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<本文から> 織田信長はもちろんのこと、毛利元就にしても武田信玄にしても、あるいは秀吉、家康にしても、戦国大名というのはたいした連中だと、私は思っている。みなそれぞれにカリスマ性を持つ。ただ元就にしても、信玄にしても、百数十万石の膚代に成り上がっていく過程における意思決定や行動様式を見ると、音楽の旋律がそうであるように、次にくるものがある約束に従って決まっている。
ところが信長だけは違う。信長の奏でる旋律は次にくるものが全然分からない。破調や変調が加わって、予測が不可能だ。
英雄といえども一個の人間であるから、思考方法も、行動様式も、あるパターンを持ち、通る道筋や発展の段階というのはだいたい同じはずである。だが、信長だけは突然横に曲がる。縦にそれる。しかしそれでいて旋律が、ある不思議な調和のなかにある。独創的、創造的と言いかえることもできよう。
信長の生涯をたどってみると、あれはいったい何だろうか、どうしてそうなるのだろうかとしみじみ思うことがいくつもある。
その代表的な事例は、信長が世界の軍事史上にのこす二つの記録、鉄砲の大量使用、鉄甲戦艦の建造である。あの時代において、どうしてああいう発想が生まれたのか、凡人には想像だにつかない。比叡山焼討ちや、一向一揆討伐にみる宗政分離政策にしてもそうである。ただそれらの話は本文のなかで詳しく述べるので、ここでは信長の経済政策を例にとって塗証してみたい。 |
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