津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          親鸞

■親鸞に親近感を抱く理由

<本文から>
 想像するに、越後に流されるまでの親鸞は、まだすべてにおいて観念的で、中流といえども貴族の子弟であり、真面目で戦闘的だが、線の細いエリートであったかと思われる。しかし越後流罪をへて、関東での長い布教生活により、自らを田畑をはいずり回る農民や、魚や鳥獣を追う漁師や猟師と同じ一個の罪悪深垂の人間として見つめなおし、強靭さを身につける。
 私は二度にわたってそうした親鸞という人に、正面から向かい合うことになった。
 私自身は三十歳を過ぎてサラリーマン生活の前途に希望を見出すことができず、何の手がかりもなしにものを書くという生活に飛び込んだ。
 無明長夜に道を求めて、彷径を続けた親鸞に、門徒であるということとは別に親近感を抱く理由でもある。
 四十九歳のとき、『深重の海』 で思いがけなく直木賞を受賞することができ、作家としてデビューすることになったが、それまでは果たして自分はどこへ向かっていくべきか何も分からなかった。
 二年ほどのちのことだ。あるパーティの席上で、知人の編集者と立ち話をしていると、小柄な老人がせかせかと私の前にやってきて、ちらと顔を見たかと思うと去っていった。しばらくしてまたやってくると、今度は「あんたが津本君かね。五十の年頃で直木賞を受賞した作家は長く活躍できる。僕も本格的に書きはじめたのは五十過ぎだった。がんばりなさい」というと、また身を翻すようにしてどこかへ行ってしまった。松本清張氏だった。
 しばらくしてぶっきらぼうなその言葉を思い返すうちに、何か自信のようなものが生まれてきた。やがて偶然の所産から、『下天は夢か』を書くことになり、歴史小説の書き手として、今日まで活躍を続ける端緒がひらけた。
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■不断念仏衆となる

<本文から>
 ふらふらと歩いていたと思うと倒れふす。そうして飢え死にした者が、塀の下、道路の脇に数も知れないほどいる。あまりにも死体が多くて埋葬滝できないから、腐敗してにおいを撒き散らしており、やがて肉が落ちて骸骨に変わっていくさまは、目も当てられない惨状だというのである。
 親鸞の少年期から青年期にかけては、度々、天変地異とそれに伴う大飢饉が起こり、一方で五年余りにわたる源平の戦乱が続き、民衆は塗炭の苦しみに喘いでいた。
 そうしたなかで、仏教独自の末法思想は、仏教界から貴族・公家たちへ、さらには武士団や裕福な商人、上級農民へと次第に浸透していき、それにともない来世に期待をつなぐ浄土教は信者の輪をひろげていった。現世を厭いつつも、死や死後のことを怖れるのは、いかなる人間でも共通だからである。
 両親とあいついで死・生別し、幼いながら世の無常をまざまざとその目で見たであろう親鸞は、得度した幾年後かに比叡山に上ると、天台、禅、念仏、密教という四宗兼学の天台教学を学ぶ学生となる。だがどういう理由からか、ある時期から不断念仏衆へと転じた。
 このことは、大正年間に発見された親鸞の妻恵信尼が末娘覚信尼へあてた消息(手紙)のなかに「との(親鸞のこと) のひへのやま(比叡の山)にたうそう(堂僧)つとめておはしましける」とあったことから、明らかになった。恵信尼の消息は、西洋的実証主義が支配的となった明治以降の近代史学において、真宗教団関係の資料以外、つまり法然の関連を含めてもまったくその名の記載がなく、疑問視ざれていた親鸞の実在を証明することになったことでも知られる。
 親鸞が入山した比叡山天台宗では、人間の行動を行と坐に分ける。修行も同様である。行は立っての修行、坐は座ってのものである。そこから四種の修行形態が生まれた。常行三昧、常坐三味、半行半坐三昧、非行非坐三昧である。
 親鸞はこのうちの常行三味の念仏修行僧となったのである。
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■結婚、そして「親鸞」の名乗り

