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<本文から> 高天神城は駿遠交通の要所に位置し、難攻不落の要害として知られていた。一望平坦な田園のなかにあるが、束南北の三方を断崖絶壁に囲まれ、西方は硲谷と唆しい尾根につづく、攻むるに難く守るに易い、東海唯一の山城であった。
武田信玄は元亀二年(一五七一)春、駿遠制覇の拠点とすべく、高天神城に二万の大軍をもよおし来攻した。だが、十数日ののちに攻囲を解き信州に帰国した。容易に抜けないものと、見通しをつけたのである。
信玄のあとをうけた勝頼が、ふたたび高天神城を狙ったのは、父の落せなかった堅城を抜き、わが武威を内外に誇示したかったためといわれている。
天文五年(一.五三六)以来、高天神の城主を世襲している小笠原氏の出自は甲斐源氏武田氏である。信州深志城主小笠原貞朝の長子長高が、高天神小笠原の祖にあたるといわれていた。
代々今川氏に属しており、長忠の父氏清は、永禄三年(一五六〇)五月、高天神城兵を率い、今川義元に従い桶狭間の戦いに出陣した。
長忠は永禄十一年(一五六八)今川氏衰退にともない、武田信玄の宿将秋山晴近に招かれた。いったんは武田氏に属することとしたが、一族の三州幡豆の城主小笠原新九郎が高天神城へきて、徳川家康の懇望を伝えたため、徳川氏の配下となったものである。
天正二年の春がたけてゆくにつれ、城中に詰めている将卒の緊張はたかまってゆく。
曲輪の広庭では武器の手入れ、組打ち稽古、鉄砲、弓の試射が連日おこなわれていた。
城中から達夫を競いあう侍たちの喚声が、三の丸の小座敷で景色を眺めている月若とおうんの耳にも風にのってとどく。
「まものう合戦がおこりましょうぞ。そのときは若さまと抱きあって、ここに隠れておりましょう」
おうんのささやきに、月若はうなずく。彼には合戦の意味はさだかに呑みこめていなかった。 |
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