津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          疾風陣信長 変革者の戦略

■信長は予測不可能、代表例は鉄砲の大量使用、鉄甲戦艦の建造

<本文から>
 織田信長はもちろんのこと、毛利元就にしても武田信玄にしても、あるいは秀吉、家康にしても、戦国大名というのはたいした連中だと、私は思っている。みなそれぞれにカリスマ性を持つ。ただ元就にしても、信玄にしても、百数十万石の膚代に成り上がっていく過程における意思決定や行動様式を見ると、音楽の旋律がそうであるように、次にくるものがある約束に従って決まっている。
 ところが信長だけは違う。信長の奏でる旋律は次にくるものが全然分からない。破調や変調が加わって、予測が不可能だ。
 英雄といえども一個の人間であるから、思考方法も、行動様式も、あるパターンを持ち、通る道筋や発展の段階というのはだいたい同じはずである。だが、信長だけは突然横に曲がる。縦にそれる。しかしそれでいて旋律が、ある不思議な調和のなかにある。独創的、創造的と言いかえることもできよう。
 信長の生涯をたどってみると、あれはいったい何だろうか、どうしてそうなるのだろうかとしみじみ思うことがいくつもある。
 その代表的な事例は、信長が世界の軍事史上にのこす二つの記録、鉄砲の大量使用、鉄甲戦艦の建造である。あの時代において、どうしてああいう発想が生まれたのか、凡人には想像だにつかない。比叡山焼討ちや、一向一揆討伐にみる宗政分離政策にしてもそうである。ただそれらの話は本文のなかで詳しく述べるので、ここでは信長の経済政策を例にとって塗証してみたい。
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■超現代人の信長

<本文から>
 いま、夜も寝ないで信長はこの施策を考えたと書いたが、この信長の思考方法が独特だった。
 私は織田信長のことを″超現代人″と呼んでいる。なぜか。
 現代人は学校教育の恩恵をうけて大変知識はあるが、物事を判断するとき、教育によってえた学識や先入観にわずらわされてしまい、自分が本来もっている叡知、あるいは思考力を発揮できないでいる。
 それに対して信長は現代人よりはるかに理性的で合理的である。既成のすべてを疑ってかかり、与えられた条件を自分のなかで整理し、再構築し、判断する。実行するに当たっては果断である。それゆえに、私は信長を″超現代人″と呼ぶのである。
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■信玄は秀才だが信長のように発送の飛躍ができない

<本文から>
 信長には攻撃性があって、目標がさだまるとその方向へと、無謀と思われるような果敢さでどんどん突き進んだ。信長の躍働するスピード感は、要や他の戦国大名とまったくちがう。
 信長は尾張統一に八年、美濃攻略にも八年かけているが、それ以降の攻略スピードはきわめて早く、美濃攻略の翌年には早くも足利義昭を擬して上洛を果している。
 信長の最大のライバル武田信玄は、当時扶桑最強といわれた武田騎馬軍団を擁し、常勝不敗といわれ、三方ケ原で織田・徳川連合軍を完膚なきまでに粉砕しておきながら、ついに上洛をなしえず、信州駒場で無念の死を迎えざるをえなかった。
 信玄は、その族旗に孫子の兵法にある「風林火山」の四文字を、黒地に金沢で書きつけていたように、徹底して孫子をはじめ中国の兵法を学んだ武将である。
 信長が直観力にすぐれ、自分なりの論理ですべての物事をすすめる天才であるとすれば、信玄は学びに学んだ秀才だった。
 しかし、それだけに信長のように発想を飛躍させることができなかった。領地の拡大などその典型で、アナログ信号のように、ひたすら積み上げていくだけだった。そのぶん、要のスピードは遅い。
 ともに天下の覇権を争った信長と信玄の両雄だが、ここに大きな分岐点があった。
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■慎重を期した尾張統一

