津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          新陰流小笠原長治

■東海唯一の山城・高天神城

<本文から>
 高天神城は駿遠交通の要所に位置し、難攻不落の要害として知られていた。一望平坦な田園のなかにあるが、束南北の三方を断崖絶壁に囲まれ、西方は硲谷と唆しい尾根につづく、攻むるに難く守るに易い、東海唯一の山城であった。
 武田信玄は元亀二年(一五七一)春、駿遠制覇の拠点とすべく、高天神城に二万の大軍をもよおし来攻した。だが、十数日ののちに攻囲を解き信州に帰国した。容易に抜けないものと、見通しをつけたのである。
 信玄のあとをうけた勝頼が、ふたたび高天神城を狙ったのは、父の落せなかった堅城を抜き、わが武威を内外に誇示したかったためといわれている。
 天文五年(一.五三六)以来、高天神の城主を世襲している小笠原氏の出自は甲斐源氏武田氏である。信州深志城主小笠原貞朝の長子長高が、高天神小笠原の祖にあたるといわれていた。
 代々今川氏に属しており、長忠の父氏清は、永禄三年(一五六〇)五月、高天神城兵を率い、今川義元に従い桶狭間の戦いに出陣した。
 長忠は永禄十一年(一五六八)今川氏衰退にともない、武田信玄の宿将秋山晴近に招かれた。いったんは武田氏に属することとしたが、一族の三州幡豆の城主小笠原新九郎が高天神城へきて、徳川家康の懇望を伝えたため、徳川氏の配下となったものである。
 天正二年の春がたけてゆくにつれ、城中に詰めている将卒の緊張はたかまってゆく。
 曲輪の広庭では武器の手入れ、組打ち稽古、鉄砲、弓の試射が連日おこなわれていた。
 城中から達夫を競いあう侍たちの喚声が、三の丸の小座敷で景色を眺めている月若とおうんの耳にも風にのってとどく。
「まものう合戦がおこりましょうぞ。そのときは若さまと抱きあって、ここに隠れておりましょう」
 おうんのささやきに、月若はうなずく。彼には合戦の意味はさだかに呑みこめていなかった。 
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■鶴寿丸は初めて人を殺めてから生死の疑問が離れず心が乾く

<本文から>
 鶴寿丸は、長忠と孫兵衛の教示をわが信条として、頭に焼きつけている。
 敵にむかって、存分のはたらきをあらわすことができれば死んでもよいと、本気で思っていた。
 (死ねば、いずこへゆくのであろうか)
 鶴寿丸はひとり稽古に疲れきって、土間に腰をおろし、近習の汲んでくる白湯を口にしているとき、ふだんから心にかさねている問いかけが、胸に湧く。
 人は本来仏であり、肉体は借りものにすぎないため、身は亡びても本来のわれは消滅しないというのが、禅の教えを信奉する長忠の口癖であった。死んだ人はこの世によみがえれないのに、自分は消滅しないという理凰が、鶴寿丸にはのみこみにくかった。
 彼は自分の手で与八の息の根をとめてのち、人の生死についての疑問が、頭をはなれなくなったのである。
 勢いにのって、斬りつけてきた与八に死にものぐるいで立ちむかい、踏みこんでその脇腹をえぐった感触が、彼の右手にのこっている。
 鶴寿丸の眼つきは、命の瀬戸際まで追いつめられた鮮烈な体験をさかいに、一変した。以前は、荒びた遊びをする下人の子供たちにさえ気圧され、右投げ合戦にも怯えた彼が、油断なく辺りをうかがう沈んだ眼光に、大人の侍たちでさえ遠慮させる威厳を宿している。
 鶴寿丸は、おなじ年頃の子供など眼中になくなった。彼は曲輪うちで出会い、すれちがう侍たちを見るとき、脇腹のあたりにするどい一瞥をそそいだ。
 敏だらけの鎧下に包まれた腹をみると、与八の体に小脇差を刺しいれ、えぐった記憶がよみがえってくる。
 その記憶には、ふしぎに誘われるものがある。鶴寿丸の双時には野性の殺気がにじみでて、彼と視線をあわす者を射すくめた。
 吹雪の荒れる日が多かった一月がすぎ、白梅がつぼみをひらきそめてくる頃、鶴寿丸は日中のあいだは小具足、陣太刀をつけた武装で身をかためておくよう、長忠から命ぜられた。
 いつ、どのような異変がおこるかも知れないからであった。
 彼は晴れた日には、二の丸の奥庭に咲いている梅の老木の下で、西方の山なみに眼をやることがあった。
 うすむらさきにかすむ山影のかなたの低地には、おうん、淡路がいるはずであった。淡路が失踪したのちは、鶴寿丸の身辺から女中が遠ざけられていた。
 鶴寿丸は二人の女性の肌のかおりを思いだそうとするが、記憶はうすらぎ、とらえどころもなかった。
 いまは汗くさい皮革と甲胃の金気のにおいにとりまかれて、鶴寿丸の気持はたけだけしく、乾ききっていた。
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■鶴寿丸は臆病者として悩む