<本文から>
 親鸞が恵信尼と呼ばれるようになる女性と結婚したのは、元久元年(一二〇四)であったといわれる。恵信尼の俗名は今日伝わっていないが、父親は兵部太輔三善為教と考証れている。以前、三善氏を越後の豪族と見なす説が流布し、支配的であったが、今日では否定されている。恵信尼については、一説には為教の娘でなく係累の者だともいう。
 三善為教はかつて、越後介(国府の次官) の任にあった中級貴族であり、その娘と日野一族である親鸞とはつりあいの取れた組み合わせに見える。恵信尼は文字を知り、日記をつけていたことが分かっている。この点からも、彼女が京都のしかるべき貴族の家の出であることが類推できる。
 彼女は結婚と前後して法然のもとで出家し、恵信尼と名乗ったものと思われる。
 なお、ここでもう一つ異説を記せば、『高田親鸞聖人正明伝』などでは親鸞が法然を訪ねるのは六角堂で夢告を得る前、参龍中のことだったとしている。
 親鸞は法然の庇護の下、三善為教や日野一族の援助を受けながら、恵信尼と家庭を持ち、勉学にいそしんだと思われる。それはやはり、当時としてはかなり恵まれた生活だったというしかない。この時期の、親鸞の庶民に向けられた目は、まだ上からのものでしかなかったろう。親鸞は著書で、一般庶民を「一文不通」とか「愚痴無知」などと決まり文句のように記している点からも、それはうかがわれる。
 法然は、三百八十余人にまで膨れ上がった門人のうちで、親鸞の学才がひときわ輝きを放っているのを認めていた。
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■弾圧され流罪

<本文から>
 やむなく朝廷は法然の弟子のうち安楽と行空を処罰することとし、法然は二人のうち行空を教団から追放した。だが浄土宗弾圧の動きは強まるばかりである。
 こうした状況下で事件が起きる。建永元年(一二〇六)十二月二十八日、後鳥羽上皇が二十日間ほどの熊野御幸(参詣)から京都に戻ると、寵愛する女房である鈴虫、松虫の二人が、剃髪して尼になっていたのである。
 二人は上皇の留守中に、法然の弟子安楽房遵西と住蓮房が東山鹿ヶ谷で開いた別時念仏会に出向き、感激のあまりそうした行為に出たといわれる。しかも彼女たちと安楽房、住蓮房とのあいだに淫らな行為があったとの噂が流れていた。
 旧仏教勢力は、こうした事件が起きるのを待ち構えていた。彼らは後鳥羽上皇にさまざまに謹言した。
 今様が好きで、名君とは言いがたい後鳥羽上皇は大いに怒り、住蓮房、安楽房の二人をとらえ拷問にかけたうえで、翌建永二年二月九日に斬首にし、さらに法然門下でもっとも先鋭な専修念仏の徒と見られていた、西意、性願房をも死罪に処した。
 律令制国家下において、長らく僧侶や一般人の死刑は行なわれてこなかったうえに、今回の処刑は明法博士 (法律学者)の裁断を待たないで、後鳥羽が己の感情、つまり悪意に任せて命じたものであったから、朝廷内外でこれを批判する人が少なくなかった。
 しかも後鳥羽は怒りにまかせ、専修念仏の停止を命じるとともに、法然の法名を取り上げて還俗させたうえ、藤井元彦と改名させて土佐(高知県)へ流すこととした。
 法然のほかに、禅光房澄西以下七人が、流罪に処せられた。そのなかには、法然同様に還俗させられ、藤井善信と俗名を与えられた親鸞も入っていた。
 親鸞については、院庁での評定の席で死罪を宣告されるとの噂があった。しかし伯父たちの奔走もあり、最終的には越後への流罪とされたのだと伝えられている。
 弟子入りしてまださほど年月が経っていない親鸞が、なぜそれほどの重罪に処せられたか、理由はつまびらかではない。ここはやはり、法然の法義というものを最も正統的に受け継ぎ、かつ妥協することなく突き進んでいる若い親鸞に、旧仏教側が強い敵意を抱いていたからだと考えるのが正解であろう。妻帯していたことも大きい要因だといわれている。
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■現生正定衆