<本文から>
 信長は信秀の死後三年のあいだは、貝止った動きをあらわさず、兵を養うことに専念する。信長はわがカをあらわす時期を冷静に測っていた。
 天文二十二年(一五五三)、信長二十歳の春、信秀の死をきっかけに反旗を翻した鳴海城の城将山口左馬之助父子と戦端を開き、これを横に信長の尾張統一の戦いが始まる。弘治元年(一五五五)、信長は叔父信光と謀って、清洲城に拠る下四郡守護代織田彦五郎広信を破り、清洲城を手中にする。つづいて同三年には二度日の謀叛を謀った弟信行を清洲城内で生害。
 永禄二年(一五五九)には美濃の斎藤義龍と結ぶ岩倉城を落とし、上四郡守護代でもある城主織田信安を追放、待望の尾張統一をなしとげる。
 信秀の発から実に、八年である。
 『信長公記』を読むと、当時の一族間の戦いの凄惨さというのが、いかなるものかよく分かる。私が想像するに、壮絶な戦いを勝ち抜いてきた信長はストレスの固まりだったにちがいない。しかし、信長という人はだからといって自暴自棄になったりしなかった。
 信長というと直情径行、短期決戦の人という印象があるが、多くは桶狭間の奇襲、本能寺の変などから単純にそう捉えているにすぎない。相続から尾張統一にいたる経緯を見るかぎり大変に粘りづよい性格だと言わざるをえない。普通の人間なら半年の勝負。駄目でもともとでガンガンやるにちがいない。
 それを八年もかけてじっくりやったところに、信長の優れた資性が見てとれる。信長はやはり、取りこぽしをしないでゆっくりやろうと考えたにちがいない。戦国乱世である。一度破れれば、復活はない。
 よく「鳴かせてみせる」という秀吉、「鳴くまで待とう」という家康に対して、信長の生き方を「鳴かずんば殺してしまえホトトギス」などと言うが、実はまったく正反対と言ってよい。
 東から大軍をもよおして押し寄せつつある強敵今川義元への対抗策も、同様にまた実に粘り強いものだった。
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■身分をを無視、能力主義

<本文から>
 よく織田信長は天才的革命家であり、近世の幕を切っておとした人物だと評されるが、かれの革新性の一つを、この美濃攻略の過程における人材の発掘、登用・抜擢、活用を含む人材観にはっきり見てとることができる。
 幕末に至るまでそうだが、日本の場合、武家の文化圏と地下人の文化圏これははっきりと分かれていて、交わることはなかった。歴然とした身分差があった。ところが信長はそれを無視し、本人に活用価値があると認識すると、何のこだわりもなく用いた。身分などという認識は、信長にはなかった。この時代に身分を安全に無視できたのは、信長以外にない。
 武田信玄も高坂弾正とか、山本勘助といった人材を登用している。確かにかれらも郷土や流浪の武士で身分はけっして高いとは言えず、素性もはっきり知れない者だが、少なくとも卑賎な地下人ではなかった。
 ところが秀吉などその典型だが、信長はこの男は使えるとなると、身分、家柄などを無視して抜擢登用した。
 信長麾下の四天王の一人、左近将監滝川一益にしても、甲賀生まれの忍者だったと言われているが、実は泥棒の首領だったという話もあるくらいで、前身がいったい何者だったかまったく分からない。
 しかむ諸事に清疑心の強い信長だったが、出自もさだかならぬ連中を用いるに際して、譜代の老臣どもの讒言にまったく耳を貸さなかった。そこにまた俗人を越えた信長の叡知を見ることができる。
 信長にしてみれば、要するに使えるならば、地下人であろうと足軽であろうと、はたまた泥棒であろうと出自など関係ないということだったろう。
 だから、夜盗、野伏りの類である川並衆を使うことも、心理的に何ら障害はなかった。重要なのは、その機能であり、成果であった。そしてさらに言えば、それでかれらが失敗して命を落としたとして、それはそれで致し方ないと信長は割り切ってさえいた。
 かなり厳しい考え方だが、秀吉も、川並衆も信長に付いていく。やはり信長には、みなが後についていくだけの人間的魅力があったに違いない。
 それだけではない。信長は徹底したリアリストだった。群狼のような連中は、特別の恩恵を与えなければ絶対に動かないことを、知っていた。だから、信長は蜂須賀小六に「国中郡内の各関々に至るも、人馬荷駄通り抜けの儀、夜中深更に及ぶも構いなし」というような特権を与えたのだ。
 このへんは、信長は祖父信定と似ている。
 信定は、主家の反対を押し切って、尾張随一の商業都市であった津島をわが手中に収めようと、津島を攻め、商人の大半を自分の被官とした。のみならず、町衆の長老である大橋清兵衛の家に、わが娘を嫁がせた。武将が商人に娘を縁づけるなど、身分差のきびしい時代、異例も異例のことだった。
 信定は津島の富力を財源として掌握することが、家運興隆のために欠くべからざる条件であると考え、それを実行したのである。信秀、信長二代の飛躍は財政基盤を確立したこの祖父によるところが大きい。
 信長は、祖父信定と同様、非常にはっきりした人物だった。要するにその男に能力があり、その男を使うとこれだけの利益が上がると思うと、即座に相手に還元してやる。そのあたりは他の大名と全然違う。下情に通じていたともいえる。
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■見事な信長の「退きロ」