<本文から>
 盗賊どもは、大人ばかりではなく小童までも、刀の錆にしていた。芥子坊主の脳天を斬り割られ、くいしばった歯で舌先を噛み息たえている子供のなきがらをみると、棒猛な足軽も眼をそらせた。
 行列の先頭に鶴寿丸と馬首をならべている林平六が、話しかけてくる。
「拙者どもは、若さまのおかげで危ういところを斬りぬけられ、命びろいができ申した。こたびもまた敵を討ちとめなされて、功名をあげられ、いまだ前髪の御身にてまことに栴檀は双葉よりかんばしというは、若さまのことにてござろうよ」
 鶴寿丸は黙ってうなだれたまま、馬をすすめた。
 彼は、自分の身代りとなって敵にたちむかい、討ちとられた二人の近習に、胸のうちで詫びた。
(儂は事にのぞんで、ものの用に立たぬ臆病者じゃ。手足も動かず眼路もまっくらにかすんでしもうては、怖れ迷う心の病いとしか思えぬ。よく考えてみれば、与八を討ちとめたのも、逃げまどい追いづめられたあげく、切羽つまって太刀打ちをしたばかりのことであった。こたびもおなじじゃ。敵に仕かけられ、進退に窮してようやく小手を打ちおとしたまでであれば、儂はとても勇者ではない。なさけない小胆者に生れついているのじゃ)
 彼はひたすら自分を責めた。
 家来が息の根をとめられようとしたとき、助けにゆけなかったのは、武士の恥辱であった。
 鶴寿丸の体内から自信が消えうせ、甲胃をいかめしくよろうた身を、馬上にそらせてゆくのがはずかしい。
 行列のなかほどに、女人をのせた網代興がいくつか人足に担がれてくる。そのひとつにろうたけた娘に成長したお菊が揺られていた。鶴寿丸は、お菊の眼差しを背に感じていたが、気持は浮きたたなかった。
 (儂は兄者のように、衆にすぐれた将器ではない。死ぬのがおそろしく、太刀うちの場に出れば心気も動転する、とるにたらぬ葉武者の器量しかないのじゃ。かようなことでは、武士として生きてゆくのはおぼつかない。帰城したのちは、兄者にたのみ出家の道をえらぶしかなかろう)
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■元服して長治の剣技はとぎすまされていった

<本文から>
「間切りとは」ふつうはゆるやかに太刀をつかう、組太刀の形稽古を、真剣での斬りあいのときと同様の、間髪をいれない迅速な太刀はこびでおこなうことである。
 ふつうは、剣技の位のたかい相手と間切り稽古をすれば、初心者は圧倒され萎縮して、間積りを誤り打ちこまれることになる。
 初心の鶴寿丸も、当然そうなるものと孫兵衛は予想したが、案に相違して太刀遣いの乱れはなかった。
 孫兵衛は、まさか鶴寿丸に間積りのできるはずもないかと不審に思うまま、試合を命じた。
 試合とは相手のうちこん.でくるしないを、新陰流便太刀の技で、臨機応変に村抗することである。
 孫兵衛は鶴寿丸にうちこんでみて、おどろきをあらたにした。鶴寿丸は、孫兵衛のするどい太刀先を避けそこなうことはあっても常に間積りを誤まることがなかったのである。
 小田原城にいて、元服をすませ青年となるうちに、長治の剣技はとぎすまされていった。一合の桝には一合の水、一升の桝には一升の水しかはいらぬとは、新陰流二世柳生石舟斎のいうところであったが、長治は衆にすぐれた大器であった。
 新陰流の太刀儀を体得した長治は、北条家中の他流儀を学んだ剣客たちと試合をして、おくれをとうナとがない。それは上泉流祖が編みだした、敵に勝つための自在の太刀はこびに、忠実に従っているためであった。
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■死の危険中で暮らしをつづけておれば、しだいに心が乾いてくる