<本文から>
 思索の果てに、親鸞は純朴な農民、貧民たちが必ず往生できることを証するために、ただ今そのとき、信心が定まれば、時をへず、日を隔てることなく、即座に往生が決まるという説に行き着く。死んで浄土に往生してから、正定衆に入るのではないというのだ。
 これを「現生正定衆」と呼ぶ。正定衆というのは、成仏できることが確定している人のことである。弥陀の本願を信じ、名号を称えたものは、誰一人漏れることなく現世において正定衆の数に加えられ、正定衆に加えられたならば弥勒と同じであり、もはや六道輪廻の道に引き返すことのない、いわゆる不退の位に入る。つまり往生即成仏できると、親鸞は論理を発展させるのである。
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■三派に分かれて激しく争う

<本文から>
 そうしたなかで、関東の門弟のあいだで異義異端が生じていく。なかでも造悪無碍(擬)と弥陀以外の神仏軽侮が大きな問題となった。
 造悪無碍とは、念仏者は浄土往生が約束されているのだからどんな悪いことをしてもかまわないという考えだが、現実には、殺人や盗みをするなど悪事を犯すようなものではなかったようである。造悪無碍派の実態は、旧仏教のいう仏罰をおそれず、弥陀一仏を信奉し、諸仏諸神を礼拝せず、しかもこのことを人目もはばからず堂々とおこなう人々であった。その意味では、若々しい信仰集団の粗暴な自己主張であったようであるが、既存諸派や世情の安定を意図する幕府を刺激しないではおかなかった。
 建長四年から六年のあいだ、関東では造悪無碍の異義を主張する一派と、念仏だけでなく、さまざまな善行をして浄土往生を願う専修賢善派、下総国横曾根道場主の性信を中心とする正信派とが三つ巴の激しい争いを繰りひろげた。
 傘下の門徒の数を増やし、親鸞と深くむすびついている正信派を何とか圧倒しようと、異義派はさまざまな策謀をめぐらし、鎌倉幕府へ訴訟をもちこんだ。専修賢善派が、地頭名主らと結託して起こしたもののようである。
 このときは武士である性信が、念仏教団に反幕府の傾きのない旨の陳状をさしだしたので、裁判はもつれることなく解決したが、門徒内の紛争はなかなか収まらなかった。
 親鸞は、信頼する長子善鸞を関東にざしくだすことにした。善鸞は親鸞が法然門に入る三十歳前後に生まれたと推測され、五十歳前後であった。
 善鸞は関東にゆけば、門徒のすべてが自分を親鸞の後継者としてうけいれ、組織の頂点にある父の名代としてあがめ結集してくれるにちがいないと思っていた。しかし三派に分かれて激しく争う門徒を統率できるだけの指導力を善鸞はもっていなかった。
 はなばなしい成果を得られないままに、善鸞は支配階級に支持者の多い専修貿善派に近づき、造悪無碍派はもちろん、性信、真仏につながる正信派をも圧迫しだした。正信派が親鸞と直接につながり、性信にしても真仏にしても自らの地位を危うくする善鸞の東下をよろこばなかったという事情もあったようである。善鸞は、弥陀の第十八願を「しぼめる花」であるとして捨てよと念仏者たちに説き、その一方で幕府に正信派への弾圧を要望した。親鸞の教えから大きく逸脱していることはいうまでもない。
 幕府の弾圧が始まると、建長七年(一二五五)九月二日付けで、親鸞は関東の弟子たちに弾圧を受けても抵抗せず、彼らのために念仏せよと指示した。親鸞は善鸞の行動を知らなかったのだ。
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