<本文から>
 敦賀平野は北は海、残り三方を山に囲まれている。東から朝倉勢が、南から浅井勢が攻め寄せてくれば、逃げるのは西の方、若狭口しかない。そこを北上してくる浅井勢に押さえられると、織田軍は袋の鼠となる。織田勢敗走と伝われば、あちこちで国人一揆、土一揆も決起するにちがいなかった。
 木下籐吉郎は、信長が気色ばんだ面持ちを変えず、口では決戦を説いても、心中ではもはや退陣に決していると察していた。その見通しどおり、信長は柴田、丹羽らの意見を聴すると、ついに退陣を決した。
「さて、尻払い(殿軍)は、誰がいたすか」
 言いかけると、籐吉郎が走り出て、信長のまえに手をついた。
「本日の殿軍、なにとぞそれがしに仰せつけ下さりませ」
→猿、殿を引きうけたなら、死ぬるでや」
「一死は、もとより覚悟しておりまするに」
 浅井の離反がはっきりした時点からわずか一刻余りで、信長は撤退を決め、すぐに西に向けて軍を退きはじめた。浅井軍はまだ出撃していない。しかし小谷山から敦賀は指呼の間である。
 二十八日六つ半(午前七時)、精強な三河衆に守られた徳川家康がまず発ち、つづいて佐々内蔵助の鉄砲隊三百余人が若狭街道を守備するために出発する。そして信長が馬廻り衆百余騎を率い、佐々衆のあとを追う。つづいて丹羽、柴田の同勢が駆け、三万の諸軍は潮の引くように去っていった。
 信長はその夜は佐柿の国吉城に入り、休息。そこから粟谷越中守の案内で、野伏りの襲撃を避けるため山間の脇道すなわち比良の山地を南下縦走するコースをとって、朽木谷を通り洛北大原へ抜けた。朽木谷の豪族朽木信濃守は、松本久秀の説得もあり、変心することなく、信長に協力の姿勢をとっていた。
 信長は走り詰めに走り、四月晦日には、京都清水寺にその姿を現した。出陣から、十日を過ぎただけである。
 撤退とはかくの如くあるべし、とでもいうような見事な信長の「退きロ」であった。
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■創造性とスピードの差

<本文から>
 信玄は囲碁の達者であつた。現存するかれの棋譜によると、実力は現在の五、六段ぐらいで、着実な布石による攻めが得意であったという。
 信玄は前にも触れたように秀才であった。物事を考えるにもきわめて理詰めで、前提案件をきちんと整理し、すこしでも問題点が出てくれば、それを解決しないと前へ進まないというタイプの人だった。
 信長はちがう。多少の矛盾があろうとも、その時点で問題解決の必要があれば、力で押し切って前進した。
 戦争に勝利する、時代を変革するとは、多分そういうことではないかと、私は思う。
 謙信との川中島での抗争に年月を費やしたことなどもそうだが、信玄の発想には大胆な飛躍がない。奇想もない。スピードもない。
 もし信玄にそれがあれば、あの強大な武田騎馬軍団のカをもってすれば、信長より早く上洛できたかも知れない。
 それにしても、歴史にイフはないというが、あと数年信玄が生きていたら、戦国史はさらに面白い展開になっていたにちがいない。何といっても信玄は大変な戦略家だったし、武田軍団も物凄く強かった。
 もしあの時点で死ぬことがなければ、信玄は遠江に次いでおそらく三河も押さえていただろう。そうすると信玄の領国は百七十万石くらいになる。家康も信長と挟を分かち、信玄に下らざるをえなかった。
 そのあと、信玄はおそらく美濃を攻める。となると、濃尾平野のどこかで、間違いなく信長と信玄の大会戦がおこなわれたと予測できる。
 果してどちらが勝つか−。想像するだに、楽しい。浅井・朝倉も、信玄が生きていれば、そう簡単に亡ぶことはなかっただろうから、仮に勝ったにしても、信長が相当の打撃をうけたことは間違いない。
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■本願寺など焼き討ちの残虐行為について

