軍の将たる人が、粗忽に討死せ人と仰せらるっは、沙汰のかぎりでごあんそ。千騎が一騎になるまでも、今日の戦場をお退きなさらにゃならぬ。俺が名代いたし申そ」
 盛淳は追いかけてくる敵にむかい、馬首を返し大音声で叫んだ。
 「俺は島津惟新入道じゃ。首取って手柄をいたすがよか」
 盛淳は郎等とともに敵中に斬りこみ、全滅した。
 惟新が騎馬侍三十余、雑兵五百で逃げてゆくところを、直政、忠吾が手勢二千余を連れ追いかける。惟新に従う家来たちは、道端のくさむらに身を隠し、銃撃を加えたのち抜刀して追手に斬りこんでくる。
 島津の鉄砲足軽は、小形の二挺鉄砲を紐で縛り、首にかけ、二人一組で交互に射撃をおこない、弾丸を撃ちつくすと執りこんで死ぬ。『井伊軍志』によると、直政は七、八間の距離で柏木源蔵という島津隊士に撃たれた。
 弾丸は左腋下に当ったが、重量十六貫もある鉄製の胴を鉛弾は貫通できず、はね返って右肘の内側をえぐった。柏木源蔵は大柄な赤具足の武者が、馬上にうつぶせになり、槍をとりおとしたのを見届けたあと、夢中で逃げ走り、命拾いをした。
 家来たちは直政を馬から抱きおろし、路傍の空家へ担ぎこみ応急手当をした。直政は一時、完全に失神していた。被弾の衝撃が、それほど大きかったからである。
 負傷した庇から大量の血が流れている。出血したまま意識を失っておれば、命を落しかねない。家来が気付薬を与え、意識が戻ると血止め薬を飲ませる。直政はようやく命をとりとめた。
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