<本文から>
 長治は生きていて、何事をなすのもつまらぬと思うようになっていた。
 いま秀吉という成りあがり者が、その昔の平相国入道清盛のように、位人臣をきわめ、日本国をわが手のうちにして、あたるべからざるいきおいだが、彼もいずれは死ぬ。
 小田原城は攻めおとされるかも知れないが、勝敗がいずれに下ろうと、五十年も経てばおおかたの人は死ぬのである。
 長治は円座をひきよせ、枕がわりに頭のしたに敷き、すのこの天井をみあげた。
(儂は生きていたくはない。死ねば、またあらたな別世界が眼のまえにあらわれるかも知れないが、死ぬのはおそろしい。斬られたならば痛かろうし、息がつまれば苦しかろう。死ぬのがいやさに、生きているだけだ)
 前途に生きる目的をみいだせず、死の危険にとりまかれての暮らしをつづけておれば、しだいに心が乾いてくる。
 長治は二度、人を斬った経験により、死の恐怖を克服する胆力を、身につけることができたとはいいがたかった。かえって臆病になったほどである。人を斬って考えが変ったことといえば、大兵の男に気圧されなくなったことだけであった。
 いかに大柄で力がつよくとも、刀の的になればはかないものであった。刃筋を立てて斬りおろす刀は、牛のように逞しい男の五体をも、音もなく斬り裂く。
 合戦の場数を踏んだ人斬りの達者には、小男がいくらでもいた。彼らはひとめ見ただけで、余人とはことなる異様な気魄を、双眼にみなぎらせていた。
(あいつらは獣だ。儂は試合では敗ける相手がいないが、斬りあえば、狂いたって掛かってくる血に渇いた奴らに、やられるかも知れぬ)
 合戦の場で、狂気に駆られ襲いかかってくる敵に倒される、わが姿が目先にちらつき、長治は胸もとをしめつけられる。
(儂には、お菊殿だけが生甲斐じゃ。お菊殿をわが胸のしたに組みしいているときだけ、この世の苦しみを忘れられる)
 長治はお菊のひきしまった裸形を思いうかべ、想像のうちで抱きしめる。
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■北条攻めで危険が迫っても恐怖を覚えない境地に至る

<本文から>
 合戦となれば太刀をとって敵と斬りあうのに、技も法もいらない。ただ豪力と強靱な神経があればよいという一軒は、戦場往来をかさねた古強者のあいだに、根づよく残っていた。
 だが、鉄砲が発達するにつれ、戦場での武装がしだいに軽量になってきた。敵味方がたがいに迅速な進退ができるようになると、斬りあいに刀法が必要となる。長治のような剣の練達者が、戦場で殊功をたてる花形となるゆえんであった。
 長治のわが拳を守り、敵の拳を切っておとす「肋一寸」の技は身についたもので、敵の動きにあわせ、自然に発する。
 いざとなれば、無意識のうちに、相手の動きの裏をとる太刀をくりだすことができるのだと、長治は自信を持っていた。
 しない、木太刀をとっての試合の際には、こう払い、こう受けねばといちいち考えなくとも、自然に体が動き、手が出る。敵の物見を襲ったときも、長治は試合のときと同様に白刃を手に無心に動くことができた。
 彼は、敵の大軍が押し寄せてくる危険が迫っているのに、なぜか恐怖を覚えなかった。
 (儂はこたびの戦で、死ぬかも知れないと思えぬ。かならず生きのびられると思えてしかたがない。なぜこのような気がするのか。きっと、武神、先祖のご加護が冥々のうちにこの身に下っているのにちがいない)
 彼は小笠原家代々の霊が合戦に先んじて、わが身辺に集い寄ってきてくれていると信じていた。
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■八重山まできて二方楷に惨敗