<本文から>
 ただ、それだけの理由で信長は史上稀にみる残忍残虐な行為を行ったわけではなかった。
 一つは見せしめである。依然、石山本願寺はじめ一向一揆勢は各地に蟠踞し、信長に対抗している。かれらに信長に歯向かうとこういうことになるぞ、と見せつけておきたかったのである。また家臣団を含めて、他の大名たちにも、同様な威嚇効果を考えたに違いない。
 見せしめは武田信玄などにも例がある。一つの城を陥落させると籠城側の軍勢を皆殺しにし、次の城の降伏を待つというものだ。
 攻める側攻められる側、双方の無駄な死をできるだけ避けたいという合理的考えがそこにある。
 もう一つは、武士の政権を攣止するためには、それに歯向かうものを根絶やしにしておかなければ先ざき禍根を残すという認識もあったろう。信長にとり、現世において絶対権力者は自分だけで充分であり、あとは不要であった。
 したがって、信長は一向一揆勢力と安易に手を結ぶ諸大名は、そのうち手痛い目にあうと見ていた。
 加えて、武士は一度降伏すれば余程のことがないかぎり再び敵対することはないが、宗教者、信者は何度降伏しても、再度挑みかかってくるということがある。それが信長をして大虐殺をなさしめたといえよう。
 長篠の戦いで武田勝頼を破った信長は、天正三年八月、越前に進撃、三万とも四万ともいう一向一揆勢をあるいは撫で斬りし、あるいは釜茹でにして虐殺したが、それも同じ理由からであろう。
 そうしたことを敷術すれば、信長は五万人を生かすために二万人を殺したのだ、とも言いうる。
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■長篠の戦い、リスクがあっても三千挺の鉄砲の三段討ちを実行

<本文から>
 それにしても、長篠の戦いを通観して感じるのは信長という人物の恐ろしさである。当時にあっては、海のものとも山のものともつかない鉄砲を大量に用い、無敵と言われた長槍・騎馬の武田軍団を壊滅させた。
 信長と同じことを思いついたとしても、自らの存亡を決する大決戦に際して実行できる人間などいないだろう。だいたいがリスクを計算してオーソドックスな戦法で勝とうとするに違いない。
 ところが信長はそうしない。いうまでもなくリスクはたくさんあった。
 まず季節は梅雨ゼきである」当時の火薬は雨はもちろん、湿気にも弱い。もし雨が降りはじめたら、三千挺の鉄砲はほとんど機能しない。
 仮に雨があがっていたとしても、間鹿瀬少なくなかった。
 信長は戦闘がはじまり、三千挺の鉄砲が射ち放されれば、陣中が混乱するであろうと見ていた。
 というのも三段撃ちを実行するには、鉄砲衆の訓練がいきとどいていない。また鉄砲衆は敵の攻撃から身を守るために重武装をしており、しかも鉄砲をもっているので疲労がはげしい。
 しかも鉄砲衆の持つ鉄砲は口径、性能がそれぞれちがう。思ったほどに効果的に三段撃ちがおこなわれない可能性も高かった。
 それに発砲すれば、落雷のような凄まじい発車音と同時に、銃口から三尺ほども火焔が延び、一間半ほどまえまで焼竹た火薬の残浮が、はげしいいきおいで飛散し、危険きわまりない。
 三千挺がかわるがわる咆哮すれば、硝煙は霧のよづにたちこめ陣中の視界をさまたげ、敵の来襲を見定められない。諸将の下知の声も、騒音にかき消される。
 敵が柵木を押し倒し、突入してくる事態となれば、誤射もあれば、火薬の爆発なども起こり、混乱はなお深刻になる。
 −鉄砲がいかほどはたらくかは、やってみたうえで、分かることでや−
 信長は、あくまでも大胆であった。この男は前例踏襲主義ではなかった。
 ただし常にそうであるように、信長は鉄砲で失敗したときには、のこり三万の兵による人海戦術で対抗する、二段構えをとっていた。
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