<本文から>
 夜が更けても、長治は寝つけなかった。風が出て庭木が騒めいている。遠くの海上で雷が鈍く鳴っていた。         
 長治は、女性のあやつる異様な武器に、自分が長年月をかけ鍛練してきた太刀技がまったく通じず、惨敗を喫した衝撃から立ちなおれずにいた。
 彼は戦場で、槍、・薙刀を相手に戦い、おくれをとったことはなかった。いかなる得物を相手に戦っても凌げないことはないという自信が、いまになって貧弱な二方楷のために、くつがえってしまった。
 なぜ敗けたのであろうかとふりかえってみると、棒の先端に鎖でとりつけた八寸の延矩のためである。
 鋼の延矩は棒が一回転するあいだに幾回転かする。棒の打ちこみが防げても、延矩に打たれるのは、刀を振る速さが延賂の回転に追いつけないためであった。
 (やはり世間はひろい。異国には思いがけない武器があるものじゃ)
 長治は二刀をはじきとばされたときの衝撃を、思いだす。
 (二方楷の術を習うて日本へ帰れば、一流をたてられるかも知れぬ。いや、刀法では及ばない兵法として、天下に名が聞えるちがいない。立ちあいに打ち敗かされたは口惜しいが、思うてみれば八重山まで参りし甲斐があったと、いうものかも知れぬ)
 長治は翌日から、二方楷の術を麓華に教わることとなっていた。
 ねむの花冠を思わせるたおやかな麓華の面輪を、長治は脳裡にうかべる。彼は麗華に二方楷のてほどきを受けるようとの、胡成光の指図を聞いたとき、おどろかざるをえなかった。
 日本では、男女が席をおなじくするのに、さまざまの窮屈な制約があった。唐人にはそのような男女のわけへだてはないのであろうかと、長治はふしぎであった。
 (あの娘は、どこか面ざしがおうんに似ている。おうんは、もっと浅ぐろい肌であったが、ひきしまった横顔が、どことなく似通うているようじゃ)
 長治は、楷の技を麗華に習うのが、なんとなく待ちどおしい思いであった。
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■明国へ渡海するも帰国して真新陰流を創始する

<本文から>
 長治は麗筆とわかれるにしのびなかったので、異郷に骨を埋める気で、明国へ渡海したのである。
 麗筆さえおれば、どこで暮らしてもおなじことだと思いきめ、気候の温暖な広東の地で月日をすごす。奥山流の道統を世に伝えねばならない責務も、彼は忘れていた。
 悠々とかわらない天地の運行からみれば、人の命はまたたく間に尽きる。わが望むがままに生き、終焉のときを迎えればよいと、長治は考えていたのである。
 だが、長治は二年後、大明から交易船に乗り、日本へ帰国した。かの地へ渡って一年も経たないうちに、麗華が出産がもとで、母子ともに世を去ったからである。
 帰国した長治は、麗筆をしめぶただひとつのよすがである二方楷をひっさげ、江戸に出た。
 長治は小笠原源信斎と名乗り、奥山流剣衛を教えるかたわら、「八寸の延矩」と称し、二方楷の法をも伝授した。
 彼の二方楷の技は、剣術に対するとき、はなはだしい強みをあらわし、諸方の名人達者といわれる兵法者が、立ちあっては片端から打ちやぶられた。
 あまりの強さに、たとえ剣聖といわれた上泉伊勢守が生きていて、立ちあっても、「八寸の延矩」には勝てまいと、曝されるほどであった。
 源信斎の道場は、門弟が押しあう有横で、一時は門下三千人と称したこともあったといわれる。のちに真新陰流を創始した源信斎は、功成り名遂げたしあわせな晩年を送った。
 だが、本人は成功を自慢する気持など、さらになく、出家遁世した心境であった。彼は麓華に先立たれ、やむなく帰国したあと、生きる希望もないままに江戸へ出ただけのことであった。
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